龍松山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 80m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
指 定 | 和歌山県指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀 |
歴 史 | 熊野の国衆・山本忠朝-康忠の城。天正13年(1585年)の羽柴秀吉の紀州征伐の際、当主・康忠は、亀山城の湯川(湯河)直春に従い秀吉軍と戦った。和睦したのち挨拶のため羽柴秀長の大和郡山城に赴いた際、秀長の重臣・藤堂高虎により誅殺された。 |
駐車場 | 二の丸まで車で乗り入れ可能 龍松山城址 – Google マップ |
住 所 | 和歌山県 西牟婁郡上富田町 市ノ瀬1957 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年2月5日(日)晴れ |
1.龍松山城 登城口
龍松山城の登城口。車一台が通れる程度の道幅ではあるが、舗装道で「普通車通行可」と看板に書かれているのでそのまま車で登る。
道中竪堀のような凹みを発見。林業では縦に道を付けることがあるのと、豪雨による雨道の可能性も考えられるので、遺構かどうかは不明。
ここには「横堀」の看板が立っており、戦国時代の遺構で間違いないようだ。
2.龍松山城 主郭部
①二の丸
二の丸の虎口。車は二の丸に乗り入れる。
この山に城を築く際、この辺りにあった松の木が地を這うように生えており、それが龍に見えたため「龍松山城」と名付けたという。
二の丸は、本丸の丘を中心にドーナツ状に削平されている。時計回りにぐるりと回ってみたが、随分と広い。
龍松山城の城主・山本氏は、室町幕府の奉公衆として知られている。奉公衆とは、足利将軍直属の軍事力として、京で幕府の警備に当たっていた者たちのことだ。同じ奉公衆の湯河氏(湯川とも書くが正しくは湯河)や玉置氏とともに四番隊と呼ばれた彼らは紀伊に領地を持っているが、領地経営は一族や家臣たちに任せ、当主と一部の家臣は京に住んでいた。紀伊に本拠地はあれど紀伊守護の畠山氏とは主従関係にはなく、むしろ守護を監視して牽制する立場だった。
永禄9年(1566)に当主・山本忠朝が亡くなると、忠朝の幼い嫡子(のちの康忠)と忠朝の弟・山本弘元との間で家督争いが起きた。しかし山本家家臣団は重臣・田上朝康を中心として忠朝の嫡子をしっかり擁立している。
戦国時代の最終盤である天正13年(1585)に、羽柴秀吉による紀州侵攻が開始された。12年ほど前に畠山氏も室町幕府も滅びており、湯河・玉置・山本の奉公衆たちは紀伊で独立勢力として存在していた。秀吉と家康が争っているタイミングで根来寺や雑賀衆らとともに秀吉領の大坂城や岸和田城を攻撃したため、秀吉の反撃を食らう形となった。
山本家の当主・山本康忠(25歳)は、亀山城の湯河直春(45歳くらい?)と共にこの龍松山城に籠り、羽柴軍を迎え討った。籠城戦は湯河・山本軍のゲリラ戦が功を奏し、羽柴軍は苦戦を強いられていた。3ヶ月ほど経って羽柴側からの和議の申し入れがあると、湯河と山本はそれを受け入れた。そして羽柴軍の大将・羽柴秀長(秀吉の弟)との話合いのため大和郡山城を訪れた。この後2人は、秀長の重臣・藤堂高虎の手によって暗殺されてしまうのだが、その時の経緯は不明である。歴史の行間は想像するしかない。
湯河・山本の両者は、羽柴軍と互角以上に戦った結果相手から和議を申し入れられたのだから、自分たちの権利についての対等以上の話合いを想定していたかも知れない。しかし羽柴秀長からするとこのまま戦いが長引いても最後は220万石の羽柴の軍勢を動員して5万石足らずの紀伊の元奉公衆たちを殲滅するだけだから、被害が少ないうちに平和的に解決しようとしての和議だったと思う。双方が思い描く未来予想図に大きなギャップがあったのではないだろうか。
大和郡山城へ入った湯河と山本が通されたのは、秀長ではなく藤堂高虎の屋敷だった。そして告げられた要求は、「所領没収の上、羽柴秀長への臣従」だったと考える。2人ともあり得ない要求に憤慨し、国へ戻って戦の続きをやるなどと捨て台詞を吐いたかも知れない。将軍の陪臣の弟である秀長は奉公衆より格下であるというプライドなのか、多くの家臣を抱える当主としての立場からなのか、それを許容出来なかった。そして2人は高虎によってその場で殺されてしまった。
その後、湯河直春の子・勝春(14歳)は羽柴秀長の家臣として招かれ、湯河家は存続を許された。しかしながら山本康忠は25歳と若かったため、子が居なかったか居ても幼すぎて後継として立てることが出来なかったのか、山本家は消滅を余儀なくされた。
②本丸
本丸の虎口。
本丸。79m×50mの円形の曲輪。端のほうには土塁が残っている。広い曲輪のことをよく「千畳敷」と表現するが、ここは倍の2千畳近くある。
石碑。
本丸から見る富田川。
平須賀城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 180m | 整備度 | ☆---- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 180m | ||
所要時間 | 5分 / 40分 |
指 定 | みなべ町指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、横堀、畝状竪堀 |
歴 史 | 湯河直春の重臣・野辺春和の城。天正10年(1582)直春に謀反の疑いをかけられた春和は、平須賀城を攻められ敗北。春和は越中へ逃亡し、平須賀城は直春の直轄領となった。 |
駐車場 | 国道424号線沿いの駐車スペース – Google マップ |
住 所 | 和歌山県 日高郡 みなべ町 |
トイレ | みなべうめ振興館 |
訪問日 | 2023年2月5日(日)晴れ |
3.みなべうめ振興館
平須賀城へ向かう道中にみなべうめ振興館に立ち寄る。
平須賀城は、紀伊国牟婁郡西部(現田辺市)を本貫地とする湯川氏の城だ。戦国初期には日高郡西部(現御坊市)に進出しており、より京に近いその地を本拠地としたため、平須賀城は家臣の野辺氏に与えた。
天正10年(1582)に、この地の領民が、領主である野辺春和がその主君・湯河直春に対して謀反を企てていると密告したという。湯河直春は大軍勢で平須賀城を攻め、野辺春和は防戦したものの敗北し、越中へ逃亡した。そして平須賀城はふたたび湯河氏の直轄領となった。
その後、野辺春和とその嫡子・弥一郎が紀伊へ戻ってきて武士に復帰しようと努めたことを考えると、謀反の話は讒言だったのかも知れない。結局武士への復帰は叶わず、春和は失意の内に死去。弥一郎は武士を諦め医師になったという。
4.駐車スペース
みなべうめ振興館から北へ4kmほど先の国道沿いに広い路肩があり「平須賀城」の看板と縄張り図付きの案内板がある。ここに車を停めた場合、登城口まで歩いて約10分との事。
しかし、もう少し中まで車で入れるので、こちらの路肩に停めさせていただいた。ここからなら登城口まで歩いて5分で行ける。
ここから歩いて登城口を目指す。
5.登城道~出丸
登城口。北尾根から上るルート。
トゲのあるツタのような草が足元に絡みつく。右側には獣避けの電線もある。まばらに生えている木にも幹にトゲがあって頼ることも出来ない。今まで私が登った山城で、ここまで過酷なルートは経験がない。
最初の堀切。
堀切の先の尾根は整地されていないためか、滑りやすい。帰路はこの区間を歩いて下りることが出来ず、後ろ手に地面に手を付いて這うように下りた。
出丸。
出丸から国道の案内板のあった路肩がよく見える。ここは物見台の機能を持っていたようだ。
6.平須賀城 主郭部
主郭部のすぐ下の曲輪に二本の竪堀がくっきりと残っている。
主郭部の切岸。
切岸を上って下を見ると、櫓址の小山が良く分かる。
①二の丸
二の丸。平須賀城で最も広い曲輪。
草がすごい。この辺りの曲輪は木が全て取り払われているため草の楽園と化している。刈られた草が放置されているので、地形が全く見えないくらい草で盛り上がっており、まともに歩けない。とはいえ草が刈られていなければ立ち入ることすら出来なかっただろうからそこは感謝しつつ頂上を目指す。
②本丸
本丸はいくつかの段曲輪で構成されている。
上り易そうな右側から進む。あとでジオラマを確認したら、当時もここが登り口だった。
本丸のてっぺんの曲輪。
南部川と南部湾がよく見える。
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