【播磨:城山城】「嘉吉の乱」の赤松満祐が居城とした比高400mの古代山城・城山城へ登る

城山城 畿内近国
麓から見る城山城
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播磨 城山城

形 態山城址難易度★★★★★
比 高400m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類スズメ蜂見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ -  /  400m
所要時間10~15分  /  65分+25分
指 定
遺 構曲輪、石垣、堀切、土塁、門の築石
歴 史室町時代に3ヶ国(播磨-備前-美作)の守護大名を務めた赤松満祐みつすけの城。嘉吉元年(1441年)の「嘉吉の乱」で将軍・足利義教よしのりを殺害したため、逆賊として山名持豊もちとよ宗全そうぜん)らに討たれた。それにより赤松氏は所領を失い、城山きのやま城も廃城となった。その後天文6年(1538年)に出雲の尼子晴久が播磨へ侵攻した際に本拠地としてこの城を使用した。しかし2年後に晴久が出雲へ帰ると再び廃城となった。
公共交通電車:本竜野駅(JR姫新きしん線)=バス11分⇒船渡=徒歩18分⇒馬立登山口
駐車場越部西公園の駐車場 – Google マップ
住 所兵庫県 たつの市 新宮町下野田218
トイレ駐車場にあり
訪問日2024年1月14日(日)快晴

1.城山城 駐車場

越部西公園の駐車場に車を停める。後ろにそびえる比高400mの山が、これから登る城山きのやまになる。兵庫の城といえば日本を代表する姫路城が有名だが、室町時代-戦国時代の山城址もたくさん遺っている。特に西播磨地区に見応えのある名城が多く、城山城もそのひとつだ。

城山城は、嘉吉かきつの乱で有名な赤松満祐みつすけの城として知られている。西暦600年代末ごろに大和朝廷により造られたという古代山城を起源とし、その後南北朝時代に満祐の祖父・赤松則祐が改修した。

赤松則祐のりすけは、足利あしかが尊氏たかうじが挙兵し鎌倉北条氏を倒して室町幕府を創設した時の立役者のひとり赤松則村のりむら円心えんしんの息子で、立役者のもうひとり、近江の佐々木道誉どうよの娘を妻とした。則祐のりすけ義則よしのり満祐みつすけと3代100年弱の間、城山きのやま城は赤松宗家の居城だった。

登山ルートは2つ。南側の「下野田登山ルート」と北側の「馬立登山ルート」。城山きのやま城は南北に連なる尾根の上に築かれた城で、南側に主郭部がある。なのでショートコースで見学するなら登りも下りも「下野田」を選ぶのが良いだろう。私はもっと広く見て回りたかったので、「馬立」から登り「下野田」から下るルートを選んだ。

城山城の看板

山の麓に「城山城跡」の看板がある。見えている山の尾根はほぼ城址だ。

馬立登山口

駐車場から10分ほど歩いて馬立登山口に到着。看板が横断幕のように大きく掲げられている。

登城口

登城口。このあたりまでは舗装道で平地はあるものの、私有地なので駐車は不可。

案内板

登城口にある案内板。馬立登山口からここに来るまでにすでに2つ案内板があったので3つ目だ。城山城周辺の見どころが①から⑮まで紹介されている。馬立登山道付近から下野田登山道にかけて順番にナンバリングされているので、この順が推奨ルートなのだろう。

2.馬出登山道

石墳

全部で31基ある馬出古墳群。西暦600年ごろに朝鮮半島から来た移民により造られたという。

登山道

石がゴロゴロと転がっていて歩きにくい登山道を登って行く。凹凸があるのは人工的な整備なのかも知れないが、大雨により大量の水が流れて出来た跡のようにも見える。

登山道

登り始めて25分ほどで岩の道が出現。「岩」プラス「落ち葉」の滑りやすい道に、結び目付きのロープが備え付けられている。

登山道

土の道なら右へ左へとつづら折りになっていることが多いが、岩の道なのでロープを頼りに斜面をストレートに進む。

途中の曲輪で水分補給。登り始めて35分も経てば戦国期の城ならすでに頂上付近なのだが、ここは古代山城なのでまだまだ先が長い。戦国山城は一般的に比高200mと言われている。この城山きのやま城は比高400mあるのでちょうど2倍だ。

登山道

先へ進む。

岩場

途中に出丸的な曲輪があった。見張り台として使用されていたとしてもおかしくない。

見張り台からの景色

たぶん見張り台からの景色。

登山道

てっぺんに空が見える。尾根は近い。

最後の登り坂。ナオ頑張って!!

3.北側の遺構

尾根

60分強かけて尾根に到着。ここからは多少の高低差はあれど、削平地を横移動して進んで行く。

①巨石

供養碑

供養碑には、「南無阿弥陀仏」と彫られているという。風化して全く読めないが。「嘉吉かきつの乱」の戦死者を供養するために建てられたと伝えられている。

嘉吉かきつの乱は、室町中期の嘉吉元年(1441年)に時の将軍・足利義教よしのり(47歳)が暗殺された事件をいう。義教は幕府の権力保持のため、各地の守護大名たちのわずかな過失を探しては次々と粛清(討伐や所領没収など)しており、世間から恐れられていた。「万人恐怖す」と、当時の記録には残っている。具体的には、鎌倉公方くぼうの足利持氏もちうじ、丹後-尾張南部-三河-若狭-山城の4.5ヶ国の守護を務めていた一色義貫よしつら、伊勢守護の土岐とき持頼もちよりが、義教の粛正により殺害された。鎌倉公方の粛正は、直接支配したい京の将軍と、足利尊氏以来関東を任されている鎌倉公方の関東自治権を巡る争いで、室町幕府の宿命ともいえる。一色義貫の粛正は、その持氏方の残党を匿ったという罪による処罰だった。主家である足利一門の者を匿っただけで4.5ヶ国の没収と切腹ではあまりにも酷すぎる。土岐持頼は義教の近衆だったのだが、意見が対立することが多く、気に入らないという理由で暗殺された。

そんな時代背景の中起きた嘉吉の乱は、赤松満祐みつすけ(60歳)が「足利義教が赤松氏から播磨と美作の二ヶ国を没収しようとしている。」という噂を耳にしたことに端を発する。義教は赤松庶流の赤松貞村(赤松春日部家)を気に入っており、赤松宗家(赤松守護家)である満祐の弟・義雅の所領を言いがかりによる咎で没収し、貞村に与えたばかりだった。当主の満祐であれば、所領没収のみならず命まで要求されたとしてもおかしくないだろう。

満祐は、粛正を待って没落するよりも、先手を打って打開する可能性に賭けた。京の二条にある自宅に義教を招いて宴を催すと、猿楽さるがく(近世以降ではのうという)の最中に義教を殺害した。そして自宅に火を放ち、一族を引き連れて播磨へ帰った。

義教の嫡男はまだ7歳であり、将軍のスペアのいない幕府はすぐには反撃出来ない。その間に満祐は、足利庶流の足利義尊よしたか(28歳)を次期将軍候補として擁立した。義教の暴君ぶりは皆不満に思うところであり、味方になってくれる大名がいることに賭けた。そして倒幕の意思はないことを示すため、政庁である平城の播磨坂本城で宴会を催し、幕府の反応を待った。記録は残っていないようだが、恐らく満祐は各地の大名に、足利義教殺害の釈明と赤松に味方になってくれるよう、可能な限り文書を書いたことだろう。

それから3ヶ月後、幕府から山名宗全そうぜん(37歳)を大将とする守護大名たちが赤松討伐軍として派遣された。そして、赤松に味方する者は誰も現れなかった。満祐は嫡男・教康のりやすや弟・則繁のりしげを逃がし、城山城に入城した。多勢に無勢では成すすべはなく、満祐と赤松宗家の一族は命を落とした。赤松氏はその後しばらく歴史の表舞台から姿を消す。

蛙岩

供養碑の近くにある蛙岩

尾根

尾根道を進む。道の両脇は切岸になっている。

石塁

尾根上にある土塁

尾根

登り坂。小高い丘になっている。

曲輪

頂上にある曲輪

②亀山山頂

堀切と土塁の看板

堀切と土塁の説明板。この堀切と土塁を組み合わせた変わった防衛設備は、同じ赤松一族の城「篠の丸城」にも類似の遺構があるとのこと。

堀切

ここの堀切はほとんど埋まり、わずかな痕跡が確認出来るのみになっている。

土塁

堀切に隣接している土塁

亀山

急坂を登る。

亀山山頂の曲輪

亀山きのやま山頂の曲輪

③ 門の築石

門の築石への道

ここから西の尾根にある「門の築石つきいし」を見にいく。

赤テープとロープの道

赤テープと虎ロープを頼りに尾根を下る。

門の築石

門の築石とその説明板が見えた。

門の築石の説明板

「門の築石」の説明板

門の築石-2つ目

門の築石(右)。大和朝廷時代のこの石は、1300年以上前からここにある。大きさ比較用に軍手を置いてみた。

④石塁と堀切

矢印看板

一度亀山山頂の曲輪まで戻り、次は石塁城内最大の堀切を見にいく。

尾根下り

別の尾根をふたたび下る。

石塁

石塁

城内最大の堀切。堀切の断崖絶壁感がすごい。

4.南側の主郭部

主郭部

城山城の南側にある主郭部

三基墓

三基墓さんきばか。嘉吉の乱で亡くなった武将や兵士たちの墓。赤松宗家当主・赤松満祐みつすけは、家の存続を嫡男の教康のりやすに託し、腹心の弟・則繁のりしげ、甥の則尚のりなお時勝ときかつなどを一緒に城から逃がした。そして弟・則政のりまさ義雅よしまさ、従兄弟の持祐もちすけなどとともに幕府軍と戦い、最後は自刃した。亡くなった赤松一族は総勢69名だったという。

主郭部

主郭部に城山城の縄張り図があった。

北側は堀切・土塁・石塁などの防衛設備が尾根の要所要所にあり、南側は連続する段曲輪群を設けている。

礎石建物址への道

礎石建物址へ向かう。

曲輪と切岸

曲輪の南側は切岸になっている。

礎石建物址

礎石建物址

礎石建物址の説明板

礎石建物址の説明板によると、京都の東寺とうじ(教王護国寺)と関わりのあるお寺の本堂が建っていたようだ。

展望所

礎石建物址の先にある展望台

展望台からの景色

比高400mからの眺望。

展望台からの景色

嘉吉かきつの乱から約100年後の天文7年(1538年)、山陰は出雲から尼子あまご詮久あきひさ(25歳-のちの晴久はるひさ)という戦国大名が軍勢を率いてやってきた。詮久は尼子経久つねひさ(80歳)の嫡孫で、この頃に尼子氏の家督を継いでいる。再興していた赤松氏の領地、美作みまさか・備前・播磨への侵攻を開始しており、嘉吉の乱以来廃城となっていた城山きのやま城へ入り、播磨侵攻の拠点とした。

詮久(晴久)の播磨侵攻は、国の支配は考えておらず、最初から物資や人員の略奪が目的だったのだろう。それから2年後の天文9年(1540年)、思い通りの成果を挙げられたことに満足し、播磨から撤退した。

城山城は再び廃城となった。

下野田登山ルートで下山したあと、麓から展望台が見えた。

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