増山城
| 形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
| 比 高 | 100m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
| 蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
| 駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
| 高 さ | 0m / 70m | ||
| 所要時間 | 4分 / 16分 | ||
| 指 定 | 国指定史跡、続日本100名城 |
| 遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、切岸、横堀、土橋、竪堀 |
| 歴 史 | 越中西部の守護代・神保氏の城。戦国期の神保氏は、東の椎名氏・長尾(上杉)氏や西の加賀一向一揆と戦った。神保氏滅亡後の増山城は上杉謙信が支配し、次いで織田信長の城となる。 |
| 駐車場 | 増山城駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 富山県 砺波市 増山211 |
| トイレ | 駐車場に隣接する増山陣屋にあり |
| 訪問日 | 2025年10月12日(日)曇りのち晴れ |
1.冠木門側登山口

増山城の駐車場と増山陣屋。陣屋はトイレ完備の資料室兼休憩所だが、営業時間は8時半から17時で、時間外は施錠されている。駐車場はいつでも停められるもののこの周辺に街灯はないため、夜間早朝の運転には注意が必要だ。

増山城周辺の地図。増山城は、越中国4郡のうち砺波郡・射水郡・婦負郡の3郡がY字に隣接する郡境にある。西側は和田川が流れ、東側は山林地帯となっている。射水郡と婦負郡の守護代・神保氏が重視した要衝の城だ。

増山城の縄張図。登山口は西側、北西側、北東側の3ヶ所ある。そのうち増山大橋付近から登る西側登山口・通称「七曲がり」と、駐車場から近く冠木門のある北西側登山口「ウラナギ口」と呼ばれる遊歩道のどちらかが大手道だったと言われている。どちらも十分な防御態勢を敷いていることから日常的に使用されていた動線だと考えられるので、2本とも大手道だったのかも知れない。
増山城は、神保長職の城として知られている。武田信玄や上杉謙信と同時代に活躍した、越中(富山県)の戦国大名だ。
神保氏は室町幕府の三管領のひとり・畠山氏の執事(家政を取り仕切る筆頭家臣)で、戦国期以前は主君とともに幕府のある京都を拠点に活動していた。畠山氏は河内・紀伊・越中の3ヶ国の守護に補任されており、神保氏はそのうち越中(射水郡と婦負郡)と紀伊(日高郡)の守護代に就いていた。
応仁元年(1467)長職の祖父・神保長誠のときに、京都を中心に応仁の乱が起こる。発端は畠山氏の後継を巡る騒動だった。時の当主・畠山持国には嫡子がいなかったため、次期当主は弟の持富に決まっていた。ところが将軍・足利義政は、持国が遊女に産ませた男子に目を付け、僧籍に入ることが決まっていたその子を強引に持国の後継に据え、持富を廃嫡した。神保長誠(この頃はまだ幼少のため一族の誰かが名代)ら畠山氏の主だった家臣たちは強く反発したが、義政はその子が元服すると足利氏の通字である「義」を与え「畠山義就」と名乗らせ、三管領畠山氏を継ぐ人物であることをアピールした。持富亡き後その嫡子・政長を擁立する長誠ら重臣たちと、将軍義政の後援を受ける義就とその近しい家臣たちが対立し、畠山氏は2つに分裂した。義政の狙いは、畠山氏が力を持ちすぎないよう内部抗争を起こさせて弱体化させることにあった。狙いは成功したものの畠山氏の内乱はことのほか大きくなり、細川勝元や山名宗全が旗頭となって畿内近国の大名たちを巻き込んでの大戦へと発展した。京都を中心とした戦乱は11年に及び、京都は次第に荒廃していった。
応仁の乱により京都が住みにくい街になると、守護や守護代の多くは活動の拠点をそれぞれの所領へと変えた。畠山義就は河内国古市郡の高屋城に、畠山政長は紀伊国有田郡の広城に入った。神保長誠は越中国射水郡の放生津城を拠点に選んだ。放生津は越中屈指の港湾都市であり、京都と越中を海路でつなぐ交通の要衝だった。増山城はこの頃より放生津城の支城として機能していたが、孫の神保長職の代には京都とのつながりより近隣勢力との抗争が重視され、平城の放生津城から山城の増山城へと本拠地を替えた。

冠木門のある北西側登山口。増山城は平山城ではなく山城だということだが、このすぐ上に番所のような曲輪があるので、当時もここに門があった(=平山城)のではないかと個人的には思う。それと、冠木門といいながら見た目は高麗門風なのも気になる。

冠木門から遊歩道が整備されている。今回は妻のナオに加え、息子のユウも付いてきてくれた。
遊歩道は、当時はウラナギ口と呼ばれる登城道で、2つの尾根の谷間を真っ直ぐ延びている。2つの尾根は大堀切で遮断されているため、ここだけが通ることを許されている動線だ。

遊歩道右側の大堀切。左右を併せた堀切の長さは300mを越え、富山県では最大規模だという。

遊歩道の正面にある「F郭」。ウラナギ口を登ってくる敵兵を迎え討つための曲輪。

F郭の西側上部にある「馬之背ゴ」という名のL字型の曲輪。土塁を馬の背中に見立てている。西側大手道に面しているのとF郭を見下ろす立地なのとで、双方の防御の拠点となっている。
2.主郭部

馬之背ゴから主郭部へ向かう途中にある水の手「又兵衛清水」。

二ノ丸(一般的な本丸に相当)の切岸。

「石垣」と縄張り図には書かれている。

「石垣」の上に道がある。左へ進めば二ノ丸(一般的な本丸に相当)、右へ少し降れば「無常」という名の曲輪、手前は一ノ丸に連絡している。
①一ノ丸

西側の主郭部・一ノ丸。一ノ丸といっても本丸ではない。北陸地方特有の方式なのか、大手道に近い方から順番にナンバリングされた呼称になっている。馬之背ゴから又兵衛清水までを見下ろす、西の要の曲輪だ。

一ノ丸から和田川(増山湖)と増山橋が見える。橋は西側大手道「七曲がり」に連絡している。
②無常

本丸の南側を守る曲輪「無常」。語源は、城の中心を指す「実城」が転じたもの、あるいは寺院の「無常堂」から来たもの、との説がある。曲輪の下には畝状竪堀がある。
③二ノ丸(本丸)

二ノ丸(本丸)の虎口。

応仁の乱から約30年後の永正3年(1506)、北陸一向一揆が蜂起した。管領(将軍の右腕)で“半将軍”と呼ばれた細川政元が、反細川派を叩くため本願寺の実如に強く依頼した結果だった。
越中4郡のうち西の砺波郡(27万石)は遊佐氏が、中央北の射水郡(17.1万石)と中央南の婦負郡(8.5万石)は神保氏が、東の新川郡(28.2万石)は椎名氏がそれぞれ統治していた。神保氏は2郡合計で25.6万石あり、3氏の勢力はほぼ均衡が保たれている。一揆軍は、越中の西の国・加賀の本願寺門徒である国衆や農民を中心に編成され、遊佐氏領の砺波郡へ攻め込んだ。遊佐氏当主・遊佐慶親は東へ敗走し、越後の長尾氏を頼った。射水郡・婦負郡も戦場となり、神保氏当主・神保慶宗(長誠の嫡子-23歳?)も一揆軍と戦った。慶宗が増山城で籠城して耐えたのか、遊佐氏同様城を捨てて東へ逃げたのかは定かでない。
河内にいる畠山尚慶(政長の嫡子-31歳)は、越後守護代・長尾能景(42歳)に援軍を要請した。本願寺門徒は戦って死ねば極楽浄土へ行けるという教えを盲信し、率先して捨て身で攻めてくる。畠山方の越中衆が元気なうちに一揆を抑え込んでおかねばいずれ越後もやられると思い、長尾能景は果敢に戦った。
動員数30万人ともいわれる一向一揆との戦いは、半年後に意外な結末を迎える。砺波郡へ兵を進めた長尾能景が、神保慶宗の裏切りにより一揆軍に討たれたのだ。畠山氏・神保氏の軍勢がいればこその進軍だったのに、主体であるはずの両氏が戦地に来なかったため、能景は孤立無援となり、ゾンビのような戦い方をする一向一揆に飲み込まれてしまった。その後砺波郡は完全に本願寺の寺領となり、能景とともに遊佐慶親も討たれたことで越中遊佐氏は消滅した。慶宗は本願寺と同盟を結び、越中の戦乱は終息した。

翌年の永正4年(1507)、細川政元が暗殺され、細川氏も家督争いで内乱が起きた。[永正の錯乱]
さらに翌年には前将軍・足利義稙(当時は義尹-42歳)が周防の大内義興に奉じられて上洛し、現将軍・足利義澄(27歳)を追い出して将軍に返り咲いた。義稙は大内氏の庇護を受ける前は越中で神保慶宗の父・長誠の庇護を受けており、神保氏には恩義があるため慶宗にも追い風が吹いた。慶宗は畠山氏から独立し、越中で安定した治世を行い神保氏の全盛期を迎える。北陸一向一揆で長尾能景を裏切った際にここまで未来を予測していたかどうかは分からないが、運命の選択により勝ち組となった。
しかし栄枯盛衰は世の常。北陸一向一揆から12年後の永正15年(1518)、畠山尚慶(43歳)は神保慶宗討伐軍を編成した。コントロール出来ない神保氏は脅威であり、いずれ畠山領も侵略されかねない。この頃70年近く抗争を続けていたもうひとつの畠山氏・畠山義英(30歳-義就の嫡孫)と和議を結び、猶子とした義英の子・勝王(7~9歳?)を討伐軍の総大将に据えた。両畠山氏がひとつになったことをアピールする狙いだろう。そして同族である能登畠山氏や、越後の長尾為景(32歳-能景の嫡子)にも援軍要請を出した。管領・細川高国も加賀にいる家臣を動員して協力した。神保慶宗の味方は新川郡の椎名慶胤と加賀の本願寺だったが、本願寺は協力しない姿勢を表明した。戦いは、神保慶宗+椎名慶胤vs両畠山氏(尚慶・義英)+能登畠山氏+長尾為景+細川氏という構図となった。4年に及ぶ戦いは、椎名慶胤が長尾為景に敗れたり、神保慶宗が能登畠山氏を撃退したりと一進一退が続いたものの、数に勝る畠山方が次第に優勢となり、神保・椎名方の敗色が濃くなっていった。
神通川付近の新庄で神保慶宗と長尾為景は激突したが、慶宗の背後を細川勢が襲い、慶宗はあえなく敗走した。逃げ切れないと悟った慶宗は、馬から降りて具足(甲冑)を脱ぐと、西を向いて南無阿弥陀仏を10回唱え、切腹したという。慶宗を失った神保氏はその後、能登畠山氏を介して畠山尚慶の支配を受けることになる。
戦国時代の特色のようにいわれる下剋上だが、現実はそう簡単ではなかったことが窺えるエピソードだろう。武士支配の正当性を担保するものは伝統的権威や身分秩序に他ならず、それを否定する下剋上は自らの立場を危うくする諸刃の刃だった。

二ノ丸(本丸)にある「鐘楼堂跡」。増山城最高地点で、標高124m。

鐘楼堂跡の北側、堀切を介した先にある「安室屋敷跡」。安室とは、家督を譲って隠居した人を指すという。

鐘楼堂跡の東側。こちらも堀切を介した先に三ノ丸がある。木が深いため写真ではほとんど分からないのは残念だが、木を切りすぎると地面が灌木で覆われて曲輪の形すら分からなくなる懸念があるため仕方のないところだろう。
富山城
| 指 定 | 続日本100名城 |
| 遺 構 | 石垣、堀 |
| 歴 史 | 天文12年(1543)、越中東部進出をもくろむ神保長職が椎名氏の領地である神通川の東側に平城・富山城を建てたのを始まりとする。その後、上杉氏→織田氏(佐々成政)→前田氏と統治者が代わった。 |
| 駐車場 | 富山市営城址公園 駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 富山県 富山市 本丸1-42 |
| トイレ | あり |
| 訪問日 | 2025年10月12日(日)曇りのち晴れ |

現在の地図に重ね合わせた富山城の縄張り図。これは江戸期の富山前田氏の頃のものだが、最初にこの地に城を築いたのは、越中の戦国大名・神保長職だ。
8歳のときに父・神保慶宗が越後の長尾為景に討たれ、畠山尚慶の支配を受けて不遇の時代を過ごした長職だが、転機は天文10年(1541)28歳のときにやってきた。父慶宗を敗死させた宿敵長尾為景が亡くなり、跡を継いだ長尾晴景(32歳)は病弱で戦より芸事を好む人物だった。そのため長職は主家である能登畠山氏の後援を受け、神通川以東の新川郡への進出を試みた。新川郡は椎名氏の領土だが、先の戦で畠山氏に敗北して以来、長尾氏の支配を受けていた。新川郡への進出は椎名氏・長尾氏との抗争を意味していたが、晴景なら積極的に戦を仕掛けては来ないだろうと思い、神保氏再興のためこの地に踏み込んだ。

本丸に建つ富山城の模擬天守。建物内は富山市郷土博物館になっている。江戸期に富山前田氏が入城する前に、織田信長の家臣・佐々成政が入城していた時期が3年ほどある。富山城に天守があったのかどうかは定かでないが、天守に相当するものが建てられたとするとその時期だったのではないかと思う。

西の丸の石垣。佐々成政以前は土の城で、石垣は江戸初期に富山前田氏により築かれたものだという。

二の丸と本丸を連絡する土橋。

本丸枡形虎口。大きな鏡石が4つも埋め込まれている。

神通川以西は神保長職の治める婦負郡、東は椎名氏の新川郡で、富山城は神通川の東岸(新川郡)に築かれた。これにより神保氏と椎名氏との衝突は避けられないものとなる。天文12~13年(1543~1544)にかけて、神保長職と椎名康胤(慶胤の嫡子)が新川郡で戦った。戦局は神保方優勢であり、能登畠山氏の仲介で和議が結ばれ、富山城周辺の新川郡西部は神保氏の支配権が認められた。
その後長職は少しづつ領地拡大を図っていったが、椎名氏との大きな衝突はなかった。しかし永禄2年(1559)に新たな展開を迎える。椎名康胤(38歳?)が軍勢を率い、神保長職(46歳)の富山城を攻めてきた。双方に死傷者が出たところで越後の長尾景虎(のちの上杉謙信-29歳)が仲介に現れ、双方に和議を結ばせた。景虎は晴景の弟で、病弱な兄から家督を譲られて長尾氏の当主となっていた。この一連のやりとりは、「これからは長尾景虎が相手になるぞ」という無言のメッセージだった。
ここから神保長職と長尾景虎(上杉謙信)の戦いが始まる。長職は、北信濃の川中島付近で景虎と3度も軍事衝突を起こしている天敵・武田信玄と密かに同盟を結んだ。それを知った景虎は怒り、すぐさま富山城へ軍勢を派遣した。長職は囲まれたら逃げ場のない富山城を早々に捨て、増山城に退却した。増山城は普段は重臣・小島職鎮を城主に据えていたが、有事には最も頼りになる詰城として使用していた。富山城から増山城まで追ってきた長尾軍を、長職は鉄壁の防御力を誇る増山城で撃退した。しかし間髪入れず、今度は長尾景虎自らが軍勢を率いて増山城を取り囲んだ。必要とあらば時間も労力も惜しまないのが景虎の流儀なのだろう。籠城は不利とみた長職が闇夜にまぎれて密かに増山城を脱出すると、ほどなく景虎は長職のいない増山城の包囲を解いて越後へ帰った。
その後長職は増山城や富山城を取り返し、以前の勢力を回復する。武田信玄から長職に協力するよう依頼を受けた本願寺一向衆が、長職とともに新川郡や越後へ攻め込む。景虎が反撃し、長職をふたたび増山城まで追い込む。一進一退の攻防が続き、さながらシーソーゲームのようだった。

永禄5年(1562)、能登畠山氏の当主・畠山義続と義綱が、重臣たちにより国外へ追放されるクーデターが起きた。親交のあった上杉輝虎(前年に関東管領上杉氏の名跡を継ぎ長尾景虎から改名)はこれを救援しようとし、能登へ軍勢を派遣した。越後から能登へ行くには越中を通らなければならない。海路を進むにしても神保長職の庭である富山湾を横断することになる。ところがこの時は、因縁の敵であるはずの長職とは戦にならなかった。神保氏も親畠山派であり、畠山義続たちを救援したい気持ちが同じだったからだ。この件で共闘したことを境に、上杉輝虎(長尾景虎)と神保長職の関係は変化していく。

長職が反上杉から親上杉へ態度を変化させていくことで、3つの問題が生じた。ひとつは北陸一向一揆との対立だ。上杉(長尾)氏とは相容れぬ本願寺門徒たちは、神保氏も敵と見なし攻撃を開始してきた。増山城を中心に、越中西部で一向一揆と激しく戦うことになる。もうひとつは神保家中の内紛だ。一門衆の神保氏張が反上杉の立場を変えず、親上杉へ移行する長職と対立した。これは長職が武力で抑え込み、神保氏の足並みを揃えて親上杉へ舵を切った。しかしその後も重臣の寺島職定が反上杉を訴え、長職に反旗を翻して池田城に籠もるという事態が起きた。これを鎮圧するために余計な兵力を失い、神保氏は否が応でも弱体化していく。最後のひとつは椎名氏の上杉氏からの独立だ。上杉輝虎に従属する椎名康胤が主家と手を切り、本願寺との共闘を選んだ。これは武田信玄の調略だという。これにより長職は、西の一向一揆と東の椎名氏から挟撃される形になる。しかし重大なのは、その後椎名康胤が上杉輝虎に敗れて領土のほとんどを失い、新川郡が上杉氏の支配下に置かれたことだ。これにより長職の新川郡への領土拡大の望みは絶たれた。

元亀2年(1571)、一向一揆との戦線は芳しくなく、神保長職は上杉謙信(前年に出家し)に救援を求めた。謙信は一揆の占拠する守山城を始めとする10ヶ所の城をたちまち攻め落とし、越後へ引き返した。この頃の長職と謙信の軍事力の差は歴然としており、ほどなく長職は謙信から従属を強いられる。謙信は越中全土を支配下に置き、その後能登へも進出していく。神保長職はその後まもなく死去したと考えられている。
安田城
| 指 定 | 国指定史跡 |
| 遺 構 | 土塁、堀、虎口、土橋 |
| 歴 史 | 天正13年(1585)、羽柴秀吉が富山城の佐々成政を討伐するために築いた城の一つ。佐々成政降伏後も前田利家の城として使用された。 |
| 駐車場 | 安田城跡駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 富山県 富山市 婦中町 安田244-1 |
| トイレ | 安田城跡資料館内にあり |
| 訪問日 | 2025年10月12日(日)曇りのち晴れ |

富山城から車で15分ほどの場所にある安田城。到着したのがちょうど入館中止時間の16時30分(私は17時まで入館自由だと勝手に思い込んでいた)で、資料館管理人のかた(年配の女性)が閉館の表示を行おうとしているところだった。「私は近所に住んでいるから、ゆっくり見て下さい」と、快く入館を許可していただいた。

資料館にあった航空写真。本丸の左上角に櫓が建っていたと言われている。右郭の手前の土橋が城の唯一の入り口で、二の丸の右にある土橋は当時には無く、後世になって設けられた通路だ。
安田城は、天正13年(1585)に富山城に拠る佐々成政を討伐するために羽柴秀吉が越中に出陣した、いわゆる富山の役の際に付城として築かれたものだ。秀吉の本陣として白鳥城が築かれ、安田城はその支城として機能した。

右郭の土橋は整備中のため立入禁止になっていた。

二の丸に設けられた土橋から入る。

二の丸。

二の丸から右郭を見る。

二の丸と本丸を連絡する土橋。

富山の役の経緯を述べるため、佐々成政の足跡をたどってみる。
近江佐々木氏(六角政堯)をルーツに持つ佐々成政は、天文5年(1536)に尾張国春日井郡比良荘(名古屋市西区の庄内川以北)を本拠地とする織田氏家臣の家に誕生した。佐々氏の嫡男ではなかったため、最初は織田信長の馬廻り(親衛隊)に配属された。しかし兄弟である佐々隼人正や佐々孫助が桶狭間の戦いなどで討死したため、佐々氏の当主となる。[24歳]
永禄12年(1569)の伊勢北畠攻めでは柴田勝家隊に属し、大河内城を包囲した。[33歳]
元亀元年(1570)の近江浅井攻めでは梁田広正らとともに退却時の殿を任され、二番隊隊長として鉄砲衆500名・弓衆30名を指揮し、武名を高める働きをしたという。[34歳]
天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆攻めでは木下小一郎(のちの羽柴秀長)・丹羽長秀・前田利家とともに先陣を担った。[38歳]
天正3年(1575)の武田勝頼との戦いでは、長篠設楽原で前田利家とともに鉄砲奉行を務めた。[39歳]
同年、織田信長の越前一向一揆攻めに従軍し、越前平定後は前田利家・不破光治とともに府中に知行地を与えられ、拠点を尾張から越前に移した。越前国主となった柴田勝家のお目付役というのが任務だった。
天正5年(1577)には柴田勝家総大将の指揮下で加賀の手取川にて上杉謙信と戦い、翌年には摂津の荒木村重攻めに参加した。織田信長の最も信頼出来る家臣のひとりとして各地を転戦した成政は、天正8年(1580)に信長からの最後の任務となる越中攻めを命じられた。

少し時を戻して元亀3年(1572)、上杉謙信から従属を強いられた神保長職は隠居し、家督を嫡男・長住に継がせた。しかし神保長住はすぐさま謙信と手を切ることを選ぶ。親上杉派となったときから神保氏の衰退は始まっており、ここが悪の根源と考えたのだろう。越中に居られなくなった長住は能登畠山氏を頼って逃げた。そして畿内に覇権を確立しつつある織田信長に連絡を取り、自らの越中への復帰と支配権の保証を依頼した。信長から見れば、謙信ひとりがどんどん支配地を広げていけばいずれ強敵として対決することになるため、越中を神保氏の独立領地とし、勢力を分散させたほうが安心だった。信長は「天下布武を成した足利尊氏公以来、越中2郡は神保氏の支配地であり、嫡流の神保長住公に返すのが道理であろう」などと謙信に進言したのではなかろうか。
最初は承諾した謙信だったが、私利私欲が勝って後になって難色を示しだした。謙信の能登畠山攻めが始まると、神保長住は信長を頼って上洛した。
天正6年(1578)に上杉謙信が亡くなると、織田軍団の中で神保長住を大将とする越中方面軍が結成された。
越中各地で転戦する長住だったが、謙信の跡を継いだ上杉景勝との攻防で目立った戦果を挙げられず、苦戦が続く。業を煮やした信長が切り札として越中に派遣したのが百戦錬磨の佐々成政だった。天正8年(1580)成政44歳。
天正10年(1582)、神保長住の守る富山城を上杉方の小島職鎮が占拠した。小島は長住の元家臣だが、神保氏が上杉氏に従属したとき以来、上杉配下として活動していた。佐々成政は小島を攻め、富山城を制圧。勢い上杉方の重要拠点である魚津城も攻め落とした。そして上杉領を進軍する最中、「本能寺の変」の知らせを受ける。
信長の死で勢いづき盛り返してくる上杉軍を、佐々成政は最前線の越中で食い止めた。織田家の重臣でありながら、山崎の戦いにも清洲会議にも参加出来なかったのはこのためだ。その後成政は、富山城を居城として越中の統治に専念する。

天正11年(1583)、織田信孝-柴田勝家と羽柴秀吉が対立すると、成政は信孝-勝家方に付いた。しかし信孝は岐阜城で、勝家は北ノ庄城で敗死すると、尾山城(金沢城)の佐久間盛政、小丸山城の前田利家と、次々に秀吉に屈した。しかし成政は秀吉から何のお咎めもなく、そのまま越中の国主の地位を保証された。
天正12年(1584)、今度は織田信雄が徳川家康と手を組み秀吉に対抗した。成政は最初は秀吉方だったが、途中から信雄方に寝返った。ところが調略の張本人・家康が、成政に何の相談もなく勝手に秀吉と和睦したのだ。次いで信雄も秀吉と和睦した。ハシゴを外された成政のいる越中に、秀吉軍7万人が押し寄せてきた。その際、成政の拠る富山城を攻める拠点として安田城は築かれた。(秀吉本陣は白鳥城で、安田城は支城。)
頭を丸めて降参した成政を、秀吉は問題なく許した。但し富山城のある新川郡の知行権のみ残してあとは没収され、越中から大坂へ移るよう命じられた。しかし大坂の滞在費として摂津国能勢郡1万石を新たに与えられた。秀吉と2度も敵対してほぼお咎めなく許された者は、佐々成政を置いて他に誰もいないだろう。

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