目次
小田原城
指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀 [再建]復興天守 |
歴 史 | 相模の国衆・大森氏の城を伊豆の伊勢宗瑞が奪い、宗瑞の嫡男・氏綱に統治を任せたのが始まり。氏綱が家督を継いだ後、小田原城が本城となった。二代目・氏綱は北条氏綱と名乗り、宗瑞から数えて100年の繁栄を築いた。北条氏滅亡後は、徳川家康の重臣・大久保忠世が入城した。 |
駐車場 | 藤棚 臨時駐車場 – Google マップ(城周辺に多数コインパーキングあり) |
住 所 | 神奈川県 小田原市 南町1-5 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2022年8月7日(日) 曇り 時々晴れ時々雨 |
1.小田原城総構
①八幡山古郭東曲輪
小田原城の周辺に多数あるコインパーキングのひとつ、三の丸跡にある藤棚駐車場は、上限金額が設定されているので長時間停める場合は安心だ。朝早い時間なので小田原城はまだ開いていない。まずは城を城下町ごと囲う総構(空堀)を見に行く。
道中、小田原城天守が見えた。東海道線が通るこの窪地は、戦国期は小田原城の北側を守る大空堀だった。
小田原城は北条氏の城として知られている。鎌倉幕府の執権・北条義時らの北条氏と区別するため、「小田原北条氏」「後北条氏」などと呼ばれる。その北条氏の最初の城主は北条氏綱だが、氏綱は北条早雲の名で有名な伊勢盛時の嫡子で、通常早雲を初代、氏綱を2代目と数えられている。その後氏綱から氏康→氏政→氏直と5代続く。三好長慶や織田信長が支配地の拡大に応じて居城を替えていったのと対照的に、北条氏は最初の居城に根を張るように、小田原城から全く動かなかった。
この丘の上に八幡山古郭東曲輪がある。
現在の地図の上に当時の総構の位置が書かれている。赤色の線は土塁、オレンジの線は掘。この総構が、絶対不可侵の防衛ラインとして機能していた。
曲輪へ登る。
八幡山古郭東曲輪から、天守とその奥に広がる相模湾が見える。
②小峯御鐘ノ台大堀切
八幡山曲輪から20分ほど歩き、大堀切に到着。
ここは総構の西側になり、天正18年(1590)の小田原城包囲戦では西から来る豊臣軍を阻む重要な防衛ラインだった。この大堀切が、小田原城 総構 の中では最大の遺構となる。
堀切の底を歩いて行く。小田原城総構は全長9kmあり、特にこの小峰御鐘ノ台大堀切東堀は、堀幅は25~30m、深さ(堀底⇔土塁上)は12~15m、堀の傾斜角度は50~60°あったという。400年の歳月の中で土砂の崩落や堆積により、今は当時に比べ浅くなだらかになっている。
後方の小高い曲輪いる別行動中のナオ。
ナオから見た私。(ナオ撮影)
先へ進む。途中、地面が盛り上がっている所があった。堀の底での移動を制限するための仕切り“障子堀”だ。
堀の上へ登れる場所があったので登ってみた。
大堀切は傾斜60°で深さ15mなので頑張ったら上れそうだが、ここは関東ローム層という粘土質の赤土で、つるつるとよく滑る。当時は木々は無いため落ち葉も木の根も無く、土が剥き出しの状態だった。一度大堀切に下りた者は、蟻地獄の蟻のように抜け出すことは出来なかっただろう。北条軍はこの土塁の陰で待機し、大堀切へ落ちる敵兵がいれば、弓矢か鉄砲で狙い撃つ。
総構のイメージ図があった。分かり易い。
③稲荷森と山ノ神堀切
地名から稲荷森と呼ばれる総構の一部。
小峯御鐘ノ台大堀切→稲荷森→山ノ神堀切と西から北にかけての堀切を見て行くが、この辺りの堀切は良好に遺っている。
山ノ神堀切。総構の北側を守る堀切。
山ノ神堀切の見学を終えて戻ろうとした時、不意に足が滑り転けそうになった。地面を見ると、粘土質の赤土が剥き出しになっている。これが、傾斜60°の法面でも絶対的な防御力を誇った赤土か。恐るべし関東ローム層!!
④三の丸外郭新堀土塁
総構の最後は三の丸外郭新堀土塁。入場規制があり開園時間は10時から15時となっていた。時計を見ると8時36分。9時オープンの小田原城天守を見学したあと改めて来た。
中央の凹部は武者隠しだろうか?
2.小田原城天守
総構を見たあとは小田原城天守へ。現存する縄張りは江戸期の大久保氏や稲葉氏によるもので、残念ながら戦国期の北条氏のものではない。
①御茶壺曲輪
御茶壺橋。ここは、正面(東)・北・南の3箇所ある入口の南入口となる。
御茶壺曲輪。
御茶壺曲輪は土塁で囲われている。
左側の櫓門は銅門。右にある住吉橋を渡って中へ入ると枡形虎口になっており、銅門でシャットアウトされる。
②馬屋曲輪
銅門に連絡する曲輪が馬屋曲輪。
馬屋曲輪にある二の丸観光案内所。中には手作りの鎧甲冑が置いてあった。全て段ボールをベースに作られているという。北条氏の家紋「北条鱗」がカッコイイ。
③馬出門
先に正面入口である馬出門へ。馬出門土橋の上から水堀を見ると、なぜかアヒル玩具の群れが。
馬出門。ここが小田原城の正面玄関。
馬出門の中の枡形虎口。左は馬出門で右は馬屋曲輪へ通じる門。
④銅門
馬場曲輪から住吉橋を渡り、銅門へ。
銅門付枡形虎口は、少し上り坂になっている。その先の櫓付の立派な門が銅門。ここは時代劇のドラマの撮影でよく見かける。
銅門内側の梁。銅門は復元された門だが、当時の工法もしっかり復元されている。
銅門の土塀模型。7層構造になっている。土塀作りも奥が深い。
⑤二の丸
銅門の先は二の丸で、藩主の住居兼政庁だった。
二の丸にある忍者館。子供が遊べる施設だ。
二の丸から本丸へ。戦国時代からの城なので、しっかりと高低差がある。
⑥本丸
常磐木門。本丸へ通じる門。
常磐木門の内側にあるサムライ館。刀剣・甲冑の展示と甲冑の着付け体験および売店がある。江戸期の城郭マップが良く出来た一品だったのと、小判や一分銀のレプリカ古銭セットもコスパが良かったのとで、それぞれ購入した。マップは自分用、古銭は息子のお土産。
本丸および小田原城天守(再建)。
⑦天守
江戸期の小田原城のジオラマ。総構にも枡形虎口付の門が配置されている。
戦国時代は1470年頃から1590年まで約120年間であるが、北条氏はその内約90年間この城にいた。天正18年(1590)の小田原合戦で北条氏が敗れたことで、実質的に戦国時代は終結した。
2階~4階は写真撮影禁止だった。最上階の展望デッキで風景を撮影。鉄塔の上ら辺に豊臣秀吉が築いた付城・石垣山城があるようだ。
最初に上った八幡山曲輪が見える。
戦国北条氏・北条氏政-氏直の親子は、天正18年(1590)に豊臣秀吉により滅ぼされた。北条軍総勢8万2千に対し、豊臣軍は21万だった。10年後の天下分け目の関ヶ原の戦いに集結した石田三成と徳川家康の軍勢がそれぞれ8万と10万だったことからも、この21万という人数がどれほどすごいかが分かる。とはいえ北条だけで8万も動員出来るのも何気にすごい。さすが250万石の戦国大名。いろいろ説はあるが、秀吉はなり振り構わず関東北条王国を手に入れようと考えていたので、北条親子がどういう策で応じようが殺されて奪われていたことだろう。
小田原城は3ヶ月の籠城の末陥落し、父・北条氏政(52歳)は切腹、子・北条氏直(28歳)は高野山へ蟄居となった。
昼食「早川港」
小田原城のあとは近くの漁港で昼食。私は地魚フライと刺身定食。
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