近江八幡城
形 態 | 平山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 100m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
指 定 | 続日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀、居館跡 |
歴 史 | 天正13年(1585年)に、安土城に変わる近江の国城として羽柴秀吉が築いた。城主には秀吉の甥・羽柴秀次が20万石で、秀次の5人の家老(田中吉政、中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴、一柳直末)が合計23万石で入った。 |
駐車場 | 八幡山ロープウェイ 大型バス駐車場 – Google マップ |
住 所 | 滋賀県 近江八幡市 宮内町32-1 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2022年12月11日(日)晴れのち曇り |
1.秀次館跡
八幡山ロープウェイ乗り場の駐車場に車を停め、先に秀次の城郭館跡を見に行く。オレンジのエリアが秀次の館跡で、黄色のエリアが家臣団の館跡だ。信長をリスペクトする秀吉が作らせたからか、当主の居館の下に家臣団の居館を配置する縄張りは、信長の安土城に似ている。
関白・豊臣秀次像。天正14年(1586)叔父で関白の羽柴秀吉(48歳)が、後陽成天皇から豊臣の姓を賜った。その際秀吉は秀次(17歳)にも豊臣姓を与えたことから、豊臣秀次となった。秀次が関白を引き継いだのは、それから7年後のことだ。関白は天皇を補佐する官職の最高位。軍事部門の最高位である征夷大将軍より、形式的には格上にあたる。源頼朝から始まって足利尊氏や徳川家康など、征夷大将軍に就任した武士は数多いるが、武士の身で公家の筆頭ともいえる関白に就いたのは、秀吉と秀次の2人だけである。
秀次像の左側の道を進んで行くと、大きな階段に出る。この辺りは段曲輪で、五家老達の屋敷が建っていた。
階段を登り切ると、秀次館跡の石垣がある。
石垣の奥にあるこの道は、当時は大手道だった。
この館の建てられた天正13年(1585)は、豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧長久手の戦いの翌年にあたる。16歳の秀次は豊臣方の大将として9,000の兵を率いて参戦したものの、歴戦の強者揃いの徳川家康軍により義父の池田恒興と義兄の森長可が討たれ、秀次本軍も壊滅。散り散りの秀次軍を後詰めの堀秀政が統率して立て直し、徳川軍を迎撃しつつ秀次と共になんとか逃げ延びた。秀次はこの時の負け戦をクローズアップされて戦が弱いイメージを持たれがちだが、その後の「紀伊攻め」「四国攻め」「小田原攻め」で秀吉や秀長の副将として他の戦国武将と比べても遜色のない活躍をしており、決して戦が下手なわけではない。
豊臣氏にとって徳川家康は明確な敵として存在しており、緊迫した世情の中でこの秀次館は建てられた。山城の麓の居館にしてはほとんど城の様相を呈しているのはそのためのようだ。
豊臣秀次といえばその死がいまだ謎に包まれており、戦国愛好家たちの関心を集めている。
文禄4年(1595)、秀次は高野山で自刃した。死の原因は諸説あり真相は不明だが、確かなことは秀吉と秀次が対立していたこと、秀吉が秀次から関白の座を剥奪して高野山へ蟄居を命じたこと、この2点だろう。3年前の文禄元年(1592)に始まった朝鮮出兵はこの時休戦状態だったが、日本と明(中国)の外交責任者同士(小西行長と沈惟敬)で共謀した偽造文書による休戦だったため、戦争再開は時間の問題だった。秀次は初めから朝鮮出兵には反対の立場で、九州の名護屋城にいた秀吉からの出兵要請も断っており、秀吉に対し朝鮮出兵をやめるよう諫言していたのではないかと思う。
休戦期間中、秀吉と秀次の間でどのようなやり取りがあったかは分からないが、秀次は当時の居館である京都の聚楽第に堀を設け、本格的な城郭へ改造し始めた。それを知った秀吉は、秀次を捕え関白の座を剥奪し、高野山へ蟄居を命じた。城を造るということは戦争に備えること。秀次に逆らう者のいない今の日本で城が必要だとしたら、それは秀吉と事を構えようとしているとしか考えられなかった。
朝鮮出兵という秀吉の暴挙により、西日本各地の大名はみな疲弊していた。日本を正しい方向へ導くため、関白・豊臣秀次は不退転の決意で、自らの命を賭して秀吉を諫めようとしたのではなかろうか?
しかし残念ながら秀次を失った秀吉は逆上し、その責任を周りの者に求めた。秀次の妻子や家臣達の多くは打ち首になった。そして1年半後の慶長2年(1597)に朝鮮出兵は再開され、翌年秀吉が死ぬまでそれは続いた。
2.八幡山城
①ロープウェイ
近江八幡城へはロープウェイで上る。登山道もあるのだが、なるべく効率のよいルートを選びたい。
ロープウェイは朝9時に運行を開始し、15分毎に発着している。
わずか4分で頂上に到着。近江八幡城は近江の城らしく総石垣の城だ。
右の階段を上れば二の丸だが、順路に沿って西の丸へ向かう。
西の丸に連絡する帯曲輪。この石垣の上は本丸。
②西の丸
西の丸。
西の丸から見る琵琶湖。
西に見える山には、近江の国衆・久里信隆の水茎岡山城があった。この辺一帯は埋立地で、戦国時代当時のこの山は琵琶湖に浮く島だった。室町幕府第12代将軍・足利義晴が生まれた地としても知られている。先代将軍の足利義澄(父)と日野阿子(母)が京都を追われ、久里信隆を頼って来たためだ。
足利義澄と阿子を京都から追放したのは、前の第10代将軍・足利義材。西国の太守・大内義興を味方につけてのリベンジだった。義澄に罪はなく、全ては阿子のおば・日野富子のせいなのだが、義澄は将軍に復位することなく、失意のままこの地でその生涯を終えた。義澄が将軍に就いた経緯と日野富子と足利義材の因縁については韮山城🔎で。
大内義興が将軍継承争いに関与したことで、嫡男の大内義隆も中央指向となり、その後の大内氏衰退と毛利元就の台頭を招いた。歴史はバタフライエフェクトのように色んなところで因果がつながっているから面白い。
③出丸
出丸へ向かう。石垣から生える木が力強い。
出丸。この下に秀次館跡があるので、ここは館を守るための物見台の役目も担っていたのだろう。当時は居館と出丸を直接つなぐルートもあったようなので、有事にはスピーディーな臨戦態勢が取れた。
④北の丸
一旦西の丸へ戻り、続いて北の丸へ向かう。
北の丸。
北には安土城と観音寺城がある。観音寺城は近江守護・佐々木六角氏の本城。安土城はその六角氏を倒した織田信長により近江の新たな国城として建てられたもの。天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの時は、織田信長の孫・織田秀信(三法師)が後見人の織田信雄とともに安土城にいたのだが、秀吉は要害の地である近江に秀次を入封するため秀信と信雄を岐阜へ転封し、この八幡山城を建てた。
⑤本丸
本丸へ向かう。ここも虎口だった。
本丸の虎口。村雲御所瑞龍寺門跡の門が建っている。門跡とは、皇族・公家の一族が住職を務めている寺院のことで、全国に17寺ある。瑞龍寺はこの寺の正式名称。村雲御所は、この地が「村雲」と呼ばれていたのと、関白だった秀次を偲んで皇族・公家が住職になったため敬称である「御所」が付けられた。
本丸の枡形虎口を上から見る。枡形の中で動線が直角に曲がり、かつ高さもある。
本丸に建つ秀次の菩提寺・瑞龍寺。
⑥二の丸
最後に二の丸へ。展望館が建っている。
展望館の2階に、年表や資料と一緒に縄張り図も掲示されていた。二の丸から本丸に掛けて3つの虎口があり、それぞれ動線に対して直角に曲がる位置に配している。かつ各虎口とも高さもあり、虎口Ⅲに至っては枡形の中でさらに直角に曲がっている。侵入しづらさは100点満点だろう。
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