2.長光寺城
形 態 | 平山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 120m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 10m / 100m | ||
所要時間 | 3分 / 13分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀切 |
歴 史 | 庶流ながら近江守護・六角宗家を継いだ六角政堯により築城された。永禄11年(1568年)から始まった織田信長による近江侵攻の際には、六角氏の支城のひとつとなっていた長光寺城に織田の武将・柴田勝家が入城した。そのときの逸話「瓶割り柴田」が広く知られている。 |
駐車場 | 日吉神社 – Google マップ |
住 所 | 滋賀県 近江八幡市 長福寺町125-1 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2022年12月11日(日)晴れのち曇り |
2-①駐車場
近江八幡城から約25分。日吉神社の鳥居を車のままくぐり、上った先の階段の手前を右へ入った所に駐車場がある。
駐車場はここ。
2-②登城口
階段を上ると日吉神社に出る。
東屋の手前を通り、右奥へ行く。
登城口。「瓶割山城跡まで約360m」と書かれている。360mは道のりで、高さは約100m。
長光寺城は、織田信長の上洛後は織田家重臣・柴田勝家の居城となっていたが、元亀元年(1570年)義昭信長包囲網により六角義賢に攻められた。その際勝家は籠城して援軍を待ったが、敵に水の手を断ち切られ水不足に陥った。勝家は残り少ない瓶の水を家臣達に全て振る舞った後、瓶を割ってもう後が無いことを皆に知らしめ、決死の出陣を試み、六角軍を討ち破ったという。そんなエピソードから「瓶割り柴田」や「瓶割山」と呼ばれている。
このエピソードの真偽のほどは怪しく、勝家の豪快なイメージだけが先行している感がある。私個人的には、2021年のTVドラマ「桶狭間~織田信長 覇王の誕生~」で織田信長(市川海老蔵)に仕える松田龍平の、物静かでプロフェッショナルな雰囲気の柴田勝家が一番しっくりくる。
2-③主郭部
a) 本丸
本丸西側の石垣。
本丸と二の丸の間にある土橋と堀切。
本丸。長光寺城は、応仁2年(1468年)に佐々木六角政堯により築城された。本丸を中心に、南-東-北の3方向にそれぞれ段曲輪群を持つ。
六角政堯は、六角宗家を継承した亀寿丸(のちの六角高頼)の従兄で後見人を務めていたが、永禄2年(1458年)亀寿丸を追い出し(?)六角宗家を継ぐことに成功した。2年後に下手を打ち、幕府の命で家督は亀寿丸へ戻ったが、応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱により、亀寿丸改め六角高頼は西軍、六角政堯は東軍に分かれ、戦った。文明3年(1471年)に政堯は高頼に敗れ、命を落とした。
政堯の死後、生き残った政堯の一族は尾張の国の春日井郡(名古屋市西区)へ逃れ、土着した。その時その一族は六角でも佐々木でもなく「佐々」と名乗り、斯波氏に仕え、のちに織田氏に仕えた。その後裔が織田信長の馬廻りとなった「佐々成政」だと言われている。
b) 三の丸
本丸の東側すぐ下にある三の丸。いくつかの段曲輪になっている。
本丸と三の丸の間にある井戸。水の手を断ち切られたというエピソードが本当なら、ここを敵が抑えていたことになる。本丸を包囲された状態で討って出て、逆転する余地があったのかどうか疑問だ。
c) 二の丸
本丸の南側、先ほどの土橋を渡った先に二の丸がある。
二の丸。
二の丸の先の堀切と腰曲輪。
3.星ヶ崎城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 120m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 120m | ||
所要時間 | 4分 / 14分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、石垣、土塁 |
歴 史 | 佐々木六角氏の庶流・鏡氏の城と言われている。戦国時代には六角氏の支城のひとつだった。 |
駐車場 | 道の駅 竜王かがみの里 – Google マップ |
住 所 | 滋賀県 蒲生郡 竜王町鏡1231−2 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2022年12月11日(日)晴れのち曇り |
3-①道の駅(駐車場)
長光寺城から10~15分で、道の駅@龍王かがみの里に到着。
お昼ご飯を食べた後、星ヶ崎城へ。
3-②登城口
駐車場の南に、登城口に連絡する通路がある。
「どうぞご自由にお入りください」の掲示がなかったら入れない雰囲気の敷地だ。
登城口。
要所要所に矢印看板あり。
3-③主郭部
本丸の石垣。
本丸の北の曲輪。近江平野が見渡せる位置なので、物見砦等があったのかも知れない。先客の方々は撮り鉄のようだ。ここなら新幹線も在来線もいい感じの俯瞰で撮れるだろう。
本丸。
南の方もよく見渡せる。
4.小堤城山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 180m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 100m | ||
所要時間 | 20分 / 20分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切、切岸、枡形虎口 |
歴 史 | 近江の国衆・永原重興-重虎の城。六角氏の重臣だったが、永禄6年(1563年)の観音寺騒動で六角氏から離反。永禄11年(1568年)に、上洛を目指す織田信長の調略によって六角氏の重臣たちがことごとく内応する中、永原重虎は織田にも六角にも付かず、武士を捨てて出奔した。 |
駐車場 | 林道の入口 – Google マップ→林道の突き当たりに駐車可能 |
住 所 | 滋賀県 野洲市 小堤 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2022年12月11日(日)晴れのち曇り |
4-①駐車スペース~登城口
道の駅@龍王かがみの里から国道8号線を上りへ約3km。野洲市小堤で、左の城山へ入る道へ。林道を突き当たりまで行った所に車を停める。「入山は午後7時まで」との看板があるが、見えてても足を滑らすことのある城山で、日が落ちた後を思うとぞっとする。
T字路が多いが、標識があるので城山を選ぶ。この道は左へ。
登城口。
小堤城山城の縄張り図。小堤城山城は、大まかには3つのエリアから成る。①手前の段曲輪群、②中央の主郭部、③山頂部の詰丸群。
4-②段曲輪群
大手道の左右に「L」と「R」でそれぞれ№1~12までの段曲輪がある。
大手道はほぼ一直線に進み放題なので、これらの左右に配置した段曲輪群は、防御施設というより家臣団の居館跡ではなかろうか?
4-③主郭部
a)曲輪№13
№1~12の段曲輪群を抜けると、その上に主郭(№13)がある。ここは10~15mほどの高低差で、侵入者を拒む縄張りになっている。
曲輪№13の虎口。
主郭・曲輪№13。
b) 曲輪№16
曲輪№13の上に曲輪№16があるのだが、高さ20mはありそうな斜面の上部には石垣が組まれており、その入口はなんと枡形虎口になっている。
曲輪№16の枡形虎口。写真で見るとほとんど分からないのが残念だが、現地現物で見たその高さと枡形のコラボは感動ものである。
この曲輪№16は、西に枡形虎口を持ち、北側には櫓を備えた一段高い曲輪№15(写真奥)があり、南側には詰丸に相当する曲輪群(№17~24)がある。
4-⑤詰丸群
曲輪№24。№16の上にある、詰丸に相当する曲輪。
南近江の国衆・永原氏は、戦国初期は南近江守護・六角氏の陪臣(家臣の家臣)だった。その後独自に足利将軍家とつながりを持つなどで勢力を拡大し、戦国中期には六角氏の重臣の地位にいた。永禄6年(1563年)の観音寺騒動後は、六角氏からほぼ独立する形になっており、まさに戦国時代を象徴するような武家だろう。
永禄11年(1568年)、上洛を目指す織田信長が近江に侵攻してきた際、六角氏の重臣たち(後藤、進藤、平井、永田)はことごとく織田方へ内応していった。しかし永原家当主・永原重虎は、織田にも六角にも恭順せず、武士を捨て近江から出奔した。その後の重虎の足取りは杳として知れず、永原氏は戦国時代から姿を消した。
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