安宅勝山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 210m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 210m | ||
所要時間 | 3分 / 30分 |
指 定 | 国指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、石垣 |
歴 史 | 熊野と淡路に勢力を持った安宅氏の宗家・安宅実俊の支城。享禄3年(1530)に起きた内乱により勢力を失い、その後庶流の淡路安宅氏が宗家となった。天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めにより、安宅氏は滅亡した。 |
駐車場 | 日生神社 – Google マップ |
住 所 | 和歌山県 西牟婁郡 白浜町 塩野29 |
トイレ | 最寄りのコンビニ または 安宅八幡神社 |
訪問日 | 2023年2月5日(日)晴れ |
1.登城道
道沿いにある勝山城の案内板を左へ入ると日生神社がある。入口は狭いが中は車4台ほど停められるスペースがあり、ここに停めさせていただく。
安宅勝山城の案内板。案内板の左上に史跡のマークがある。正式には「文化財愛護シンボルマーク」といい、広げた両手をイメージしているとのこと。3つ重なっているのは過去・現在・未来を現わし、文化財を永遠に伝承していくという意味だそうだ。
白浜町に点在する安宅氏の城郭群は、要害山城(勝山城)、安宅氏居館(安宅本城)、八幡山城、土井城、中山城、大野城、大向出城の7基あるが、そのうち前者5基が「白浜町安宅氏城館跡」として国の史跡に指定されている。戦国期の城址で国指定されているのは和歌山県ではここだけとなる。
日生神社の前の道を左へ進み、突き当たりに「勝山城跡」の矢印看板があるので、矢印の通り右へ進む。
登城口。看板に「見学の際は、城跡を荒らさないようにご注意ください。」と書かれている。過去に心ない見学者がいたのだろうか?
荷物運搬用のレールがある。レールに沿って登城道は続いている。
国指定史跡なので、しっかりした看板が要所要所に設けられている。
山の斜面をつづら折りに進んで行く。
尾根までもう少し。
山の斜面を登り切ると、その先は尾根伝いに登っていく。尾根道の左右は切岸になっている。
2.三重堀切
主郭部の南側の尾根に造られた三重堀切の一つ目。
堀切-2つ目。
堀切-3つ目。
堀切の側面。400年以上の経時変化により凹凸は小さくなっているが、尾根から斜面に掛けて凹になっているのはしっかり確認出来る。
3.主郭部
①二の丸
主郭部の帯曲輪を進む。上り口が分からなかったので、斜面を無理矢理上る。
斜面を上ると二の丸がある。曲輪の周囲は土塁で囲われている。所々で発掘調査中のブルーシートが掛けられている。
②本丸
安宅勝山城は、熊野と淡路を治めた安宅氏の支城だ。現在和歌山県南部は「牟婁郡」と呼ばれているが、「牟婁郡=熊野」と考えて良いようだ。田辺市より北が本来の「紀伊国」だったが、熊野は紀伊に吸収合併され同じ「紀伊国」となり、明治の廃藩置県で「和歌山県」となった。
安宅氏は信濃の小笠原氏の庶流で、熊野の安宅荘を領したことから安宅氏を名乗った。古くは安宅木と書いたそうだ。船の扱いに長け、室町時代初期頃にはすでに淡路島も所領としていた。
次の目的地、安宅八幡山城はこの辺り。その麓に安宅本城(居館)があった。安宅氏は平時は本城に居り、有事は八幡山城を詰城としていた。八幡山城が比高70mなのに対し勝山城は比高210mあるため、上から見下ろす形になる。当時は木を伐採していたと考えると、ここから本城・八幡山城とその周辺が丸見えだ。近づいて来る敵軍をいち早く確認出来、すぐさま狼煙を上げて銅鑼を叩き、危険を知らせることが可能だっただろう。
安宅八幡山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 70m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 70m | ||
所要時間 | 1分 / 11分 |
指 定 | 国指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、石垣 |
歴 史 | 熊野と淡路に勢力を持った安宅氏の宗家・安宅実俊の詰城。享禄3年(1530)に起きた内乱(安宅一乱)により勢力を失い、その後庶流の淡路安宅氏が宗家となった。天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めにより、安宅氏は滅亡した。 |
駐車場 | 安宅八幡宮 – Google マップ |
住 所 | 和歌山県 西牟婁郡 白浜町 矢田555 |
トイレ | 八幡神社にあり |
訪問日 | 2023年2月5日(日)晴れ |
4.安宅八幡神社
安宅勝山城から5分程度で安宅八幡神社の駐車場に到着。
安宅八幡山城の麓にある安宅八幡神社。八幡神は武神なので、全国に勧請され崇拝された。神社が先か城が先かは分らないが、安宅氏がこの山に城を築いたころにはこの神社もあったのだろう。
5.登城道
登城口にある案内板。勝山城とコンセプトは同じで、曲輪は全て土塁で囲っている。居館である安宅本城のすぐそばなので、ここは有事の際の詰城なのだろう。
登城口から、切岸に造られた犬走りのような道を上っていく。
傍を流れる日置川。安宅八幡山城は日置八幡山城ともいう。
主郭部へ向かう大手道。
二の丸下にある横堀と土塁。第一次防衛線だ。
大手道をさらに上って行く。横堀と二の丸の間は切岸のため、ここ以外は上れない。
6.主郭部
①二の丸
二の丸の虎口。
二の丸。二の丸も土塁で囲われている。
b) 本丸
切岸。この上は本丸。
大永6年(1526)に安宅宗家の当主・安宅実俊が死去した際、嫡子はまだ11歳だったため、実俊の弟・定俊が名代に就いた。それから4年後、嫡子は元服し安宅安定と名乗り家督を継ごうとしたが、定俊は実権を返さなかった。“戦国あるある”だが、実権を握った名代と正当な継承者による一族同士の骨肉の争いとなった。これを安宅一乱という。
基盤のない安宅安定を助けたのは、分家の淡路安宅氏・安宅治興だ。治興は、淡路守護細川氏を倒した讃岐守護細川氏に仕えており、幼い当主(細川晴元)の家臣筆頭・三好元長の三男(千々世-2歳)を養嗣子とすることで、淡路安宅氏の中で頭角を現わしていた。正義は安定側にあることで味方が多く付いたからか、治興は宗家名代の定俊を討ち、安定を宗家の当主に据えることに成功した。しかし定俊を討つということは、宗家の母体を潰すということに他ならず、安定が当主に就いた安宅宗家は疲弊し弱体化していた。
その後、淡路安宅氏が宗家となった。安宅治興の養嗣子・千々世は元服し安宅冬康となり、6歳年上の長兄・三好長慶を補佐して畿内で活躍していく。
本丸北側の土塁にある木は、御神木のようだ。
土塁の下には帯曲輪がある。
本丸の南側へ行ってみると、切岸にエグい角度の竪堀があった。
土塁伝いに二の丸へ下りる。この先に三の丸があるのだが、シダ系の植物が藪化しており、通れそうにない。恐らくこの辺りに水の手があるのだろう。
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