2023年3月11日(土)快晴[1/3]
1.三沢城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 300m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 50m | ||
所要時間 | 1分 / 15分 |
指 定 | 島根県指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切 |
歴 史 | 出雲の国衆・三沢為清-為虎の城。尼子十旗の第二旗。享禄4年(1531年)三沢氏は尼子経久に敗れ尼子氏に臣従した。永禄8年(1565年)の毛利元就による第二次月山富田城攻めでは、毛利軍に下った。その後毛利家家臣となり、江戸期には毛利秀元の長府藩の家老職を代々務めた。 |
駐車場 | みざわの館 – Google マップ |
住 所 | 島根県 仁多郡 奥出雲町 河内36 |
トイレ | 登城口にあり |
1-①駐車場&登城口

三沢城の案内板。

この道を上って行く。

みざわの館の下にある駐車場に車を停めさせていただく。

旅館「みざわの館」。朝9時に開くので帰りに立ち寄り、玄関に置いてあるフリーペーパーのパンフレットを一部いただいた。

登城口。

この登城口は、3つある入口のうち正面である「大手口」となる。
1-②大手道

三沢城の大手道を上る。まだ3月に入ったばかりなので咲いてはいなかったが、オウレンの群生地があった。平安時代に書かれた日本で初めての医薬書に「美佐波薬」というオウレンを調合した風邪薬が記載されているという。
a) 大手門の石垣

大手道の正面に石垣が出現。大手道を上ってくる敵兵を、石垣の上から弓矢で迎え撃てる。大手道は石垣を避け、右へ続いている。
b) 大手門跡

石垣の横にある大手門跡。
c) 二の丸(大手曲輪)

大手門の先は、二の丸(大手曲輪)になっている。

二の丸(大手曲輪)は、三沢城で最も大きい曲輪だ。南の大手口、北の水ノ手口、西の萩森口の3つの登城道と連絡している要の曲輪でもある。
1-③七曲り

二の丸(大手曲輪)から主郭部へ向かう。

二の丸(大手曲輪)からの道は、右へ左へとつづら折りになっており「七曲り」と呼ばれている。

1-④主郭部

本丸下の腰曲輪。

主郭部へ。

主郭部は、この本丸城壕と呼ばれる堀を中心に、東の「鳥居丸」と西の「本丸」に分かれている。

右が鳥居丸。

左が本丸。
a) 本丸

先に本丸を見学。


三沢城のあるこの要害山は、奥出雲で一番高い山のようだ。

本丸から見る鳥居丸。手前の高い場所は土塁。

鳥居丸は二段の曲輪で、その奥には堀を介して“北ノ郭”と呼ばれる段曲輪が4つか5つか続いている。

三沢氏は、信濃源氏を祖とする飯島氏の後裔となる。鎌倉時代に後鳥羽上皇と鎌倉北条氏が戦った承久の乱で飯島為長は戦功を挙げ、北条義時よりこの地を賜ったのが始まり。この一族は、信濃国飯島郷にいたときは「飯島氏」を名乗り、出雲国三沢庄に来ると「三沢氏」を名乗った。
享禄4年(1531年)第9代当主・三沢為国の時、尼子経久と戦って敗れ、以来尼子氏に臣従するようになった。尼子経久は、父・清貞と親子2代に渡る下剋上の末、出雲守護代から11ヶ国の覇者になった人物だ。

三沢の埋蔵金伝説のある亀岩。三沢城で最後の当主となった12代目の三沢為虎が、慶長5年(1600年)に三沢城を離れる際、この岩の下に財宝(銀?)を隠したという。その後三沢氏は長府藩の毛利秀元の家老として、代々毛利家に仕えた。
b) 鳥居丸

続いて鳥居丸へ。正面の土塁を強行突破するナオ。

突破成功!

私は裏手のなだらかなルートを上る。

土塁のそばにある井戸跡。

鳥居丸(上段)。

鳥居丸(下段)。

鳥居丸(下段)から見る本丸。
三沢城は、尼子経久の月山富田城にとても良く似ているように思う。二の丸(大手曲輪)を月山富田城の山中御殿と比定するなら、そこから続く七曲りと主郭部もそれぞれ比定出来る。これは恐らく尼子経久へのリスペクトによるオマージュだと思う。“尼子十旗”の第二旗と謳われた三沢氏だが、永禄8年(1565年)の第二次月山富田城の戦いの前哨戦となった出雲侵攻では、毛利元就に屈した。第11代当主・三沢為清とその嫡子・為虎は、相当な覚悟で尼子氏と袂を分かったのではなかろうかと、460年前に思いを馳せる。
2.三刀屋城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 80m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 45m | ||
所要時間 | - / 3分 |
指 定 | 島根県指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切 |
歴 史 | 出雲の国衆・三刀屋久扶の城。尼子十旗の第三旗。尼子氏滅亡後は、毛利氏に臣従した。 |
駐車場 | 城山の中腹にあり 三刀屋城跡 – Google マップ |
住 所 | 島根県 雲南市 三刀屋町 古城1133 |
トイレ | 登城口と駐車場にあり |

三沢城から35分程度で、三刀屋城に到着。三刀屋城は主郭部まで舗装道が通っており、すぐ下の曲輪まで車で行けるのでそのまま上る。
2-①駐車場(馬場跡)

麓から上ること2~3分で、駐車場(馬場跡)に到着。


ここから主郭部までは、歩いて上る。

この曲輪も駐車場になっている。

あれも曲輪か。

三刀屋川。
2-②主郭部

駐車場(馬場跡)から歩いて3分ほどで本丸に到着。
三刀屋氏後裔の方の顕彰碑がある。先祖の治めた三刀屋の町に多額の寄付をされたという。

本丸。

三刀屋氏のルーツも三沢氏とほとんど同じ。信濃源氏を祖とする諏訪部助長が承久の乱で戦功を挙げ、北条義時により出雲国三刀屋郷を賜ったのを始まりとする。戦国後期は、三刀屋久扶が約60年間当主を務めた。

本丸土塁。

二の丸。三刀屋氏は、尼子十旗の第三旗に数えられる。
“尼子十旗”というのは、天正8年(1580年)頃に元尼子家臣・河本隆政(59歳)が著した「雲陽軍実記」に出てくるフレーズで、このように書かれている。
『惣じて尼子旗下にて禄の第一は白鹿、第二は三沢、第三は三刀屋、第四は赤穴、第五は牛尾、 第六は高瀬、第七は神西、第八は熊野、第九は真木、第十は大西なり、これを出雲一国の十旗と云ふ』
つまり尼子十旗は尼子家臣団を代表する10氏を指す。“禄の”とあるので“禄高”の序列でナンバリングされているのだろう。被官の牛尾氏、米原氏(高瀬)も含まれるが、そのほとんどが1万石超えの大名クラスの国衆たちである。
今回の城旅は“尼子十旗”を回る旅なのだが、時間と予算は限られているので、十旗のうち四旗を回る。残りの六旗はいつか機会があれば回りたいと思う。
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