【摂津:池田城&有岡城】摂津最大の国衆・池田勝正の池田城と、優れた先見性で摂津国主となった荒木村重の有岡城を歩く

池田城の模擬櫓 畿内近国
池田城の模擬櫓
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城リスト

池田城

形 態平山城址難易度-----
比 高20m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
指 定
遺 構曲輪、堀、土塁、井戸、礎石、[再建]模擬櫓、門、木橋 等
歴 史 摂津の国衆・池田氏の城。管領細川氏の被官だったが、三好長慶台頭後は長慶に臣従した。永禄11年(1568)織田信長に奉じられて足利義昭が上洛すると、池田勝正は伊丹親興とともに摂津守護となった和田惟政の配下となり、本領を安堵された。
駐車場APM CAR PORT24 建石 – Google マップ
住 所[駐車場]大阪府 池田市 建石町8-15
[池田城跡公園]大阪府 池田市 城山町3-20
トイレ池田城跡公園内
訪問日2022年9月11日(日)晴れ

1.大手道~曲輪跡

車は近くのコインパーキングに停め、逸翁いつおう美術館の北西の路地に来た。当時はこの辺りに大手門があり、この細い路地は池田城へ続く大手道だった。

細い路地を登って行くと開けた。

この辺りは池田城の三の丸だった。今は宅地化されており、面影はない。

三の丸の先にある二の丸跡。今はマンションが建ち並ぶ住宅街。

二の丸跡の先に、池田城跡公園(本丸)への矢印看板がある。

この道は、当時も二の丸から本丸へ続く道だった。

池田城跡公園の案内板。ここが池田城の本丸跡になる。

池田城は、摂津最大の国衆・池田氏の城として知られている。戦国時代の摂津国は3つの郡から成り、東の上郡かみのこおり郡は幕府管領で摂津守護の細川氏や守護代の薬師寺氏が、西の下郡しものこおり郡は守護代の薬師寺氏(庶流)や国衆たちが、南の闕郡かけのこおり郡は大坂本願寺が、それぞれ支配していた。その下郡で最大の勢力を持った国衆が池田氏だった。戦国時代の池田氏は、充正みつまさ貞正さだまさ信正のぶまさ長正ながまさ勝正かつまさ知正ともまさと6代続くが、織田信長と絡みのある勝正が最も有名だろう。余談だが、戦国池田氏の歴代の諱がテストに出ることはないだろうがもし覚えるとすれば、『(上洛の際、)機がちてさだかな名目を得た信長つことをる』と覚えることが出来る。

有名な池田氏といえば織田信長の家臣で乳兄弟の池田恒興つねおきがいる。摂津池田氏の出身だという説もあるが、天正9年年(1581)に摂津の国主となり兵庫城を築いた際、摂津を統治する上で方便として触れ回ったという見方が主流のようだ。天文16年(1547)に三好長慶が摂津上郡を統治する上で、名字が同じ芥川常信つねのぶを芥川城の城主にしたことと同じ方策だ。

2.本丸

木橋と東門。二の丸と本丸の間の空堀の上に木橋が架かっており、ここから本丸(城跡公園)に入れる。

木橋から見る空堀。当時の木橋はここではなくもっと南の虎口門の位置にあった。

①本丸空堀

東門をくぐり、右手にある北門から外へ出て回り込むと、木橋の下の空堀に出る。動物侵入防止の門があるので開け閉めして入る。

空堀は“空堀散策路”になっている。

虎口門のある場所。当時はここ(ナオの頭上)に木橋があった。

南門から再び城跡公園へ。

②城跡公園

南門

南門近くにある模擬櫓

模擬やぐわの2階から礎石が見える。櫓か主殿があそこに建っていたのだろう。

虎口門の周辺が再建されている。しかしその先の木橋は今はないので出入り出来ない。

排水溝。二重の溝になっている。

枯山水。江戸期の遺構だろう。

池田氏は摂津最大の国衆であり畿内の中央権力に近かったため、その情勢に大きく左右された。

永正5年(1508)に細川京兆家の家督争いで、細川澄元と細川高国が戦った。摂津の国衆はみな高国に従ったが、澄元に恩があるとする池田貞正さだまさは澄元派の姿勢を変えなかった。高国派の総攻撃を受けた貞正は奮戦し、最後は一族20名ほどで池田城内で自刃した。

高国に敗れた澄元は実家のある阿波へ逃げ、捲土重来を期して力を蓄えた。永正16年(1519)に高国に味方する淡路細川氏を滅ぼすと、堺へ進出し、堺を拠点に摂津へ攻め込んだ。そして高国に臣従していた池田氏は、自刃した貞正の子・信正のぶまさが当主を務めており、摂津に戻ってきた澄元の元へ帰参した。

享禄4年(1531)に、澄元の遺志を継いだ嫡子・晴元が高国を滅ぼし、細川京兆家を取り戻した。この後池田信正は、勢力拡大とともに新たな家臣として中川氏や荒木氏を登用した。ここから中川清秀や荒木村重が誕生している。

しばらく細川晴元の時代が続いたが、天文15年(1546)に高国の後継者・細川氏綱が挙兵すると、晴元の重臣のひとり三好長慶(三好本家)が離反して氏綱側についた。(というか長慶が晴元から離反するために、氏綱に挙兵させた。)池田信正も長慶に同調したが、三好政長(三好庶家)や伊丹親興に攻められ降伏した。そして晴元に切腹を命じられ、池田氏は嫡子・長正ながまさが継いだ。長正は政長の娘の子であり、信正の切腹は政長の陰謀と言われている。そして長正は、晴元の重臣で祖父でもある政長とともに晴元の家臣として活動していたが、天文18年(1549)の江口の戦いで晴元軍が壊滅し政長が討死すると、敵である長慶の臣下に入った。

永禄6年(1563)に池田長正が亡くなると家督は嫡子・勝正かつまさが継いだ。代替わりは権力争いのチャンスでもあるため家臣団は分裂したが、勝正により池田四人衆のうち2人が討たれて収束した。不足した重臣の枠には、信正からの家臣である中川氏と荒木氏の当主・中川清秀と荒木村重が入った。

永禄11年(1568)、足利義昭が織田信長に奉じられて上洛すると、三好方だった池田勝正は抗戦したものの敗北。義昭体制の元、幕府の重鎮となった信長の軍事行動に付き従い但馬や播磨や朝倉攻め(金ヶ崎の戦い)に従軍した。しかし元亀元年(1570)の金ヶ崎の戦いの敗北以降、信長は劣勢となり信長包囲網はその勢いを増した。池田氏はこのまま信長に与するのか、反信長勢力側に付くのかで家中の意見が割れた結果、反信長派が弟の知正ともまさを擁立し、信長派の勝正は追放された。

元亀3年(1572)になると摂津国内のほとんどが反信長派となった。しかし池田重臣の荒木村重(勝正の娘婿で池田村重と名乗っていた)はひとり信長に味方した。このとき畿内で信長の味方をしたのは、村重と細川藤孝だけだった。その後武田信玄や三好長逸・篠原長房が相次いで亡くなり信長が逆転復活すると、信長から摂津一職(摂津の国主)を与えられた。それにより池田氏は村重が率いることとなり、名を池田村重から荒木村重に戻したことで、池田氏は自然消滅した。

有岡城

形 態平城址難易度-----
比 高整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆---
指 定国指定史跡
遺 構曲輪、石垣、土塁、堀、井戸跡
歴 史 摂津の国衆・伊丹親興-忠親の城。池田家を継いだ荒木村重により、天正2年(1574)伊丹親興は滅ぼされた。子の忠親は浪人となり、本能寺の変後、羽柴秀吉に馬廻として仕えた。荒木村重は本拠地を伊丹城に移し、有岡城と改名し、総構のある城へと改修した。
駐車場タイムズ伊丹市立JR伊丹駅前駐車場 – Google マップ
住 所兵庫県 伊丹市 伊丹1-14
トイレ駐車場内
訪問日2022年9月11日(日)晴れ

3.有岡城 駐車場

池田城から渋滞込みで約30分。JR伊丹駅の北にある大型駐車場(有料)に車を停め、有岡城へ向かう。

有岡城の石垣堀跡

ここから本丸へ上る。

4.主郭部

本丸

ここはもともと摂津の国衆・伊丹いたみ氏の伊丹城だった。伊丹氏と荒木村重の仕えた池田氏は長年のライバルで、戦国時代は常に戦っていた。細川高国と細川晴元の決戦となった大物崩れでは、高国派の伊丹国扶くにすけは高国と一緒に討死した。伊丹氏を継いだ国扶の従兄弟の伊丹親興ちかおきは、勝者晴元に従った。そして高国の後継者・氏綱うじつなが挙兵した時は澄元-晴元派の池田氏が突如氏綱側についたが、親興は氏綱派へ帰参することなく晴元派に留まった。信長包囲網の際も池田氏を筆頭に摂津の国衆が次々と反信長派に翻る中、最後まで信長派に留まった。つまり伊丹氏は、池田氏と・・・・敵対する・・・・ことを・・・第一条件・・・・としていたのだろう。

それは領土を接する戦国大名同士の宿命かも知れない。池田氏を継いだ荒木村重は、天正2年(1574)に伊丹親興ちかおき忠親ただちか親子を倒し、100年以上に及ぶ池田-伊丹合戦を終結させた。

主家を乗っ取った形になる村重にとって池田城は居心地が悪かったのだろう、池田城は廃城とし、本拠地を伊丹城へ移した。そして伊丹氏の名を冠する城名も改め「有岡城」とした。

礎石建物跡井戸跡

現存する石垣

石碑のような石が転用されている。

土塁

本丸の南側にある案内板

地図上の黒い線が総構そうがまえ、右側中央の伊丹駅の傍にあるのが有岡城だ。天正2年(1574)にこの城を手に入れた荒木村重は、2年かけて城を改修し総構を完成させた。城域は南北に細長く、少しいびつな形をしており、東に主郭・有岡城、西南北にそれぞれ防御拠点となる櫓を持つ。その総構の形は琵琶湖を連想させ、東西南北4つの城と砦は琵琶湖4城をオマージュしているかのように思える。安土城が作られた時期と有岡城総構が作られた時期が同じということもある。もしそうだとしたら、それは荒木村重の信長へのリスペクトと考えられるし、その直後の謀反がことさら興味深い。総構を琵琶湖に例えるなら、有岡城のある東の位置は織田信長の安土城に比定する。西南北はそれぞれ、上臈塚じょうろうづか砦⇒打下うちおろし城(津田信澄)、鵯塚ひよどりづか砦⇒坂本城(明智光秀)、岸の砦⇒長浜城(羽柴秀吉)となる。ただし天正6年(1578)に津田信澄は打下うちおろし城麓の琵琶湖湖畔に大溝城を築いて移った。

黒田官兵衛ゆかりの藤の木。天正6年(1578)、謀反を起こした荒木村重の説得に向かった黒田官兵衛は、村重に捕まり有岡城内で投獄された。そして牢屋の窓の外に見える藤の花に希望を見、1年間の獄中生活を耐え忍んだ、という逸話による。しかし官兵衛が村重に捕らえられたのは事実だが、実のところ板間のちゃんとした部屋で軟禁状態だったようだ。

5.岸の砦跡(猪名野神社)

有岡城から歩いて10分、北西にある岸の砦跡(猪名野いなの神社)に着いた。

元亀4年(1573)に足利義昭を京から追放し室町幕府を滅ぼした信長は、足利氏に代わる武家の棟梁としての立場で武力行使をするようになる。村重が摂津一職に任ぜられた時、摂津は反織田派が群雄割拠している状態だった。村重は国衆の有馬氏や伊丹氏を滅ぼし、摂津を自力で切り取っていった。

しかし天正6年(1578)の三木城攻めの際、村重は摂津衆を率いて羽柴秀吉に従軍するよう、信長に命じられた。自分を使い捨てにしようとしているようにしか見えない信長からの脱却は、当然の行動だろう。

猪名野神社の北側に、岸の砦の土塁がわずかに残る。当時の土塁はもっと高く、その上には柵や塀が設けられていたことだろう。

天正6年(1578)荒木村重は従属していた織田信長に反旗を翻し、1年3ヶ月におよぶ“有岡城の戦い”が勃発した。荒木攻めの総大将を命じられたのは、織田家重臣・万見重元(仙千代)だった。しかし重元は、自ら総構そうがまえの塀を乗り越えようとした時、荒木方の兵に槍で突かれ命を落としたという。信長は、近衆から文官筆頭にまで出世した重元に武功も挙げさせ、織田家中の実力者へと成長させたかったのだろう。残念ながら、万見重元はその期待に応えることなく、歴史から姿を消した。

昼食「必死のパッチ製麺所」

昼ご飯は近くの「必死のパッチ製麺所」で、飛魚煮干しスープのラーメン。

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