城リスト
龍野城
形 態 | 平山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 20m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / - | ||
所要時間 | 5分 / - |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀切、土塁 |
歴 史 | 明応8年(1499年)に築城された龍野赤松氏の龍野城を前身とする。その後、織豊大名たちが入部し、寛文12年(1672年)に脇坂安政により、近世城郭へと改修された。 |
公共交通 | 電車:本竜野駅(JR姫新線)=徒歩23分⇒龍野城 |
駐車場 | たつの市営駐車場(中霞城②) – Google マップ |
住 所 | [駐車場]兵庫県 たつの市 龍野町中霞城155 [龍野城]兵庫県 たつの市 龍野町上霞城128-1 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2024年1月14日(日)快晴 |
1.龍野城 駐車場
今回は、兵庫県で5番目に人気のお城、龍野城を巡る。5番目というとそれほどでもない印象を受けるが、実は兵庫県は名城がとても多い。日本城郭協会が指定している「日本100名城」は、国宝・姫路城や天空の城・竹田城をはじめ5基、同じく「続日本100名城」は3基ある。指定の少ない都道府県ではそれぞれ1基づつなので、200名城中8基がいかに多いかが分かるというもの。しかも龍野城は200名城に数えられておらず、その8基の内のいくつかを抑えての5位となっている。
たつの市営駐車場 中霞城②は、1日停め放題で300円。ここに車を停めたまま、昼食→龍野城→鶏籠山城(龍野古城)と回る予定なので、時間による料金変動がないのは大変ありがたい。
2.龍野城
① 櫓と門
駐車場から歩いて5分程度のところにある龍野城。放置された路駐車両がなければ、しころ坂の白壁と隅櫓とその奥にそびえる鶏籠山は絶好の景観だろう。
龍野城の顔となっている模擬隅櫓。下の石垣は組み直されたのか、真新しい感じがする。しころ坂をそのまま登っていくと民家で、城内へは右の方の階段を登って行く。
「しころ」とは兜の部位の名称で、後頭部や首を守るために兜から垂れ下がっている箇所をいう。本丸を兜に見立て、そこから「しころ」のように垂れ下がっている坂なので「しころ坂」と名付けられた。
西門(再建)。しころ坂の上にあるので錣坂門とも呼ばれる。
西門をくぐると、矢印看板が左右に2つ。左は「龍野古城登り口」、右は「龍野城」と書かれている。
龍野城は戦国初期に鶏籠山に築かれた比高150mの山城と、その麓の比高20mの平山城とがある。前者を龍野古城、後者を龍野城と呼ぶのが一般的なようだ。龍野古城は山の名から鶏籠山城とも呼ばれる。戦国期から豊臣期には両方使用されていたが、江戸期には龍野城のみ使用されるようになった。
② 本丸
龍野城と龍野古城(鶏籠山城)は赤松広秀(1562-1600)の城として知られている。明応8年(1499年)に広秀の祖父・赤松村秀の城として築城され、村秀から広秀まで4代80年続いた。比高20mの丘陵にあるこの曲輪は、その当時から城主の居館として使用されていたようだ。天正5年(1577年)に織田信長による播磨侵攻が開始されると、赤松広秀は織田軍の大将・羽柴秀吉に下った。その後龍野城は秀吉の重臣・蜂須賀正勝が城主となり、続いて福島正則→木下勝俊→小出吉政と、羽柴一門衆が城主を務めた。江戸期には山城は役割を終えたので、ここが龍野城の主郭となった。脇坂安治の孫にあたる脇坂安政が龍野藩に入部し、明治まで10代200年続く。
広秀の龍野赤松氏は、赤松嫡流でありながら赤松宗家とは別の家系となる。龍野赤松氏は、“赤松中興の祖”と呼ばれる赤松政則の長男・村秀を初代とし、村秀→政秀→広貞→広秀と4代続く。赤松宗家は、同じく赤松政則の長女・瑞松院に婿入りした義村から、義村→政村(晴政)→義祐→則房と4代続く。双方は基本的に仲が悪く、天文7年(1538年)に出雲から尼子詮久(晴久)が攻めてきた際には、龍野赤松氏(政秀-28歳)は尼子氏に味方して一緒に赤松宗家(政村-25歳)を攻撃している。永禄元年(1558年)には、赤松重臣・浦上政宗が政村(45歳)の子・義祐(21歳)を擁立して政村を置塩城から追い出すという事件が起きたが、龍野赤松政秀(48歳)は政村を保護し、義祐&浦上氏と戦った。龍野赤松氏と赤松宗家の歴史は、だいたい戦っている。
龍野赤松氏の初代となった村秀が生まれたのは明応2年(1493年)のこと。父・赤松政則(38歳)の正室は伊勢貞宗(49歳)の妹だったがすでに亡く、側室の子供だという。時を同じくして、管領・細川政元(27歳)の姉・洞松院(30歳)が僧籍から還俗し、政則の継室として赤松家に入ってきた。そして生まれたばかりの村秀は赤松家から出され、赤松重臣の宇野政秀に預けられた。
明応2年といえば“明応の政変”のあった年。細川政元が、幕府の大黒柱・伊勢貞宗と将軍家の重鎮・日野富子を味方にし、現将軍の足利義材を幽閉したクーデターである。天下を牛耳らんとする政元は、姻戚外交により西の有力大名・赤松氏を取り込んだ。
それからわずか3年後に赤松政則は亡くなる。継室の洞松院は女の子(瑞松院)のみ産んでいたため、細川政元は赤松庶家(七条家)の同じ年頃の男の子(2歳-のちの義村)を赤松宗家の養嗣子とし、洞松院の子をその正室とした。明応8年(1499年)に宇野政秀により村秀(6歳)の居城・龍野城(鶏籠山城)が築城され、龍野赤松氏が誕生した。赤松の家臣達の本音は、「宗家は義村が継いだが、嫡流は村秀」であったようだ。龍野赤松氏と赤松宗家が並び立つ情勢が、その後約80年続いてゆく。
本丸御殿の中へ入る。残念ながら「龍野城」の御城印は販売終了していた。再販の予定も無し。
壁に立て掛けられた手槍と弓。
刀は17振もある。
③ 埋門と資料館
本丸南の門を見にいく。
本丸虎口の正門にしか見えない立派な櫓門(再建)だが、なぜか埋門と呼ばれている。明治初期の地図に、櫓の絵と「埋門」の文字がしっかり書かれているのでどちらも間違いではないようだ。
本丸の東側にある龍野歴史文化資料館。
龍野城のジオラマ。右端にほんの少し造られているが、龍野城の東を一級河川の揖保川が流れる。その内側にも東西に小川があり、龍野城は地の利を生かした要害であることが分かる。
鶏籠山城(龍野古城)
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 150m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | 見応度 | ☆☆☆☆- | |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 150m | ||
所要時間 | - / 20分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀切、土塁 |
歴 史 | 明応8年(1499年)に赤松村秀の城として築城された。その後、龍野赤松氏として4代約80年続く。天正5年(1577年)に織田信長による播磨侵攻が開始されると、龍野赤松氏は織田軍の大将・羽柴秀吉に下った。 |
公共交通 | 電車:JR本竜野駅(姫新線)=徒歩23分⇒龍野城 |
駐車場 | たつの市営駐車場(中霞城②) – Google マップ |
住 所 | [駐車場]兵庫県 たつの市 龍野町中霞城155 [龍野城]兵庫県 たつの市 龍野町上霞城128-1 |
トイレ | 龍野城のトイレ |
訪問日 | 2024年1月14日(日)快晴 |
3.鶏籠山城 登城口
龍野城の北西にある登り口から鶏籠山城(龍野古城)へ向かう。
鶏籠山城(龍野古城)の案内板。説明文には、龍野古城の変遷が詳しく書かれている。鶏が逃げないように被せておく「伏籠」に似ていることから鶏籠山と呼ばれているとのこと。麓が急峻で頂上へ行くほど傾斜が緩やかな山は、山城の理想的な形と言われている。
想像復元図は、神戸在住で播磨を中心に山城を研究している木内内則氏による作画だ。「西播磨の山城へGO」の山城の絵を全て手がけている。
大手道。
丸太階段は有ったり無かったりで、崩壊している箇所もある。階段は「無くて当たり前、あれば感謝」の気持ちで歩けば何も気にならない。草木が生い茂って通行出来ない場合をのぞき、問題は無し。
登城口から15分。大手道とは別に、「土塁跡」の矢印看板が見えた。
城郭放浪記様の許可を得て縄張り図を転載させていただく。龍野古城は本丸のある北曲輪群と、二の丸を主郭として7~8段の段曲輪からなる南曲輪群とで構成されている。
4.南曲輪群(二の丸)
南曲輪群の一番下の曲輪(Ⅱ-9)にある土塁。山の東側や西側に比べて南側は傾斜が緩やかなので、敵の侵入を想定しているのだろう。
その上の曲輪(Ⅱ-8)。
曲輪(Ⅱ-8)には、細かい石がゴロゴロと転がっている。石垣の裏に入れるグリ石だろうか? 豊臣大名がここを石垣の城へ改修して使用したが、その後、麓の龍野城に機能を集約する際に大きな石を全て持ち去り、グリ石だけ残されたといったところか。
グリ石は裏込め石とも呼ばれ、石垣造りには欠かせないものとされる。土の傾斜に大きい石を積んだだけだと、雨水が抜け出る際に石をピンポイントで押して崩れてしまうが、土と大石の間にこの細かいグリ石があると、雨水の圧が分散されて大石に均等に伝わるので崩れにくくなる。専門家はグリ石のあるものを「石垣」と呼び、グリ石のないものは「石積」と呼んでいる。
段曲輪の左側が通路になっている。
段曲輪群(Ⅱ-5付近)。
二の丸下の曲輪(Ⅱ-3)。
南曲輪群の頂上にある二の丸(Ⅱ-1)。
5.北曲輪群(本丸)
南曲輪群の北側は鞍部になっている。
鞍部の先の北曲輪群は5段の段曲輪から構成されている。
本丸下の3段目の曲輪(Ⅰ-3)。
2段目の曲輪の虎口(Ⅰ-2)。切岸と近接しており、敵兵の侵入を阻む狭い虎口だ。
2段目の曲輪(Ⅰ-2)。
本丸虎口。
本丸(Ⅰ-1)。
赤松広秀が龍野赤松氏の家督を継いだのは元亀元年(1570年)8歳の時。父・政秀(60歳)と兄・広貞が相次いで亡くなり、主立った家臣も多くが亡くなっていた。元赤松家臣の浦上宗景に従属し、天正5年(1577年)に織田信長が播磨侵攻を開始すると、浦上氏とともに織田方に降り、西国方面軍大将・羽柴秀吉に従って、龍野城を空け渡した。
天正8年(1580年)に秀吉が播磨を平定すると、龍野城は秀吉の重臣・蜂須賀正勝のものとなり、広秀はその与力として、ごく僅かな領地を与えられた。
その後、広秀は腐ることなく、蜂須賀正勝の先鋒として力を尽くした。毛利輝元との戦い(備中髙松城の戦い)や、本能寺の変後の柴田勝家との戦い(賤ヶ岳の戦い)では正勝に代わって陣代として蜂須賀本軍を指揮するなど活躍した。秀吉に高く評価され、秀吉直属の精鋭武将隊である赤母衣衆にも選ばれた。
しかし戦後の論功行賞では、龍野の旧領復帰は叶わず、但馬竹田城2万2,000石を与えられた。活躍に対して報酬が少なすぎる印象なのは、広秀に力を与えすぎると、名門“赤松”ブランドの求心力により反旗を翻す恐れがあったからだろう。本人にその気が無かったとしても、周囲がそそのかす場合もある。それでも九州や関東・東北のように僻地へ追いやられなかったのは、秀吉に気に入られていたからだと思う。
本丸北側にも曲輪がある。
6.「そうめん処 霞亭」
昼食は、龍野城のすぐ横にある「そうめん処 霞亭」で。たつの市を流れる揖保川の名を冠した「揖保の糸」は、そうめん界の不動のトップブランドだ。
ミシュランのビブグルマンに選ばれたこともある霞亭にゅうめんをいただく。
ナオは牡蠣にゅうめん。
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