【淡路:洲本城】安宅冬康の居城にして近世遺構「登り石垣」が良好に残る淡路の城・洲本城へ登る

洲本城の登り石垣 畿内近国
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洲本城

形 態山城址+平城址難易度★★---
比 高130m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ -  /  130m
所要時間5分  /  20分
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、天守台、堀、土塁、切岸、
登り石垣
歴 史 大永6年(1526年)に、安宅治興により築城された。その後、治興の養子となった安宅冬康(三好長慶の弟)が当主となった。天正9年(1581年)には安宅氏(冬康の子・清康)は織田信長による淡路侵攻(大将は羽柴秀吉)に降った。その後、秀吉家臣・脇坂安治の城となり、総石垣の城へと大改修された。国指定史跡となる決め手となった「登り石垣」はこの時築造された。
公共交通電車:舞子駅(JR神戸線)→高速舞子=バス1時間⇒洲本バスセンター=徒歩16分⇒淡路文化史料館
駐車場[下の城]淡路文化史料館 駐車場 – Google マップ
[上の城]洲本城跡 駐車場 – Google マップ
住 所[下の城] 兵庫県 洲本市 山手1-1
[上の城] 兵庫県 洲本市 小路谷1076
トイレあり
訪問日2024年1月28日(日)晴れ

1.下の城

洲本文化史料館

今回は、兵庫県で6番目に人気のお城、洲本城を巡る。洲本城は、日本城郭協会により「続日本100名城」に選定されている。兵庫県は但馬、丹波(一部)、播磨、摂津(一部)、淡路の5ヶ国からなるマンモス県なので、「100名城」の選外になったのは致し方ないところ。淡路国ではもちろん1番の城である。

ここ淡路文化史料館は、江戸期には洲本城の「下の城」と呼ばれ、洲本藩の政庁のあった場所になる。石垣と土橋・水掘は今でも見ることができる。後方にそびえる三熊山には、中世からある山城「上の城」の洲本城があった。本丸に建つ模擬天守がここからでも良く見える。

洲本の地図

淡路文化史料館の駐車場にある案内図。館内はエリアごと史料ごとに写真撮影OKとNGが掲示されているが、撮った写真は個人で楽しむ場合のみOKで、SNSやホームページなどへの投稿・公開はNG。

下の城

下の城は史料館のほか、検察庁、裁判所、税務署が建っている。曲輪の使用用途が江戸時代から変わっていない。

「下の城」から少し離れたところにある洲本八幡神社の金天閣。「下の城」の御殿の一部である玄関と書院が移築された、洲本城唯一の現存建築遺構だ。寛永18年(1641年)に徳島藩主・蜂須賀はちすか忠英ただてる(正勝のひ孫)により建てられた。

2.登り石垣

下の城の西側にある登城口。ここから「上の城」へ向かう。

「上の城」のある三熊山は7000万年前の堆積岩から形成された山で、その地層は南北に15km、東西に300km、厚さは地下10kmにも及ぶ。強固な岩板の上に出来た山だ。

通行止めの看板

コンクリートの道を登って行くと、通行止めの看板が出現。石垣の補修工事のため、令和7年(2025年)3月まで本丸西側の道は通れなくなっている。なので洲本城へ向かう道は、ここから左へ入る八王子神社側の登山道(大手道おおてみち)のみとなる。しかし西側の「登り石垣」を見学したいので、一旦はそのまま真っ直ぐ進む。

西登り石垣

真っ直ぐ進むと、ほどなく「西登り石垣」の看板が出現。

西登り石垣

左を見上げると、巨大な石塁が縦に連なっているのが見えた。

西登り石垣

近くまで行ってみる。この巨大な石塁は麓から山頂まで連なっており、そのスケールに圧倒される。この遺構を見るためだけにでも洲本城に来る価値はあると思う。

登山道

先ほどの通行止めの看板まで戻り、大手道である八王子神社側の道を進む。道はコンクリートで舗装されており、すこぶる歩きやすい。

3.八王子木戸~本丸

八王子木戸

大手道を登り切り、八王子木戸はちおうじきどに到着。木戸は城戸きどとも書き、城の入口(虎口こぐち)という意味。左手には東の丸二段曲輪、右手には三段の曲輪からなる本丸があり、ここは鞍部あんぶとなる。三好系城郭では良く見る縄張りだ。

本丸下段の虎口

本丸下段曲輪の虎口。

本丸の石垣

本丸の石垣。山城石垣の多くは傾斜角度が70度なのに対し、洲本城は80度あるという。三熊山の強固な堆積岩が可能にした傾斜角度なのだろう。平成7年(1995年)の阪神淡路大震災の際、震源地から30kmしか離れていない洲本は震度6だったが、三熊山の強固な堆積岩のおかげて洲本城はこれだけ無事に残っている。

本丸虎口

本丸石垣の階段を登った先の本丸虎口。道線を垂直に曲げる向きで虎口をつくるのは、近世城郭ではセオリーだ。

枡形虎口

虎口の内側は枡形になっている。

本丸。天守台の上には模擬天守が建つ。この模擬天守は昭和3年(1928年)に展望所として造られたが、今は老朽化により入城不可となっている。模擬天守としては国内最古とのこと。実際の天守は、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の家臣・脇坂安治やすはるにより築造された。登り石垣も含め、現在の近世城郭・洲本城の遺構のほとんどは脇坂時代のものだ。

洲本城の案内板

洲本城の案内板。城の北側のつづら道が大手道。登り石垣は、大手道を囲うようにその左右(東西)に造られており、下の城と上の城を連続した防御拠点にするための設備であることがよく分かる。同じ意図で、龍野城の麓の城と山城を連絡する大手道も、それを囲うように2本の竪堀が設けられている。こちらの改修者は、脇坂安治の孫にあたる脇坂安政やすまさ

天守

この地に最初に洲本城が造られたのは戦国中期の大永6年(1526年)と言われる。築城者は淡路安宅あたぎ氏のひとり・安宅あたぎ治興はるおきという人物だ。この頃天下を治めていたのは、室町幕府第12代将軍・足利義晴よしはる(15歳)と、それを補佐する(というか操る)管領・細川高国たかくに(42歳)だった。

細川高国たかくにのライバル・細川澄元すみもとは、細川京兆家の当主の座と管領の地位を高国に奪われ、故郷・阿波の国へ敗走していた。しかし戦うことを諦めたわけではなく、力を蓄えて捲土重来を狙っていた。澄元は、足利義晴の腹違いで同い年の兄弟・足利義維よしつなを擁立し、宿敵・細川高国に対抗した。義維と義晴は2人とも前将軍・足利義澄よしずみの子だが、義維のほうが嫡男であり、正当な将軍位継承者だった可能性が高いと言われている。永正16年(1519年)には、高国に与していた淡路細川氏を滅ぼして淡路一国を支配下に加え、翌年に澄元は亡くなるものの、幼い嫡男・晴元がその跡を継ぎ、阿波細川氏は家臣筆頭の三好元長を中心に着実に勢力を拡大した。

そんな時代背景の中、大永6年(1526年)安宅治興は、主君・細川晴元(12歳)に洲本城の築城を命じられた。この頃、細川晴元と三好元長(25歳)は洲本を拠点にして、高国の支配する堺へ出陣している。そして数年後には、治興は元長の三男・千々世ちちよ(のちの安宅冬康ふゆやす)を養嗣子とした。三好一門となることで淡路安宅氏の中で優位に立ち、その後安宅一族のリーダーとして統率していくこととなる。

洲本港

安宅治興の養嗣子・安宅冬康が最初に文献に現れるのは天文6年(1537年)、まだ元服前の安宅千々世(9歳)として記録に残っているという。父・三好元長はすでに亡く、長兄・三好長慶ながよし(15歳)に付き従い堺へ出陣している。主君・細川晴元もまだ23歳であり、武士として脂の乗った25~40歳くらいの者があまりいないというのは、それだけ畿内で武士として生きていくことは困難だったのだろう。

三好元長は大坂本願寺の証如率いる宗徒の大軍勢に攻め殺された。しかしその黒幕は細川晴元だったとされている。享禄4年(1531年)に大物城(尼崎古城)において、細川晴元は細川高国を討ち滅ぼしたものの、現将軍・足利義晴よしはるから自身が擁立する足利義維よしつなへ将軍の首をすげ替えるためには、義晴派のもうひとりの大大名・近江の六角定頼さだよりと対決しなければならなかった。長年に渡る高国との死闘で疲弊していた晴元にその余力はなく、細川京兆家と管領の座を取り戻したことでマストの目的は達成したので、晴元は、義維を見限って今まで敵対していた義晴と手を結ぶことを選んだ。義維よしつなの擁立はあくまで自分の正当性を主張するための神輿みこしであり高国さえ倒してしまえば義維擁立はマストではない晴元と、義維を擁立したからには将軍に就けてそれを補佐していきたい元長とで、双方のベクトルは分かれた。畿内勢力の思惑も後押しし、晴元は今まで阿波細川氏を支えてきた家臣筆頭の元長を切り捨てるに至った。戦国畿内は「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵」が日常茶飯事だ。

足利義晴-細川晴元時代はその後20年近く続いたが、天文19年(1550年)晴元の重臣・三好長慶(28歳)が主君・細川晴元に反旗を翻し、あえなく義晴-晴元体制は崩壊した。さらに近江へ逃亡した晴元に義晴も同行したため、畿内は将軍不在となり、図らずも畿内は長慶が治めることになった。ここに三好政権が樹立し、長慶は足利将軍を擁しない戦国最初の天下人となった。長慶が晴元と敵対した理由はいくつか説があるが、義晴にそっぽを向かれることになっても晴元と決して和解しなかったのは、晴元が父・元長のかたきだったからと考えるのが自然だろう。

永禄3年(1560年)頃、三好氏は全盛期を迎える。長慶は家督と摂津一国を嫡男・義興よしおきに譲り芥川城を出ると、北河内の飯盛城に入った。次弟・三好実休じっきゅうは南河内の高屋城、三弟・安宅冬康は淡路の洲本城、四弟・十河そごう一存かずまさは和泉の岸和田城、長慶の最も信頼する家臣・松永久秀は大和の多聞城(信貴山城)、その弟・松永宗勝そうしょうは丹波の八木城、四国阿波は三好家の宿老・篠原長房が勝瑞館に居り、それぞれの国を統治した。一門衆筆頭の三好長逸ながやすは三好家の譜代の家臣たちを束ね、細川晴元の直臣から長慶の家臣になった三好宗渭そういは晴元の旧臣たちを束ね、共に当主・三好義興を支えた。

終わりの始まりは十河そごう一存かずまさの死だった。「鬼十河おにそごう」と呼ばれ、三好家中で最も武神に愛された男が永禄4年(1561年)に29歳で病死すると、翌年の永禄5年(1562年)岸和田に布陣していた三好実休(35歳)は、紀伊の畠山高政と根来衆率いる大軍勢と激突し、命を落とした。その翌年の永禄6年(1563年)三好家当主・三好義興(21歳)が病死した。そしてさらに翌年の永禄7年(1564年)には、三好長慶も病に伏せることになる。

立て続けに不幸に襲われる三好家だが、長慶は全く悲観してはいなかったという。常にその時々で情勢を冷静に見、考え得る最善の一手を打った。まず三好家の新たな当主は、十河そごう一存かずまさの嫡男・十河重存しげまさ(15歳)とした。重存は「三好義継よしつぐ」と名乗った。そして次に、三好四兄弟の最後のひとり・安宅冬康(36歳)を飯盛城へ招いた。

江戸初期に刊行された「南海治乱記なんかいちらんき」によると、三好四兄弟の特質についてこう書かれている。「長兄・三好長慶は、知謀勇才を兼ねて天下を制すべき器なり。次弟・三好実休は、国家を謀るべき謀将なり。四弟・十河一存かずまさは、大敵をくじくべき勇将なり。そして、三弟・安宅冬康は、国家をいだくべき仁将なり」

飯盛城を訪れた安宅冬康に三好長慶が命じたのは、「冬康の死」だった。三好家を、三好義継のもと一枚岩にするためには、人望があり三好一族を統率出来る実力のある冬康の存在は、危険因子と考えた。今まで細川氏や畠山氏が一族同士の内紛で弱体化する様をいやというほど見てきた長慶にとっては、あらかじめ対策しておかねばならない問題だった。安宅冬康が兄・長慶の思いを知り、どう思ったのかは分からない。憤慨したのか、納得したのか、記録は残っていないようなのでそこは想像するしかない。ただ、冬康も長慶に匹敵するほど聡明な武将だったことを考えると、長慶の死後、不安定な三好家が当主・義継の「十河派」と冬康の「安宅派」に分かれて争い衰退する未来は見えていたことだろう。

永禄7年(1564年)5月9日、安宅冬康はその生涯を終えた。冬康に従って飯盛城に来ていた家臣たちも皆、冬康の後を追って死んだという。強制的(討伐)か、自発的(追腹)かは分からない。

東の丸

本丸から見る東の丸

4.南の丸~西の丸

南の丸へ続く曲輪

本丸の南にある南の丸

南の丸の石垣

南の丸の折れのある石垣。面一の石垣に比べ、折れのある石垣は強度が強い。

西の丸へ

西の丸へ向かう。

西門

西の丸へ続く土橋

西の丸

西の丸の石垣

西の丸の石垣。角は算木積みになっているので、脇坂時代に造られたものなのだろう。

5.「しあわせ島ごはん まどみ」

しあわせ島ごはん「まどみ」

昼食は、洲本市内にある「しあわせ島ごはん まどみ」で。

淡路島産のタマネギのサラダや白身魚の竜田揚げが美味しかった。

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