摂津 滝山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 250m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 10m / 240m | ||
所要時間 | 5分 / 45分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、竪堀、石垣 |
歴 史 | 南北朝時代に赤松氏により築城された。天文22年(1553)三好長慶の重臣・松永久秀が入城した。三好三人衆の時代は篠原長房が城主だった。荒木村重討伐後に廃城となった。 |
駐車場 | タイムズJR新神戸駅前自動車整理場(第1) – Google マップ |
住 所 | 兵庫県 神戸市中央区 元町1-4 |
トイレ | 新神戸駅 内 |
訪問日 | 2022年3月6日(日)晴れのち曇り 時々小雨 |
1.登城道
車は新神戸駅のコインパーキングに停め、高架下を潜って駅の北側へ行く。
地図には「背山散策路北野道」と「登山道コース」が書かれているが、目指すのは城山(滝山城跡)なので、登山道コースを行く。
登城口。この階段を上る。
摂津滝山城は、松永久秀の城として知られている。
細川晴元政権時の天文9年(1540)。摂津国の土豪(下級武士)だった松永久秀(32歳)は、摂津国下郡郡の守護代に補任した三好長慶(18歳-当時は範長)に登用された。天文の乱で長慶の父・三好元長が討死した際に主立った重臣たちが死んでいるのと、阿波を任せた弟・三好実休(13歳-当時は之相)に家臣の大半を残し主君・細川晴元とともに畿内へ出てきたため長慶には有力な家臣がほとんどいなかったことが、土豪の久秀が登用された理由だった。その後久秀はチャンスを生かし、摂津衆の中で頭角を現わしていった。
それから13年後の天文22年(1553)。三好長慶(31歳)は、下郡の越水城から上郡の芥川城へ本拠地を移した。主君だが父の敵でもあった細川晴元を倒して畿内を掌握した長慶は、京都を統治するため晴元の拠点だった芥川城を選んだ。そして下郡は松永久秀(45歳)に与え、居城は摂津の西端にある滝山城とした。出自の低い久秀に全権を与えるのは軋轢を生むので、国衆の池田氏や伊丹氏への従軍指示などは長慶が直接行い、段銭奉行(税務担当)は長慶の妹婿・野間長久が務めたものの、久秀が下郡一郡の統治者になったことに変わりはなく、久秀は世に出てたった13年で守護代クラスへと出世を果たした。
少し歩くと、道の脇に切岸が出現。敵兵なら、切岸の上から飛んでくる矢に射貫かれ、ここで果てている。
切岸の上にある出丸。あまり広くないが、防御拠点としては十分なのだろう。
一本道の尾根の両側は切岸になっている。
上空を、ロープウェイが通過する。
こちらも出丸。大手道の正面に据えられた出丸は、一直線に登って来る敵兵を狙いやすい。
神戸港。
この上にも曲輪がある。曲輪は、尾根道を見下ろしながら大手道に平行して続いている。
三叉路に到着。右へ登っていくと主郭部、左へ下っていくと別の尾根の段曲輪がある。
2.主郭部
ここから先が主郭部。
縄張り図を確認する。尾根に沿って曲輪が連なっている他は、取り立てて遺構は見あたらない。南北朝時代に赤松氏が築いた滝山城の縄張りを、ほとんどそのまま使用しているのだろう。その後「近世城郭のひな形」と呼ばれる多聞城を築いた松永久秀の城としてはいささか物足りないが、滝山城城主であった天文22年(1553)から永禄2年(1559)までの6年間、久秀はこの城にはほとんどいなかったので仕方のないところだ。
久秀は、地域の支配者である池田氏や伊丹氏とは異なり三好政権の中枢を担うブレーンなので、政庁でもある芥川城で三好長慶と一緒に暮らしていた。芥川城には妻・保子と子供たちもおり、長慶から三好一族同様の扱いを受けていた。これほど信頼を得ている背景には、出自が低くバックボーンが何もない久秀の地位を支えているのは長慶の信認のみなので、それを裏切ると久秀は全てを失うことになるから裏切るはずがないという算段もあるだろう。しかしそれを差し引いても長慶の久秀への信頼は絶大なものがあったと思う。
松永久秀が滝山城主になって3年が経った頃、主君である三好長慶を招待し、滝山城で連歌会を催した。弘治2年(1556)7月、久秀48歳、長慶34歳の事である。連歌とは、5・7・5の長句と7・7の短句を交互に複数の人で詠んで、1つの歌にしていくというもの。通常100句ほどで完成となる。このとき出座したのは、連歌師・谷宗養、京の僧侶・元理、堺の僧侶・等恵、茶人・辻玄哉、池田長正の重臣・池田正秀など摂津の有力者だった。総勢何名かは知らないが仮に10人だとすると、1人あたり10句づつ詠むことになる。
のちに“滝山千句”と呼ばれる連歌会は、長慶の発句から始まった。「難波津の、言の葉おほふ霞哉」と詠むと、続いて久秀は「いまを春辺の、浦のあさなき」と詠んだ。しかし一周して次に久秀の番が来た際、詠んだのは代理の連歌師・谷宗養だった。久秀が詠んだのは最初の1句だけで、以降久秀の番には全て宗養が詠んだ。久秀は歌が苦手だった。それでも主君・長慶のため、連歌会を催したのだ。水無瀬川、玉江の蛍、湊川の納涼、初島の霧、須磨の月、生田の鹿、布引の滝などの摂津の名所にちなんだ歌を詠みあうことで、摂津の全ては長慶のものであることを示した。長慶が彼らの歌を褒め、高価な褒美を取らすことで、長慶の権力をも示した。
だまし合いを日常とする戦国の世では、主君が家臣の城へ赴くことはない。長慶が久秀の城へ行ったのは、当時では異例のこと。帰り際に長慶は「実を言うと私は、出会いの日から今日までそなたを我が兄のように思うてきた。これからも私を支えてもらいたい」と言ったという。
主郭部の虎口。
石が散乱しているのは、ここには石垣が組まれていたのだろう。天正9年(1581)に兵庫津に兵庫城が築かれた際、この滝山城の石垣を運び出して転用したと言われているのでその残骸か。
二の丸。
本丸の切岸。
本丸に建つ石碑。
兵庫城
指 定 | - |
遺 構 | [復元]模擬石垣 |
歴 史 | 織田家重臣・池田恒興の城。摂津の国衆・池田氏は本家で、恒興の家系は庶流にあたる。天正6年(1578年)織田信長の家臣・荒木村重が謀反を起こしたが討伐され、代わりに摂津の国主となった池田恒興が、兵庫津に兵庫城を建てた。 |
駐車場 | イオンモール神戸南駐車場 兵庫城跡 – Google マップ |
住 所 | 兵庫県 神戸市兵庫区 中之島2-1-1 |
トイレ | イオンモール神戸南 内 |
訪問日 | 2022年3月6日(日)晴れのち曇り 時々小雨 |
イオンモール内のトイレの前にある「兵庫津の道ガイドマップ」
イオンモールの横にある模擬石垣。兵庫城の発掘調査で出土した石垣の一部を使用している。兵庫城の石垣は、滝山城の石垣の多くを転用したといわれているので、この石も滝山城のものだったかも知れない。
兵庫城の案内板。イオンモールを建てる際、発掘調査を行った旨が書かれている。兵庫城の跡地の上にイオンモールを建てているので今は遺構を見ることは出来ないが、タイムカプセル的な完全保存がなされていると考えることも出来る。
兵庫城の石碑。石碑は、新川運河キャナルプロムナードの遊歩道にある。
イオンモール全景。かつてはここに天守を備えた兵庫城が建っていた。城主である池田恒興は尾張の武将だが、摂津の国衆・池田氏の分家に当たる。衰退した本家に代わって摂津の支配者に返り咲いたともいえる。恒興の息子の池田輝政は、摂津の隣の播磨姫路藩の初代藩主となり、姫路城を現在の姿に改修した人物として知られている。
兵庫城が建ってわずか2年後の天正10年(1582)に、明智光秀の謀反により織田信長が本能寺で討たれたことで、全国の戦国大名たちの運命が変わった。
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