2023年2月11日(土)晴れ[1/2]
1.岩津城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 50m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
指 定 | 岡崎市指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、横堀、土橋、馬出、虎口 |
歴 史 | 松平宗家2代・松平泰親と、3代・松平信光の城。 |
駐車場 | 岩津天満宮の境内 第1駐車場 – Google マップ |
住 所 | 愛知県 岡崎市 岩津町 東山52-4 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
1-①駐車場

岩津天満宮を目指し、早朝に到着。

岩津天満宮の駐車場に車を停めさせていただく。
1-②登城口

東名高速道路の上の高架を渡るとすぐ、岩津城の登城口がある。

この通路の右側が城址なのだが、それは本来の岩津城の北側半分のみで、今は宅地化されて遺構は残っていないが、南側にもう半分の岩津城があった。
1-③丸馬出


土橋。

土橋の先に丸馬出がある。元亀2年(1571年)に武田信玄によりこの岩津城は攻め落とされ、しばらく武田領となった。丸馬出はその際に造られたものと思われる。
1-④本丸

丸馬出から本丸へ連絡する土橋。

本丸。

インフォメーションスペース。

本丸から見る虎口。

岩津城は、松平宗家2代・松平泰親と、3代・松平信光の城として知られている。一族のルーツは平安時代の京都の公家・在原業平で、室町時代初期に在原親氏が地頭として三河松平郷を拝領し、松平親氏と名乗ったのが始まり。親氏の死後、嫡子・信光はまだ幼少だったため、親氏の弟・泰親が2代目となった。泰親と信光はより豊かな土地を求め、松平郷からこの岩津へ領地を拡大した。
その後、信光が当主の時にさらなる領土拡大を目指し、岡崎と安祥を攻め落とした。文明8年(1476年)に、本城を安祥城へ移し、岩津城は支城とした。

本丸北側の段曲輪。
2.岡崎城
指 定 | 岡崎市指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀、[再建]天守、門 |
歴 史 | 岡崎城は、大永4年(1524年)に松平宗家7代・松平清康の領地となる。その後、代々松平宗家の本城として使われる。徳川家康が生まれた城として知られている。 |
駐車場 | 岡崎公園 駐車場 – Google マップ |
住 所 | 愛知県 岡崎市 康生町561-1 |
トイレ | あり |
2-①駐車場+多目的広場

岩津城から約20分。岡崎城は愛知県岡崎市康生町にある。「康生町」は「家康が生まれた町」から付けられた町名だ。私は岡崎城3回目にしてようやくそれに気づいた。
駐車場(三の丸)の隣の多目的広場(菅生曲輪)で、マルシェが催されていた。その上に見える城郭は、再建された東隅櫓と城壁。

石垣の上にある二の丸へ。
2-②二の丸

二の丸にある、徳川家の家紋・三つ葉葵の花時計。
a) 大河ドラマ館

今回岡崎城に来たお目当てはこれ。2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送期間中だけ開催している「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」。織田信長役の岡田准一さんや登譽上人役の里見浩太郎さんが実際にドラマの撮影で着ていた衣装も展示されていた。再度撮影がある際は、展示を一時中断し、撮影現場へ衣装を持って行くとの事。

家康時代の岡崎城の絵。戦国時代を見てきたかのようなリアルさに思える。

松平元康(徳川家康)が今川義元から拝領した金色の具足。

それぞれの国の設定が書かれている。バックボーンがしっかり造り込まれ、良くも悪くも(私は良いと思うが)ファンタジー大河と呼ばれる骨格を形成している。
b) 二の丸

徳川家康像。

岡崎城天守(正面)と本多平八郎忠勝像(右)。
c) 空堀

二の丸と本丸の間は、二重の空堀で守られている。

二の丸と持仏堂曲輪の間にある、一つ目の空堀。
d) 持仏堂曲輪

持仏堂曲輪の虎口。

持仏堂曲輪。堀に面した側に土塁がある。

持仏堂曲輪の土塁の上から見る二の丸。

持仏堂曲輪から見る岡崎城天守。その間には二つ目の空堀・清海堀がある。正面の橋は通行不可なので、左へ回り込む。
e) 清海堀

持仏堂曲輪と本丸の間にある清海堀。

清海堀と天守。
2-③本丸

本丸に建つ岡崎城天守。現存する天守台の上に再建された復興天守。

城内にある岡崎城のジオラマ。大河ドラマ館にあった戦国期の絵の岡崎城からは想像出来ないほど変化しているが、大手門と本丸の位置は変わっていない。
豊臣政権時に岡崎城主となった田中吉政により、岡崎城天守は築かれた。田中吉政といえば、豊臣家の若き後継者・豊臣秀次を支える五大老の筆頭となった人物だ。天正18年(1590年)の小田原攻めの後、東海甲信5ヶ国を有する徳川家康は北条氏の旧領・関八州(江戸のある武蔵を始め関東全域)へ転封となり、空いた三河岡崎には、田中吉政が5万石で入封した。

天守から見る景色。南側は戦国期には大手門があり、城の正面だった。田中吉政時代には丸馬出もあった。

東側は、菅生曲輪(現・多目的広場)と三の丸(現・駐車場)がある。

北側は二の丸。現在の大手門はこっちだ。(大手門の写真を撮り忘れた💦)
コメント