観音寺城
形 態 | 山城 | 難易度 | ★★★★- |
比 高 | 330m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 330m | ||
所要時間 | 60分 |
指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、石垣、土塁、竪堀、堀切、井戸 |
歴 史 | 近江守護・佐々木六角氏の城。戦国初期の六角高頼の頃は繖山の南にあった平城・金剛寺城を本拠地とし、戦の際に繖山の観音正寺を砦として使用したことがあった程度だった。戦国中期の大永5年(1525)頃、六角定頼により観音正寺の周囲に観音寺城が築城され、山麓には居館が建てられて六角氏の新たな本拠地となった。天文19年(1550)頃には、定頼により戦国最初の総石垣の城に生まれ変わった。 |
駐車場 | 観音正寺表参道駐車場 – Google マップ 観音正寺裏参道山上駐車場 – Google マップ |
住 所 | 滋賀県 近江八幡市 安土町石寺 |
トイレ | 観音正寺にあり |
訪問日 | 2024年5月11日(土)快晴 |
1.表坂道
繖山を南麓から登るため、安土駅から1時間弱歩いた。駅前にはレンタサイクルもあったが、登山中はどこかに長時間停めておくのと、同じ場所に帰って来ないといけないのとで、やめておいた。車やバイクで登るなら駐車場は山頂付近に2つある。山頂の観音正寺までの道のりが歩きやすいのは山の東側から入った先にある裏参道駐車場、急な石段だが観音正寺までの距離優先、もしくは大石垣や総石垣の主郭部を見ながらじっくり登るなら山の西側から入った先にある表参道駐車場に停めるのが良い。
観音正寺は1400年前に聖徳太子により開基された寺院だ。戦国中期にはその観音正寺を取り囲むように観音寺城が築かれた。山麓の民家が立ち並ぶ石寺地区では、織田信長も真似したという楽市楽座が営まれた。
繖山の南麓にある日吉神社。鳥居左側の道は「赤坂道」といい、山頂の観音正寺へ通じる表参道になる。今は山頂近くに駐車場があるので、車やバイクで来た人はかなりショートカット出来る。
観音寺城の案内板。全部で11本ある登山道で、主なものは南に3本と東西北に1本づつの計6本。
南は観音正寺の表参道である「赤坂道」、麓の六角氏の居館と観音寺城を連絡する大手道「表坂道」、両尾根の間の谷間を通るもう1本の大手道「本谷道」。東は観音正寺の裏参道である「川並口道」。西は観音寺城の二の丸的な曲輪・平井丸へ通じる「宮津道」。北は北麓の桑実寺と観音寺城本丸を連絡する「薬師口道」。“薬師口”の呼び名は、桑実寺の本尊が薬師如来であることに由来している。
日吉神社より少し西にある御屋形跡。大永5年(1525)に観音寺城を築城した六角定頼の居館があった場所になる。定頼の息子、六角義賢(承禎)の代になると居館は本丸に構えたため、ここは使用されなくなった。石垣が残っているというが、今は私有地なので立入禁止になっている。
表坂道。御屋形(六角氏居館)から観音寺城へ通じる道。
表坂道を30分ほど登ると、アスファルトの道路に出た。この道の突き当たりは駐車場になっており、赤坂道と合流している。そこから石段を登れば、最速で観音正寺へ行くことが出来る。
表坂道の続きは道路を少し降ったところにある。ここから観音寺城主郭部を目指す。
分かれ道。先に右側の木村丸へ。
木村丸の埋門。
木村丸は、六角家臣・木村氏の曲輪だという。六角義賢に仕えた木村正勝(又蔵)の名が残る。江戸時代の講談では相撲の達人として登場し、暴れ牛を投げ飛ばすほど無敵の武勇を誇ったとされる。
2.大石垣
表坂道を登って行くと、大石垣が見えた。
観音寺城ののぼり旗。文字の上にある紋様は、六角氏の家紋「隅立て四つ目」。
大石垣西側のビュースポットへ。六角氏の権威の象徴として魅せる大石垣は、その後畿内近国の支配者となった織田信長によりお手本とされた。
観音寺城を築いた六角定頼は、六角氏最盛期の人物として知られている。永正15年(1518)に定頼が23歳で家督を継いだ頃、天下は将軍・足利義稙(52歳)と管領・細川高国(34歳)を中心とした室町幕府が牛耳っていた。六角氏は定頼の父・高頼の代で室町幕府に2度も戦を仕掛けられていた。1回目は足利義尚、2回目は足利義稙の主導によるもので、「六角征伐」と呼ばれている。戦の要因は近隣大名から求心力を得るための足利将軍の私戦であったため、非の無い六角氏は幕府に対して不満しかなく、彼らと距離を取っていた。
ところが義稙がやんごとなき事情により阿波の細川澄元と手を組み高国を失脚させると、高国は幕府を離れ、定頼を頼って近江(この頃の六角氏の居城は金剛寺城)へやって来た。その直後に澄元が病死し、高国は呼び戻された。再び義稙-高国コンビでやっていくかと思われたが、高国は自分を見限った義稙を許せず、足利義澄の遺児・義晴(11歳)を新たな将軍に据えて義稙を追い出した。それから高国政権は10年ほど続いたが、病死した澄元の子・細川晴元が新たな将軍候補・足利義維を擁立し台頭してくると、高国と対立。享禄4年(1525)に大物城(のちの尼崎城)を攻められた高国(47歳)は命を落とした。[大物崩れ]
幕府の大黒柱の高国を失った将軍・義晴(20歳)は、かつて高国がやったように定頼(36歳)を頼って近江へ逃げてきた。6年前に観音寺城を築城していた定頼は、繖山の北山麓にある桑実寺に義晴を匿った。何十年も室町幕府と仲の悪かった六角氏であったが、これを期に幕府との蜜月関係を築いていった。将軍に次ぐ役職である「管領」は、管領三家(細川氏、畠山氏、斯波氏)しか就けなかったものの、定頼は管領代に任命されて義晴の右腕となった。
大永5年(1525)の築城時は土の城だった観音寺城は、天文19年(1550)頃に戦国初となる総石垣の城へと変貌を遂げた。
3.主郭部
①池田丸
大石垣の上にある曲輪・池田丸の虎口。
池田丸という呼称は江戸期の資料に書かれており、六角氏の家臣・池田氏の居館があった場所だという。池田氏という家臣が居たかどうかはよく分からないが、居たとしても重臣ではないのでこの様な一等地を割り与えられたとは考えにくいだろう。
②平井丸
池田丸の上にある曲輪・平井丸の虎口。池田丸が三の丸に比定されるなら、平井丸は二の丸だ。
平井といえば、六角氏家臣に平井定武という武将がいる。六角六家老の一人で六角氏の外交担当として名を残しており、重臣だったことは間違いないようだ。定武の娘は、六角氏に臣従した浅井久政の嫡男・賢政(のちの長政)の正室となり、永禄7年(1564)に万福丸を産んだ。しかしその3年後、浅井氏は六角氏と手を切り、尾張の織田信長と同盟を結んだ。信長の妹・市を継室とし、名も賢政から長政に改めたことで、定武の娘は離縁されて里へ帰された。
織田信長目線で見ると、平井定武は六角家臣の中で代表的な人物と言える。本丸下の重要な曲輪の名前が「平井丸」であることと何か関係があるのかも知れない。
平井丸と本丸を連絡する長い石段。六角氏の当主に謁見するためにはこの石段を登らなければならなかった。大石垣と同じく六角氏の権威を象徴する場所だ。石段といえば安土城も有名だが、安土城の石段はこれを真似して造られたという。
③本丸
観音寺城本丸は六角定頼の頃は詰丸だったが、次の六角義賢の代にはここに居館が構えられた。
六角氏は六角定頼の時に最盛期を迎え、次代の六角義賢の時に滅亡した。戦国武士の興亡は目まぐるしく変化するものだが、六角氏ほどジェットコースターのように急転直下で滅んだ一族は珍しいだろう。武家の滅亡する要因№1は、ダントツで「家督継承の失敗」だ。当主が亡くなり跡を継いだ息子がまだ若輩なため、家臣たちの求心力を失い離反するパターンが多い。その対策として“生前継承”という考え方がある。当主がまだ元気なうちに嫡男を新当主に据え、時間をかけて継承していくものだ。毛利元就、尼子経久、織田信長などが代表的な成功例だろう。しかし失敗例もあり、六角義賢がそれに当たる。
天文21年(1552)に父・定頼(57歳)の死により家督を継いだ義賢(31歳)は、わずか5年後に出家し承禎と名乗ると、まだ12歳だった嫡男・義治(当時は義弼)に家督を譲った。家督継承の失敗で衰退した一門の京極氏が近くにいたためか、義賢は生前継承を選択した。これ自体は悪手ではないが、六角氏にとっては悪いほうに働いた。永禄3年(1560)義治15歳の時、美濃の支配者・一色義龍(斉藤高政)の娘と自身の婚姻を画策した。それを知った義賢は激怒し、義治と5人の家老を叱責したという。義龍の父・斉藤道三は美濃守護の土岐氏を滅ぼしており、その土岐氏最後の当主・土岐頼芸の正室は義賢の姉だった。再び六角氏を主導し始めた義賢と、当主でありながら自分の政策が思うように進められない義治の間で軋轢が生まれた。
それから3年後、観音寺騒動が起きた。理由は不明とされるが、義治が重臣の後藤賢豊親子を観音寺城内で暗殺した。するとその他の家臣たちは反発し、城内にある自分たちの屋敷を焼き払い、それぞれの本領へ帰ってしまった。その後家臣たちは観音寺城に戻ってきたが、この事件が六角氏の衰退を決定付けたと言われている。
義賢の失敗は、義治の成長を自分で確認・指導せずに重臣達に任せたことだ。重臣達はあくまで目下の者たちなので、当主の義治に進言は出来ても却下されればそれ以上何も言えない。義賢は六角氏の行く末を義治に任せるなら口を出してはいけないし、口を出すのなら最初から父・義賢が最終決定権を持つことを条件に家督を継承し、義治の施策を確認して実施前に軌道修正しなければならなかった。
喰違虎口から少し降りたところにある井戸跡。さらに下へ降りると、麓には桑実寺がある。
4.観音正寺
繖山山頂にある観音正寺へ。ここは観音寺城本丸より高い場所にある。
観音正寺の本堂。六角義賢-義治の二頭体制だった永禄年間(1558-1570)に観音寺城の拡張工事が行われ、観音正寺はこの場所から退去させられた。しかし織田信長の統治下になると、観音正寺は再びここに戻ることを許された。
観音正寺の入り口。寺務所で入山料を払う。御朱印(観音正寺)と御城印(観音寺城)はここで貰える。
5.北東側遺構
観音正寺の裏参道である川並口道へ向かう。道の両脇に高く積まれた石垣は、観音正寺(永禄期は観音寺城の一部)を守る虎口だ。今は江戸期の呼び方である「見付」と呼ばれている。
見付を外側から見る。
見付の先にある目加田屋敷跡。六角六家老の一人、目加田綱清の屋敷があった場所とされる。六角六家老とは、六角定頼が当主の時の6名の重臣達で、後藤氏・進藤氏・平井氏・目加田氏・蒲生氏・三雲氏をいう。特に後藤氏と進藤氏は“六角の両藤”と呼ばれる宿老だった。一番有名なのは蒲生氏だろう。蒲生定秀–賢秀親子は六角氏に仕えたが、賢秀の子・氏郷は織田信長の人質となり、その後信長に気に入られて娘婿となったことで大出世した。蒲生氏郷は、信長亡き後は豊臣秀吉に従い目覚ましい戦功を挙げ、伊勢国飯高郡を与えられ大名となった。そして松が好きだったのかその地名を「松阪」と名付けた。その後東北の会津黒川へ転封になったが、やはり地名を松にちなんだ「若松」へと改名した。
目加田屋敷跡の向かい側にある淡路丸。布施淡路守の曲輪とされる。
淡路丸の石垣。
続いて北側遺構へ。
長い土塁の上を歩く。土塁の右側は切岸で、左側は家臣達の居館跡。
左側に、居館跡の石垣が見える。
6.桑実寺
観音寺城本丸の西側虎口から山を降った麓にある桑実寺の本堂。南北朝時代に建造され、昭和に入って大改修が行われたが、木材は当時のままのものを残しているという。享禄4年(1531)に細川高国(47歳)が討たれた後、足利義晴(20歳)は六角定頼(36歳)を頼って観音寺城へ来た。その時義晴の居館として使用されたのがこの桑実寺だった。義晴は高国の代わりとして定頼に足利家を支えてくれと頼んだが、定頼は上洛することを拒んで観音寺城を離れなかったため、義晴もここに居て政務を行った。数年間ではあるが、この寺が日本の中心だったことがあるのかと思うと感慨深い。
桑実寺の山門。
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