目次
山手銀山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 230m | 整備度 | ☆☆--- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 50m | ||
所要時間 | - / 8分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、畝状竪堀、竪土塁 |
歴 史 | 備後の国衆・杉原豊後守、杉原盛重の城。毛利氏に臣従し、神辺合戦後、神辺も領土とした。永禄6年(1563年)杉原盛重は、伯耆・尾高城も任され、対尼子氏の西伯耆戦線の指揮官として活躍した。 |
駐車場 | 山手銀山城東側の路肩-Google マップ |
住 所 | 広島県 福山市 山手町 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年8月13日(日)快晴 |
1.登城口
県道463号線を北へ走り、山陽自動車道の高架下を通って「弘法の池」を目指して進むと、この四叉路に出る。
四叉路を右へ入ってすぐ、駐車可能なスペースがある。車はここに停めるのが無難なのだが、ここからだと山手銀山城の登城口まで歩いて20分かかる。
なので登城口まで車で来た。この先の三叉路でUターンし、登城口の路肩スペース(車2台分あり)に反対向きに停める。舗装道はほぼ車1台分の道幅なので、ここ以外で対向車に出くわすと、最悪どちらかが数百mほどバック走行しないといけなくなるので覚悟が必要だ。
山手銀山城の縄張り図。城郭放浪記様の許可を得て転載させていただいた。
ここが登城口になる。城址を示す看板や石碑は何も無い。
2.畝状竪堀群
明瞭に残っている竪堀。看板もリボンもないが、縄張り図を頼りに登って行く。
土橋と堀切。
3.主郭部
①本丸
登城口から8分程度で本丸に到着。
山手銀山城の城主は杉原盛重という。天文2年(1533)の生まれなので、毛利元就の三男・小早川隆景と同い年。備後の国衆で毛利氏の重臣として活躍した人物なのだが、主要人物とは思えないほど家系図などの文書は残っておらず、杉原家についてはほとんど何も分かっていない。確かな史実は3つのみとされる。
1つ目は天文16年(1547)の神辺合戦で、山名理興が籠もる村尾城(神辺城)を攻め落とした毛利元就(50歳)は、山手銀山城の杉原豊後守を新たな城主として据え、銀山城と村尾城の2城を兼務させた。この時盛重は14歳。杉原豊後守は盛重の父か、それに相当する人物と考えられる。
2つ目は永禄6年(1563)に伯耆尾高城の城主・行松正盛入道が病死したのち、杉原家の当主となっていた杉原盛重(30歳)がその尾高城を任された。転封ではなく備後南部の所領はそのままで、加増で伯耆西部を与えられたのだった。さらにこれを期に、盛重は毛利家評定衆に加えられた。毛利家評定衆とは、いわば毛利株式会社の経営施策を決める取締役のようなもの。メンバーは毛利一門衆と、毛利家譜代の家臣のみで構成されている。例外として安芸国衆の天野隆重がいるが、隆重は毛利家譜代の宿老・福原広俊の外孫であり、天野家は古くから毛利家と親交のある国衆なのでほぼ譜代家臣といっていい立場。つまり杉原盛重は外様国衆でありながら、ただひとり前代未聞の昇進を果たした。
この昇進を納得させる通説として、尾高城にいた行松入道の妻が、盛重の妻となったという話がある。その女性は毛利興元(元就の兄)の娘だったため、盛重は興元娘と結婚することで毛利一門となり、評定衆に抜擢されたとするものだ。しかしこの時、興元娘は47歳~53歳と高齢であり、その後盛重が2人の男子を授かることを考えると、その説は受け入れ難い。
3つ目の史実。少し遡って天文23年(1554)、宍戸隆家としん(五龍局)の娘・永寿が伊予の大名・河野通宣へ嫁ぐ際、杉原直良の妻が侍女としてそれに同行している。直良は盛重の兄と考えられる人物で、この時すでに亡くなっており、杉原家は次男の盛重(21歳)が継いでいた。1人身の直良妻は、吉川元春の家老・熊谷信直の姪でもあったため、元春経由で話を持ちかけられ、永寿の侍女になったのだろう。
その年、永寿はおそらくまだ8歳くらいだったと思われる。隆家としんは、毛利家のため断腸の思いで永寿を伊予へ送り出したことだろう。翌年の天文24年(1555)、毛利元就は河野氏との同盟によりその配下の村上氏(村上水軍)を動員し、厳島合戦で陶晴賢を討ち果たした。
厳島合戦での毛利軍の勝利は河野氏との同盟のお陰であり、引いては8歳という幼少の身で遠く四国への輿入れを受け入れた永寿のお陰である。そして永寿の侍女(母親代行)を務めた直良妻の功績も、化粧領(女性に与えられる1代限りの領地)を与えられたことから甚大な評価をされたことが分かる。
直良妻には子がいたという説もある。子がいたなら伊予へ連れて行くわけにはいかず、義弟の盛重に預けていたことだろう。直良妻の後ろ立てにより杉原盛重の異例の昇進が実現したと考えるなら、腑に落ちる顛末である。
東の方角に福山城があるのだが、真夏の木々に遮られて何も見えない。
本丸東側の虎口。
本丸東側の切岸。
竪土塁。
石が散乱している。建造物の礎石か?石積か?
②二の丸
二の丸は本丸より1段低くなっており、その境界線に石が散乱している。恐らく石垣を組んでその上に柵を設け、二の丸と本丸を区分していたのだろう。石の数が圧倒的に足りないのは、元和6年(1620)に福山城を築城する際、ここの石を持っていったからだろうか?
ここは二の丸だが、左の一段高い曲輪は本丸の続き。
③三の丸
二の丸と三の丸の境界線にも石がある。
三の丸。
三の丸東側の虎口。ここがこの城の入口、大手道だろう。山の地形的に西側は傾斜が急なためほとんどが切岸で、虎口・堀・土塁といった城の防衛設備は、東側に集中していることが分かる。
神辺城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 115m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 27m | ||
所要時間 | - / 5~10分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀切 |
歴 史 | 備後支配のため山名宗家から送り込まれた一門衆・山名理興の城。天文16年(1547年)の神辺合戦により、毛利元就に滅ぼされた。 |
駐車場 | 神辺城案内図・神辺歴史民俗資料館駐車場 – Google マップ |
住 所 | 広島県 福山市 神辺町川北6-3 |
トイレ | ・黄葉山中腹の吉野山公園内 ・神辺城の三番櫓跡 |
訪問日 | 2023年8月13日(日)快晴 |
1.登城口
福山城から約40分で、神辺城の駐車場に到着。こちらの小道を登って行けば、神辺歴史民俗資料館に行ける。
そして反対側に登城口がある。
神辺城の案内板。左下の解説によると、神辺城という呼称は廃城後のもので、当時は「村尾城」と呼ばれていたようだ。
本丸へ向かう道は左ルートと右ルートがあるが、曲輪が多いのは前者なので、先に左ルートへ行き、本丸を経由して右ルートで帰ることにした。
2つのルートの間の巨大な岩には、“毛抜堀”という名前が付けられた堀切がある。
左ルートを進むと、三番櫓跡(右)と四番櫓跡(左)の分岐にでた。下から順番に見たいので先に左へ下る。
2.四番櫓跡~二番櫓跡
①四番櫓跡
左の坂を下った先は四番櫓跡になる。
いろいろあり過ぎる。
②三番櫓跡
三番櫓跡にはトイレがある。
三番櫓跡から見る神辺の町。
ここから二番櫓跡へ。
③二番櫓跡
二番櫓跡。この上は、二の丸⇒本丸と続いている。
3.二の丸~本丸
④二の丸
二の丸にある乾櫓跡と書かれた石碑。二の丸にも櫓があったようだ。
二の丸は、東西に細長い曲輪になっている。
二の丸の東端に看板が2つ。左は本丸へ、右は本丸下の石垣へ。
⑤石垣
先に石垣を見に行く。
本丸下の石垣。
⑥本丸
さきほどの分岐へ戻り、本丸へ。
神辺城(村尾城)は、山名一門衆・山名理興の城だったが、天文16年(1547)に毛利元就により滅ぼされた。その次に入ったのは山手銀山城の杉原氏で、杉原盛重の代には毛利家評定衆となり、対尼子氏の西伯耆戦線の指揮官として活躍した。しかし天正9年(1581)に盛重は48歳で病死。長男の元盛が跡を継いだが、翌年の天正10年(1582)織田へ寝返ろうと考えた弟・景盛により、元盛は殺されてしまう。その後「本能寺の変」が起きたため、景盛は織田へ寝返るタイミングはなかったものの、謀反の罪をしっかり咎められ、毛利輝元の命により討たれた。それにより杉原氏は大きく衰退することとなった。
4.荒布櫓跡~鬼門櫓跡
本丸のすぐ下にある井戸跡。
その先にある荒布櫓跡。
曲輪と曲輪が連続していないのが、神辺城の特徴だろう。荒布櫓跡と本丸の動線は、土橋になっている。
神辺城の北東を守る鬼門櫓跡。
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