【丹波:篠山城】三方に馬出を備えた迎撃の城、松平康重の築いた篠山城を歩く

篠山城の東馬出 畿内近国
篠山城の東馬出
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篠山城

指 定国指定史跡、日本100名城
遺 構曲輪、石垣、堀、馬出、天守台
歴 史 八上藩主・前田茂勝が改易された翌年の慶長14年(1609)、徳川家康は新たに入部した松平康重に新城の築城を命じた。候補地3つの中から、多紀盆地の丘陵・笹山を選んだ康重は、天下普請により集められた各地の大名たちを使って篠山城を築いた。普請総奉行は池田輝政が、縄張奉行は藤堂高虎が務めた。
駐車場三の丸西駐車場 – Google マップ
住 所兵庫県 丹波篠山市 北新町24-1
トイレあり
訪問日2023年11月18日(土)曇り のち雨 のち晴れ 一時アラレ

1.三の丸駐車場

廊下橋

車で大手門跡から入り三の丸駐車場に停めるとすぐ、正面に篠山城主郭部がある。「北廊下」と呼ばれるこの土橋(当時は壁と屋根があった)を渡った先は二の丸で、石垣の向こうに見える三角の屋根は二の丸に復元された大書院おおしょいん

篠山城の案内板。篠山城は3つの大きな馬出うまだしがあるのが特徴だ。二の丸は目の前だが、まずはこの3つの馬出を、東→大手(北)→南の順番で見に行く。

二の丸と本丸の石垣の裾部に犬走りが設けられている。これは藤堂高虎の縄張りの特徴で、慶長7年(1602)築城の今治城以降の城には必ず見られるものだ。

慶長14年(1609)、八上藩主・前田茂勝しげかつが改易されて新たに入部した松平康重やすしげ(41歳)は、徳川家康(66歳)から新城の築城を命じられた。そして候補地として多紀盆地にある3つの丘陵を挙げた。東から比高30mの王地山、比高10mの笹山、比高50mの飛ノ山。康重は家康に伺いを立て、比高10mの笹山が選ばれた。城は地形の高さがそのまま防御力となるため、その観点から見ると城は高ければ高いほうが良い。しかし家康からのミッションはこの地を守るための城ではなく、有事の際に攻撃の拠点となる城の築城だった。西国諸大名の抑えとなる城には高さはむしろ邪魔だったのだろう。

候補地3つの中で最も低い丘陵・笹山で築城を開始した康重は、天下普請により集められた15ヶ国20の大名を使い、普請総奉行には池田輝政、縄張奉行には藤堂高虎を任命し、6ヶ月で篠山城を完成させた。

松平康重のエピソードとして家康ご落胤説がある。家康の侍女が松平康親に嫁ぎ、その後すぐ康重が産まれている。その侍女は松平重吉の娘なので家柄は申し分なく、生んだ子が康親の跡を継いだことに何も問題はない。家康の子なのか、そうでないのか、どちらもあるだろう。もし家康の子であれば、家康の次男ということになる。

2.東馬出

東土橋

東馬出へ続く東土橋。三の丸への入口は、東・大手・南の3つの土橋のみ。防御の面から敵が侵入しづらくなるように、横幅は狭くなっている。敵が侵入しづらいということは味方が出撃しづらいということの裏返しでもあるため、出撃しやすくなる「馬出」が設けられている。いつの時代に発明されたものかは知らないが、甲斐武田氏が丸馬出を多用して、“戦国最強の騎馬軍団”と呼ばれていたのが有名だ。

東馬出

東馬出

馬出跡を内側から見てもただの公園なので、外側から見る。出丸のように外掘から飛び出た曲輪を石垣と土塁で囲い、その周囲に凹字型の水堀を設けている。篠山城の馬出は角馬出(四角い馬出)だ。

東馬出の側面。戦闘時には三の丸の城兵は土橋を通って馬出に移動して待機。出撃時には左右の虎口から一気に出ていける。

3.大手馬出

外堀越しに見る三の丸と主郭部石垣

続いて大手馬出を見るため篠山城の北側へ移動。北外堀は幅が広く、大きな池のようだ。三の丸と主郭部石垣、大書院の屋根が見える。

大手馬出

大手馬出。写真中央の石垣の盛り上がった箇所から奥にかけて、かまぼこ状に土塁があった。その手前には、今は埋め立てられて高さはあまり変わらないが、馬出を囲うように凹状の水堀があった。

大手馬出の説明板

大手馬出の説明板。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、反徳川の残存勢力が残る西日本において、篠山城は最前線の城のひとつとして重要な役割があった。同じ天下普請で築かれたが、反徳川勢力から遠い駿河に築かれた駿府城には馬出はひとつもなく、専守防衛の城だったことと対照的だ。

篠山城の築城から5年後の慶長19年(1614)に大坂の陣が勃発すると、城主の松平康重は篠山城を出陣し大坂入りした。

大手土橋

大手土橋。三の丸北側の虎口になる。この土橋を渡った先に大手門があった。

4.南馬出

外堀の西側

西外堀

南馬出

西外堀を迂回した反対側にある南馬出。曲輪の広さも土塁の高さも東馬出の2~3倍はあるだろう。

南馬出も東馬出と同様に城兵の待機場所として使用されていた。多くの城兵を効率よく出撃出来、敵兵から見ると動線が複雑にクランクしているので侵入しづらくもなっている。

5.埋門

三の丸

南土橋を渡って三の丸の南側に入った。大手門のある北側に対し、こちらは搦手からめてになる。

二の丸へは、搦手からめて口(裏口)となる埋門うずみもんから入ることにした。

埋門

二の丸の埋門うずみもん

埋門

二の丸は埋門うずみもんより高い位置にあり、二の丸から見ると文字通り門が地中に埋まっているように見える。

埋門は非常時用の門なので普段は使用しない。城によってはこの上に建物を設け、非常時には忍者屋敷のように床下から抜け出せる仕掛けにしているところもあったようだ。

6.二の丸

①二の丸御殿跡

二の丸。奥の建物は復元された大書院おおしょいん。手前の広場には、城主の住居である二の丸御殿があった。

排水路

台所付近の排水路

②大手口

表門

大手口にある廊下橋の関所・表門跡。三の丸駐車場から主郭部を目指せば最初にここを通る。

中門跡。大手口はクランク状に右へ折れ曲がっている。

鉄門跡

鉄門くろがねもん。今は冠木門が設けられている。この場所は、映画「レジェンド&バタフライ」の撮影に使われた。

③大書院

大書院

大書院おおしょいんは、慶長14年(1609)に建てられ、明治4年(1871)の廃城後も残されていたが、昭和19年(1944)に惜しくも焼失した。その後、平成12年(2000)に大書院は復元された。

篠山城のジオラマ

篠山城のジオラマ。本丸・二の丸・三の丸の表記が異なっているのが気になるが、築城当初は本丸を「殿守丸でんしゅまる」、二の丸を「本丸」、三の丸を「二の丸」と呼んでいたとのこと。ひとつずつズレて外堀の外周が「三の丸」になっているが、じゃあ今は何て呼んでいるのだろうか?

甲冑の間。これらの甲冑は全部“時さん”というかたの手作りとのこと。クオリティーが凄すぎる。

廊下

廊下。細部に至るまで丁寧に復元されているようだ。

上段の間

上段の間。きっと、時代ものの映画やドラマの撮影に使われていることだろう。

7.本丸

本丸虎口

本丸虎口。さきほどの二の丸御殿の東に本丸がある。

青山忠誠の追慕碑

青山忠誠ただしげ追慕碑ついぼひ。幕末の篠山藩主で大坂城代だった青山忠良ただながの嫡男。青山氏は徳川氏がまだ松平だったころからの譜代の家臣で、代々松平(徳川)宗家に仕えた。青山忠誠ただしげは若干29歳で亡くなっているが、私財を投じて中学校を設立したりしているので、地域の人々から慕われていたのだろう。

天守台

天守台。篠山城の築城当初からこの天守台に天守を建てる予定はなく、その後一度も建つことはなかった。

天守台から八上城が良く見える。

8.昼食「一休庵」など

天ぷら御膳

昼食は、篠山城から北へ3~5分ほどのところにある十割そば「一休庵」で天ぷら御膳を食す。兵庫北部の出石そばとともに、じゃらんの「全国ご当地そば20選」に選ばれている丹波そば。丹波地方は水がきれいなのと、そばは山間部のやせた斜面でも良く育つことから、昔から郷土食として食べられていたとのこと。

一休庵の駐車場から歩いて3分のところにある小西のパン。丹波黒豆をふんだんに使用した黒豆パンの専門店で、県外にもファンが多いことで有名だ。

お菓子の里丹波

一休庵からも篠山城からも10分弱のところにあるお菓子の里 丹波。黒豆茶と、黒豆を使ったお菓子をいくつか買った。こっち方面に来る際はまた寄りたいと思う。

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