目次
有年山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 180m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 180m | ||
所要時間 | 2分 / 30分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀 |
歴 史 | 南北朝時代に赤松円心により築かれた。その後孫の直頼に引き継がれ、直頼が丹波との国境の守備を任ぜられ比延山城(兵庫県西脇市)へ移ると、代わりに赤松家家臣・富田右京が入城した。 |
駐車場 | 東有年自治会館西側の宮前待合所-Google マップ |
住 所 | 兵庫県 赤穂市 東有年347 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年1月21日(土)晴れ |
1.有年山城 登城口

ここは西播磨ツーリズム振興協議会の公認の「有年山城見学者用駐車場」の1つとなっている。表示物は何もないので本当に停めて良いのか気になるが、有年山城のパンフレットにはしっかりとPのマークが付けられているので大丈夫だ。

この山の上に有年山城はある。山の名前が大鷹山なので「大鷹山城」、八幡神社が建てられているので「八幡山城」という呼び方もあるが、どちらもありふれた名前だ。「有年山城」はオンリーワン感がある。
有年山城は、南北朝時代に赤松円心により建てられた。赤松円心といえば、鎌倉幕府倒幕と南北朝の戦いで足利尊氏に与して功績のあった武将として知られている。建武3年(1336)、北朝である足利尊氏が南朝方の北畠顕家・新田義貞・楠木正成らに敗れた際、円心は九州に落ち延びで再起を図るよう尊氏に進言したという。畿内で尊氏討伐軍が結成され、新田義貞を総大将とする6万の兵が京都から九州へ向けて進軍した。西播磨で新田軍を迎え撃つ円心は、市川沿いに書写山を中心とする第一次防衛線を、揖保川沿いに城山城を中心とする第二次防衛線を、千種川沿いに白旗城を中心とする第三次防衛線を敷いた。有年山城は白旗城の南側を守る支城のひとつとして築かれたようだ。円心自身は白旗城に2000の兵で籠城した。ここで円心が新田軍を50日以上足止めしたお陰で尊氏は軍勢を立て直す時間を得、南北朝時代を勝ち切ることが出来た。
室町幕府が開府されると、幕府に管領(将軍を補佐し政務全体を統括する役職)と侍所(軍事・警察を担う機関)が設けられ、赤松氏はその侍所を担った。管領と侍所は「三管四職」と呼ばれ、前者は細川氏、斯波氏、畠山氏の3氏が、後者は赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の4氏がその補任を受ける権利を持っていた。

八幡神社の鳥居が登城口。ナオが鳥居の蔭にある何かを見つけた。

百葉箱の様な箱の中に、貴重なパンフレットの数々が入っている。残念ながら「縄張り図」と「年表」は品切れだった。
2.八幡神社ルート
①舟灯台

獣よけのゲートを通り、登っていく。有年山城の登城ルートは主に3つある。ここ「八幡神社ルート」、鳥居の100mほど先のT字路から上る「薬師堂ルート」、ここより700~800m東にある有年公民館付近から上る「放亀山古墳ルート」。有年公民館は駐車場50台でトイレ完備となっている。

舟灯台。眼下の千種川を渡る高瀬舟のために川を照らす灯台。
②有年八幡神社

有年八幡神社

有年八幡神社の石垣に、扇と三日月とウサギの3つの飾り石がある。特にウサギは輪郭が複雑なのだが、周りの石との合わせ部分を上手に細工してある。

登山者が道に迷わないよう、要所要所で木に巻き付けられた青いテープと赤い矢印看板がルートを示している。
③南曲輪群

ここから先は、南の尾根を真っ直ぐ進んでいく。

5つある南曲輪群の上から4番目の曲輪・南第四曲輪。

南曲輪群の中で最も広い曲輪、南第一曲輪。
3.主郭群~東曲輪群
①本丸

有年山城の比高は約180m。南北朝時代は400m級の山城が主流だったので、かなり低い印象を受ける。しかし周りに高い山は無く360度周囲を見渡せるので、ベストな選定だろう。
有年山城の主な城主は、赤松一族の赤松直頼が知られている。円心の嫡男で赤松氏第5代当主・赤松範資の三男で、本郷を名乗ったことから本郷直頼とも呼ばれる。「播磨鑑」によると、貞和年間(1345~1350)に城主になったとされる。「赤松家播備作城記」によると、直頼が城主になったのは暦応年間(1338~1342)とされている。しかし暦応2年(1339)生まれの直頼が、父も祖父も健在なのに元服前に城主に据えられるのは不自然だろう。江戸時代に書かれた文書を鵜呑みにするのは危うい。

次の目的地「鍋子城」はこの辺り。
②東曲輪群

東曲輪群を見に行く。この先は麓までの道が整備されており、放亀山古墳ルートとなっている。下に見えるのは東第一曲輪になる。

東第一曲輪の下にある東第二曲輪。右の方に井戸跡があるので行ってみる。

井戸跡。

井戸跡付近に土橋がある。

土橋の近くにある土塁と横堀。

竪堀。井戸を守るためか、この付近は技巧的な造りになっている。
③主郭部

一度本丸に戻り、本丸の西に連なる主郭部を見に行く。主郭部は4つの段曲輪から成っている。

長年の土砂の堆積で浅くなっているのだと思うが、ここには主郭群と西曲輪群を分断する堀があった。
4.西曲輪群

西の丸。有年山城で最大の曲輪。

地面に大きな穴が。近くの木に看板が付けられており「大型土壙」と書かれている。“壙”は“穴”という意味なので、要するに「大きな穴」ということだ。

先の矢印看板は左下を指している。そっちへ行くと薬師堂ルートがある。先に西曲輪群の残りの段曲輪を見るため右の方へ行く。

西第二曲輪。

西第三曲輪から見る景色。
5.南西曲輪群

薬師堂ルートで降りながら、南西曲輪群を見る。ここは南西第四曲輪。

赤松氏時代の石垣か?

有年山城の縄張り図がこんなところに。登城口に縄張り図付きの案内板が無いのは唯一残念なポイントだ。紙で用意していただいている縄張り図は品切れだった。

山の麓にある薬師堂。

薬師堂を下ったところ。この駐車場はマップにPの表記がないので、駐車しないほうが無難だろう。
鍋子城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 130m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 130m | ||
所要時間 | 5分 / 20~25分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切 |
歴 史 | 播磨守護・赤松氏の被官・富田右京の城。富田右京が有年山城へ異動になったあとは、岡豊前守(光広)が入城した。その後、小河丹後守が入った。 |
駐車場 | 長谷川と千種川の合流付近の三角地帯-Google マップ |
住 所 | 兵庫県 赤穂市 東有年 権現前 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年1月21日(土)晴れ |
6.駐車スペース~登城口

有年山城から1~2分。県道90号線沿いのT字路にデッドスペースがあるので停めさせていただく。

駐車スペースから有年山城が見える。

県道90号線沿い歩道を、千種川の河口方面へ向かって歩いて行く。

とても山城がある雰囲気ではない。ナオも「城どこ?」と聞いてきた。

ラビリンスの隠し通路のように、突如として現れる登城口。「西播磨の山城へGO」の旗が無ければ見逃してしまいそうだ。

ここには縄張り図があった。
7.大龍権現

大龍権現の鳥居。

登城口からそこそこ登った場所に、荒れている祠があった。上には「大龍権現」の石碑、下の洞穴には並々と水が張っていた。ここは比高120mの地点で、頂上は130m。流れてきた雨水ではここまで溜まらないので、下から湧き出ている泉なのだろう。「大龍権現」と呼ばれる所以だ。

恐らく大龍権現の泉の前を通過して奥へ行くのが正規ルートだったと思うが、垂直登城を目指したので東曲輪へ上るルートを選んだ。腰曲輪の斜面を上り、頂上(尾根の曲輪群)を目指す。
8.主郭部

主郭部の帯曲輪。

切岸を登って本丸に到着。

鍋子城の城主は、赤松家臣・富田右京が知られている。富田右京が有年山城へ異動になったあとは、岡豊前守や小河丹後守が入った。

本丸の西側の段曲輪。段曲輪が5つほど続くが、尾根の堀切以外に目立った遺構は無さそうだ。
昼食 坂越牡蠣

坂越の古民家カフェ「暖木」。大正時代の下駄屋さんを改装したご飯屋さんだ。

坂越牡蠣フライ定食。牡蠣の海臭さが全く無く、きめ細かい薄付きのパン粉の中に旨みを凝縮した牡蠣が7つも入っていた。
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