目次
3.龍松山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 80m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
指 定 | 和歌山県指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀 |
歴 史 | 熊野の国衆・山本忠朝-康忠の城。天正13年(1585年)の羽柴秀吉の紀州征伐の際、当主・康忠は、亀山城の湯川直春に従い秀吉軍と戦った。和睦したのち挨拶のため羽柴秀長の大和郡山城に赴いた際、秀長の重臣・藤堂高虎により誅殺された。 |
駐車場 | 二の丸まで車で乗り入れ可能 龍松山城址 – Google マップ |
住 所 | 和歌山県 西牟婁郡上富田町 市ノ瀬1957 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年2月5日(日)晴れ |
3-①昼食「口熊野ラーメン」
昼食は上富田町にある口熊野食堂で。
口熊野ラーメンは、和歌山ラーメンの醤油豚骨をベースに鶏ガラを加えて豚骨の臭みを消したスープが特徴との事。和歌山ラーメンの庶流だが、庶流が本家を凌駕するのは戦国時代では珍しくない。本場の和歌山ラーメンを食べたことはないので比較は出来ないが、口熊野ラーメンは美味しかった。
3-②登城口~
安宅八幡山城からだと30分~40分。龍松山城の登城口。車一台が通れる程度の道幅ではあるが、舗装道で車の通行可なので、そのまま上る。
道中、竪堀を発見。
横堀もある。
3-③主郭部
a) 二の丸
二の丸の虎口。
二の丸。二の丸の虎口付近(この辺り)にあった松の木が地を這うように生えており、それが龍に見えたため「龍松山城」と名付けたという。
二の丸は、本丸の丘を中心にドーナツ状に削平されている。
時計回りにぐるりと回ってみたが、随分と広い。
b) 本丸
本丸の上り口に立つ案内板。「作画:山本ゾンビ」が気になる。龍松山城の城主・山本康忠と同じ名字だ。
本丸の虎口。
本丸。
石碑。
龍松山城の城主・山本氏は、湯河氏、玉置氏と並んで、紀伊の有力国衆の一人だ。永禄9年(1566年)に当主・山本忠朝が亡くなると、忠朝の幼い嫡子(のちの康忠)と忠朝の弟・山本弘元との間で家督争いが起きるが、40年前の安宅宗家の家督争い(安宅一乱)を教訓としたのか、山本家家臣団は忠朝の嫡子をしっかり擁立した。
時は過ぎ天正13年(1585年)、山本家の当主・山本康忠(20代半ば)は、羽柴秀吉の紀州侵攻に対し、亀山城の湯河直春(40~50歳)と共にこの龍松山城で羽柴軍を迎え討った。3ヶ月におよぶ籠城戦は、湯河・山本軍のゲリラ戦が功を奏し、羽柴軍は苦戦を強いられていた。
羽柴側からの和議の申し入れを湯河と山本は受け入れ、羽柴軍の大将・羽柴秀長(秀吉の弟)との話合いのため大和郡山城を訪れた。この後二人は、秀長の重臣・藤堂高虎の手によって暗殺されてしまうのだが、その時の経緯は不明である。歴史の行間は想像するしかない。
湯河・山本の両者は、羽柴軍と互角以上に戦った結果相手から和議を申し入れられたのだから、対等な話合いを想定していたはずである。しかし羽柴秀長からするとこのまま戦いが長引いても、最後は860万石の羽柴秀吉の軍勢を動員して20万石足らずの紀伊の国衆たちを殲滅するだけだから、被害が少ないうちに平和的に解決しようとしての和議だったと思う。双方が想定しているアジェンダと思い描く未来予想図に、大きなギャップがあっただろうことは想像に難くない。
大和郡山城へ入った湯河と山本が通されたのは、秀長ではなく藤堂高虎の屋敷だった。そして告げられた要求は、「所領没収の上、羽柴秀長への臣従」だったのではなかろうか? 二人ともあり得ない要求に憤慨し、国へ戻って戦の続きをやるなどと捨て台詞を吐いたかも知れない。湯河直春と山本康忠は、藤堂高虎によってその場で殺されてしまった。
その後、湯河直春の子・勝春(14歳)は羽柴秀長の家臣として招かれ、湯河家は存続した。しかしながら山本康忠は20代半ばと若かったため、子が居なかったか居ても幼すぎて後継として立てることが出来なかったのか、山本家は消滅した。
4.紀伊 田辺城
形 態 | 海城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | - | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
指 定 | 田辺市指定史跡 |
遺 構 | 水門、石垣 |
歴 史 | 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、紀伊に浅野幸長が入り、その家老・浅野氏重が田辺に3万8千石で入った。その6年後、氏重はこの地に田辺城とその城下町をを築いた。 |
駐車場 | 市営扇ヶ浜海岸駐車場 – Google マップ |
住 所 | 和歌山県 田辺市 上屋敷1丁目 田辺城 水門跡 – Google マップ |
トイレ | 駐車場にあり |
訪問日 | 2023年2月5日(日)晴れ |
4-①駐車場
龍松山城から約30分。田辺市営扇ヶ浜海岸駐車場に車を停め、田辺城へ。
田辺湾。海の向こうに見える陸地は南紀白浜だ。
4-②水門
錦水公園の中に田辺城の水門がある。
案内板。
錦水神社。
田辺城の水門。
5.平須賀城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 180m | 整備度 | ☆---- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 180m | ||
所要時間 | 5分 / 40分 |
指 定 | みなべ町指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、横堀、畝状竪堀 |
歴 史 | 紀伊守護・畠山氏の被官・野辺春和の城。永正10年(1513年)湯河氏と湯河氏に扇動された農民一揆により、平須賀城は落城したという。 |
駐車場 | 国道424号線沿いの駐車スペース – Google マップ |
住 所 | 和歌山県 日高郡 みなべ町 |
トイレ | みなべうめ振興館 |
訪問日 | 2023年2月5日(日)晴れ |
5-①みなべうめ振興館
平須賀城に向かう道中にみなべうめ振興館がある。
平須賀城のジオラマ。
年表によると、1513年に平須賀城は落城し、城主・野辺氏は追放された。
畝状竪堀が設けられていることからも、平須賀城は継続して使われていたことは明白で、その後は湯河氏の領地となっていたようだ。
5-②駐車スペース
a) 駐車スペース-表-
みなべうめ振興館から北へ4kmほど先の国道沿いに広い路肩があり「平須賀城」の看板と縄張り図付きの案内板がある。
ここに車を停めた場合、登城口まで歩いて約10分との事。
b) 駐車スペース-裏-
もう少し中まで車で入れるので、こちらの路肩に停めさせていただいた。ここからなら登城口まで歩いて5分で行ける。
ここから歩いて登城口を目指す。
5-③登城口~
登城口。北尾根から上るルート。
トゲのあるツタのような草が足元に絡みつく。まばらに生えている木にも幹にトゲがあって頼ることも出来ない。今まで私が上った山城の中で、ここまで過酷なルートは無かったと思う。
尾根に出ると上りやすくなった。
堀切。
5-④出丸
堀切の先の尾根は整地されていないためか、滑りやすい。帰路は、この区間を歩いて下りることが出来ず、後ろ手に地面に手を付いて這うように下りた。
出丸。
出丸から、国道の案内板のあった路肩がよく見える。ここは物見台の機能も持っていたようだ。
5-⑤主郭部
主郭部のすぐ下の曲輪に二本の竪堀がくっきりと残っている。
主郭部の切岸。
切岸を上って下を見る。
a) 二の丸
二の丸。平須賀城で最も広い曲輪。
草がすごい。この辺りの曲輪は木が全て取り払われているため草の楽園と化している。刈られた草が放置されているので、地形が全く見えないくらい草で盛り上がっており、まともに歩けない。とはいえ草が刈られていなければ立ち入ることすら出来なかっただろうからそこは感謝しつつ頂上を目指す。
b) 本丸
本丸はいくつかの段曲輪になっている。
上り易そうな右側から進む。あとでジオラマを確認したら、当時もここが上り口だった。
本丸。
本丸のてっぺんの曲輪。
南部川と南部湾がよく見える。上富田町を“口熊野”と呼んだり、上富田町の少し北にみなべ(南部)町があったりすることから、この辺りが紀伊と熊野の国境だった歴史をうかがい知ることが出来る。
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