1.遠見山砦
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 140m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | 猪 | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 20m | ||
所要時間 | - / 3分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪 |
歴 史 | 来島村上氏の物見砦。来島城が一望できる。 |
駐車場 | 海山城展望公園 駐車場 – Google マップ |
住 所 | 愛媛県 今治市 波方町 波方乙497 |
トイレ | 駐車場にあり |
訪問日 | 2022年11月27日(日)晴れ |
※今治城遠景
ホテルから見る今治城。
1-①駐車場&登城口
今治城近くのホテルから20分。海山城展望公園の駐車場に到着。
この階段と、
この坂を上ると、
1-②本丸
遠見山砦に到着。所要時間2~3分。
本丸。遠見山砦は、1300年前から、番所(見張り台)として使用されていたという。鎌倉時代には信濃村上氏の庶流が芸予諸島へやって来て勢力を拡大し、遠見山砦もその支配下に入った。その村上氏には息子が3人おり、長男は能島、次男は来島、三男は因島をそれぞれ本拠地とした。伊予村上氏もしくは三島村上氏と呼ばれるが、「村上水軍」や「村上海賊」という呼称のほうが一般的だろう。
模擬天守型展望台。もちろんこのような建物がここに建っていた歴史はないが、史跡であることをアピールするには分かり易い。
展望台から見る、しまなみ海道と瀬戸内海の島々。
大小2つある島の内の手前の小さい方の島が来島で、来島村上氏の本拠地・来島城があった。
2.能島城
形 態 | 海城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 30m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
指 定 | 国指定史跡、続日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、切岸、犬走り |
歴 史 | 能島村上氏の本拠地。戦国末期の当主は村上武吉-元吉。 |
駐車場 | 能島水軍潮流体験船・水軍レストラン – Google マップ |
住 所 | 愛媛県 今治市 波方町 波方乙497 |
トイレ | 乗船場(レストラン能島水軍) |
訪問日 | 2022年11月27日(日)晴れ |
遠見山砦から約30分で、レストラン能島水軍に到着。予約している「能島城跡上陸&潮流クルーズ」の出航時間にはまだ余裕があるので、先に村上海賊ミュージアムへ。
2-①村上海賊ミュージアム
村上海賊ミュージアム。
「村上海賊の娘」のレリーフ。「村上海賊の娘」は、三島村上氏の全盛期を築いた能島村上武吉の娘・景を主人公とし、天正4年(1576年)の第一次木津川の戦いを舞台にした、長編歴史小説である。漫画化もされている。
村上海賊の名を全国に知らしめた、高い機動力を誇る小早船(復元)。写真は見切れているが、船の側面には「武吉」と書かれている。当時の船に当主の諱が書かれていたはずはないが、「村上武吉」の名をアピールするには良いと思う。
村上景親像。父・武吉と兄・元吉亡き後、能島村上家を継いだ。「村上海賊の娘」にも登場し、主人公で姉の景に振り回される愛嬌のある弟として描かれている。その後、能島村上家は代々景親の子孫が継いでいき、令和の現在、景親から数えて16代目の方が当主となっている。
能島城の復元図。戦国の城の復元図でおなじみの香川元太郎さん作。村上海賊ミュージアム内はほとんど写真撮影禁止となっている。時間になったので、クルーズ船の乗船場があるレストランへ。
2-②潮流クルーズ
レストラン能島水軍の中が受付で、その反対側へ出ると、乗船場がある。今現在、能島城へのアクセスはこのクルーズのみとなっている。
いざ出航!
出航から5分。目的地が近くに見えてきた。左のお椀のような島は鯛崎島(鯛崎出丸)。右の島は能島で、三角形の手裏剣のような形をしている。これらを総して能島城と呼ばれる。
能島には、6つの曲輪がある。左の独立した曲輪は四の丸で、東南出丸と呼ばれる。右の一番高い曲輪が本丸で、その下が二の丸。手前の海岸線は東部海岸と呼ばれ、船を繫留して修理・メンテナンスを行っていた。
能島の北東にある五の丸。矢櫃と呼ばれる。
島の北側へ。
矢櫃の北側は潮の流れが荒い。
激しく形を変え続ける潮の流れは、山城のどんな堀より強烈な防衛線だろう。
能島の北側の岸は、船だまりとして使用していた。右に見える曲輪は三の丸で、当主の住居があった。
荒波に削られて今はわずかに残るのみだが、海岸線に沿って犬走り(犬が通れる程度の幅の細い帯曲輪)がある。
船だまりのある北側から、反対の南側へ。
能島の南側。
能島の南側は「南部平坦地」と呼ばれる6つ目の曲輪だ。物資の荷揚げ、作業場、軍事演習など、多目的広場として使用していた。
ここから上陸する。
2-③能島城上陸
南部平坦地。
南部平坦地から三の丸へ上った。「しまなみ海道」の伯方大島大橋が見える。
三の丸の端から見る切岸は、まさに海上の要塞。
重機のある曲輪は二の丸。その上にプリンのように乗っている曲輪は本丸。
本丸。
本丸から鯛崎出丸を見る。
こっちは矢櫃。
三島村上3氏は互いに一門衆ではあるが、領地の関係で立場は異なっていた。本州に隣接する因島村上氏は安芸の毛利氏と、四国に隣接する来島村上氏は伊予の河野氏と、それぞれ親交があった。とは言え、毛利氏と河野氏が仲が良いため、因島と来島が対立することはなかった。
一方、能島村上氏は少し事情が違った。本州とも四国とも離れているため、毛利氏や河野氏の顔色をうかがう必要はなく、3氏の中では独立性が強かった。しかし元亀2年(1571年)、能島村上武吉が毛利氏と敵対している備前の浦上宗景に味方し毛利氏を攻撃したことが発端で情勢は変わる。翌年、毛利元就の三男・小早川隆景を大将とした小早川-因島村上-来島村上の連合軍の袋叩きに遭い、村上武吉は、毛利氏に恭順するようになった。(この頃の毛利家当主は19歳の毛利輝元だが、実質的なリーダーは叔父の吉川元春と小早川隆景の両川体制。)
村上武吉は、毛利氏の備中平定の折には小早川隆景に祝儀を贈り、大坂本願寺を援護するため織田信長との全面戦争を決断した元春と隆景に従い、木津川の戦いでは毛利方の主力として織田水軍を撃破した。もっとも、その時の能島水軍の大将は嫡男の村上元吉で、自身は能島城にいたが。
そんなタイミングで、村上武吉は小早川隆景から1人の幼児を託された。2歳になるその子供は、名を「馬場六大夫」と言った。誰の子か? なぜ武吉に託すのか? 恐らく隆景は何も話さなかったのではないかと思う。
馬場六大夫が生まれたのは天正元年(1573年)東美濃の岩村城である。父は武田勝頼の重臣で、岩村城城主・秋山虎繁。母は織田一門で遠山景任の妻だった おつやの方。秋山虎繁が岩村城主となり、おつやを娶った経緯については、岩村城のセクション【東美濃*遠山七頭】🔎で詳しく書いている。
元亀3年(1572年)、岩村城の女城主・遠山おつやは、織田信長の五男で遠山家の養嗣子である御坊丸を助命するため、秋山虎繁と結婚し、岩村城を明け渡した。そもそも織田と武田は前年まで同盟関係で、遠山はその双方と同盟を結んでいた。秋山は武田家の、おつやは織田家の、同じ東美濃エリアの外交担当だった。かなり昔から2人は顔見知りであった可能性はあり、秋山がおつやに一途に惚れていた可能性もある。この時秋山は45歳で、すでに娘がいたとされるが、正室のおつや以外に妻がいた記録はない。
秋山虎繁とおつやは、結婚後すぐ男の子を授かった。しかし幸せは長くは続かなかった。天正3年(1575年)越前の朝倉と北近江の浅井を滅ぼした織田信長は、武田攻めに主力を投入し、奥三河の長篠・設楽原にて武田勝頼を討ち破った。同年、岩村城も織田方に攻められ、秋山は降伏した。そして助命嘆願のため面会に来た秋山を信長は捕え、逆さ磔にした。その際、妻のおつやも一緒に逆さ磔にされているのだが、ここで疑問が残る。おつやは信長の父・信秀の末妹で、信長にとっても年下で妹のような存在だった。御坊丸の助命に成功した彼女の手腕を、信長も評価していた。子の名前が「六大夫」なのも、五男の御坊丸に配慮してのことだ。信長とおつやの関係が悪化していた事実は無い。だとすると考えられるのは、おつや自身が秋山と同じ仕置きを望んだから。ではなかろうか? 親族を何よりも大事にした信長が、自身の決断で死に至らしめた人物は弟の信勝とおつやだけ。どちらも本当は死なせたくなかったのだと思う。岐阜に送られた秋山とおつやは並んで逆さ磔にされ、ほぼ同時にこの世を去った。
織田方は秋山とおつやの子を捜したが、六大夫はどこにも居なかった。岩村城が包囲される前に、2人は密使に六大夫を預け、小早川隆景を頼って安芸の国へ向かわせていた。「秋山」や「遠山」を名乗る訳にはいかないので、姓は「馬場」とした。武田四天王の1人として名高い「馬場信房」をリスペクトしたものだ。
そんな出生の秘密を持つ馬場六大夫を、小早川隆景は村上武吉に託した。六大夫は秋山の子である以上、織田に擦り寄ろうとする者に見つかったら連れ去られてしまう。秋山と隆景が面識があったかどうかは分からない(恐らく面識はない)が、武田の名将・秋山虎繁の名は知っていただろう。大人物の子息を頼まれたのに簡単に失っては、武士の名折れとなる。この時、隆景にとって最も信頼出来る男が村上武吉だったのだろう。
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慶長5年(1600年)石田三成が挙兵し、毛利輝元を旗頭として徳川家康へ全面戦争を挑んだ。
馬場六大夫は27歳の武者に成長し、能島村上家当主・村上元吉(47歳)の家臣となっていた。能島村上氏は豊臣秀吉に逆らったため芸予諸島の領地を取り上げられたが、小早川隆景から安芸東部・竹原に領地をもらい、以来竹原を拠点としていた。
三成の挙兵により、世は戦国時代に逆戻りしたかに思えた。智将として名高い全国の諸将達(上杉家の直江兼続、小県の真田昌幸、九州の黒田官兵衛etc.)がこぞってそう思った。村上元吉も皆と同じで、芸予諸島への返り咲きを目論み、伊予松前城へ攻め込んだ。初戦は大勝利に終わったものの、勝利酒を飲んで寝ているところを加藤嘉明軍の夜襲を受け、村上元吉、馬場六大夫ともども命を落とした。
馬場六大夫に諱は無い。普通、武士は元服したら「信長」や「家康」のような2文字の諱を付けるのだが、六大夫は27歳の生涯を終えるまで、幼名を名乗り続けた。「六大夫」は両親との唯一のつながりだから、その名にこだわったのではないだろうか?
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