【近江:勝楽寺城】足利幕府の創成期を支えた佐々木道誉の居城・勝楽寺城へ登る

勝楽寺の山門 畿内近国
勝楽寺の山門
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勝楽寺城

形 態山城址難易度★★★--
比 高160m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類猪、鹿見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ -  /  150m
所要時間-  /  35分
指 定
遺 構曲輪、石垣、堀切、土塁
歴 史 バサラ大名・佐々木道誉どうよ(京極高氏たかうじ)の城。正慶2年(1333年)鎌倉幕府の倒幕を決意した足利尊氏に同調し、播磨の赤松円心や関東の新田義貞らとともに戦い、鎌倉北条氏を滅ぼした。
駐車場勝楽寺 – Google マップ
住 所滋賀県 犬上郡甲良町 正楽寺4
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年12月10日(日)快晴

1.駐車場

勝楽寺入口

勝楽寺しょうらくじ城は、南北朝時代に佐々木道誉により、近江国甲良こうら荘(滋賀県甲良町)近くの比高160mの山の上に築城された。近くには比高400m越えの高取山を始めいくつもの高い山はあるが、麓の甲良荘の支配拠点としてこの山がふさわしかったのだろう。南北朝期の山城は高さ重視で比高400m前後が一般的なので、珍しい感じがする。

佐々木道誉は佐々木氏の庶流で、本家や他の庶家と区別するため、”京極氏”を名乗っていた。いみなは“高氏たかうじ”なので、京極高氏なのだが、一般的にバサラ大名・佐々木道誉どうよと呼ばれている。室町幕府の初代将軍・足利尊氏たかうじを支えた創立者のひとりで、派手で傍若無人な様を当時は「婆娑羅ばさら」と呼んだことから「バサラ大名」の異名が付いている。さしずめ江戸時代なら「傾奇者かぶきもの」、現代なら「ヤンキー」だろう。

案内板

勝楽寺城の案内板。登ってみて分かったが、勝楽寺からの比高は150mだが横移動が長いので思いのほか時間は掛かる。往復所要時間「1時間30分~2時間」と書かれているのは少々大げさだが、1時間~1時間30分は必要だろう。

山門

勝楽寺の山門。山城・勝楽寺城の上臈じょうろう屋敷の門を移築したものとのこと。「勝楽寺城」と呼ばれているということは、当時の勝楽寺は山の上にあったと考えられる。勝楽寺のある山にあとから城を増築し、寺と城が共存していたのだろう。何もない山に一から城を造るより寺のある山に城を増築するほうが、登山道や曲輪をある程度そのまま使用出来る。

駐車場

山門の右側の道を入った先にある駐車場に車を停めさせていただき、勝楽寺城へ。

大日池

その前に駐車場の脇にある大日池を見学。説明板によると、元亀元年(1570)7月、織田信長による兵火によりほとんどの堂宇(お寺の建物)が焼かれた際、村人がここに大日如来像を埋めたため焼失を免れ、再び掘り起こした時に水が湧き出て池になった、とのこと。

当時ここは浅井あざい氏の支配地のひとつで、織田氏とは従属同盟を結んでいた。元亀元年(1570)4月、浅井久政-長政は反旗を翻し、金ケ崎にいた織田信長に兵を差し向けた。同盟は決裂し、この時より織田氏vs浅井氏の戦が始まった。同年6月、姉川の戦いと横山城陥落を経て、浅井氏重臣・磯野いその員昌かずまさの籠もる佐和山城は織田軍に包囲された。佐和山城の支城・勝楽寺城のある甲良荘は、そんな時代背景の中、焼き討ちにあったと考えられる。

2.登城口~鞍部

登城口

登城口には、有害鳥獣防止の柵があるので、チェーン付きの扉を開け閉めして入る。

橋

橋を渡る。

その先に石仏群があり、右にも行けそうな感じだったので私は進路に迷ったのだが、ナオはすぐに左上の木にリボンがあるのを見つけ、左から右上に登っていった。

経塚

経塚。道誉の三男・京極高秀により、父の菩提を弔うために建てられた。

登城道

先へ進む。この辺りは横移動が多く、なかなか山に登らない。

狐塚付近から見る景色

名神高速道路が見える。ここは多賀ICと湖東三山ICのちょうど中間あたりになる。

平四つ目結のパネル

佐々木一族の家紋「平四つ目結」のパネル。下からライトで照らすようになっているので、夜に反射させて高速から見えるようにするのだろう。パネルの上にある鳥居は狐塚の鳥居。

登城道

先へ進む。急な斜面を登っていく。

鞍部

斜面を登り切り尾根に出た。ここは鞍部あんぶで、左右に山の頂上ピークがある。

3.主郭部

①勝楽寺城址

尾根道

先に左側の勝楽寺城址見張り台を見に行く。

尾根道

尾根道を進む。

曲輪

曲輪。勝楽寺城の最高地点・標高310mの表示があるが、本丸ではないようだ。

尾根道

尾根道を降る。道の左右は切岸になっており、山城感がある。

尾根道

また登る。

曲輪

ここも本丸ではないが広い曲輪になっている。竪堀や堀切はあるものの、段曲輪・帯曲輪・堀切・土橋などを組み合わせた技巧的な縄張りなどはなく、地形に合わせて曲輪と切岸を造ってつなげただけの縄張りだ。佐々木道誉のいた南北朝期に使われた城なので、ひょっとするとその後の戦国期には廃城になっていたのかも知れない。登城道の途中の曲輪に道誉の墓のひとつ・経塚があったのも気になる。もっぱら使用中の城なら、墓は城の麓の邪魔にならない場所に建てるだろう。とは言っても後から墓の位置を移動したとも考えられる。南北朝時代は約700年前、戦国時代は約500年前、どちらも長い年月が経っている。

尾根道

また降る。

尾根道

土橋のように細い尾根道の左側に、急峻な切岸が設けられている。

勝楽寺城

曲輪。ここが勝楽寺城の本丸

案内板

「勝楽寺城跡」の案内板と、標高308mの表示。説明文に「全国的に珍しい畝状竪堀山城」と書かれているが、畝状竪堀は全国的には珍しくないので「近江では珍しい」と書きたかったのではないかと思う。それと、畝状竪堀は戦国末期に発明された防衛設備なので佐々木道誉が築城した頃にはまだ無く、後世に誰かが増設したものだろう。

②見張り台

尾根道

先へ進む。

見張り台

見張り台。曲輪群の最北端にある出丸。

見張り台の説明板

「見張り台」の説明板

見張り台からの景色

残念ながら、木に遮られて今は何も見えない。

③上臈落し

尾根道

鞍部まで戻り、反対側(右側)の尾根を進む。

シダの茂る場所

曲輪の手前にシダの茂る区画がある。曲輪の北側斜面ということもあるが、恐らくこの辺りに水の手があるのだろう。

上臈落し

南端の曲輪「上臈落じょうろうおと」。

上臈落じょうろうおとし」の説明板。この文章からすると、敵軍は勝楽寺城を殲滅する方針なのが明白で、城は落城寸前か兵糧が尽きて餓死を待つのみの状態。城主は妻子をこの曲輪から突き落として死なせた後、城兵全員で玉砕した、ということになるだろう。勝楽寺にあった山門が「焼け残った上臈屋敷の門を移築した」とのことと、大日池の説明板に「元亀げんき元年(1570)7月、織田信長による兵火」と書いてあったことを合わせて考えると、この「上臈落し」もその時の出来事と考えるのが自然のように思われる。

しかし、甲良荘が兵火に見舞われた一月前の元亀元年(1570)6月。織田信長は浅井氏の重臣・堀秀村(鎌刃城城主)を調略し、横山城を陥落させて城代の三田村国定くにさだを降伏させている。(国定は解放され小谷城へ帰参した。)その後、佐和山城を8ヶ月かけて攻め落し、城主の磯野いその員昌かずまさを降伏させて織田氏の配下にしている。信長は浅井氏の家臣団を攻めるにあたり、降参すれば家臣に取り込むか、それが無理な者は逃がす方針で進めていた。その後も殲滅したのは小谷城の浅井氏の一族だけだった。なので、小谷城から遠く離れた浅井領最南端の勝楽寺城にいる家臣を殲滅したとは考えにくい。

「上臈落し」のエピソードは、一体いつの時代のものなのだろうか?

上臈落しからの眺望

上臈落しから甲良町の町並みを眺める。

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