【丹波:周山城】京都と若狭を結ぶ周山街道に築かれた幻の城、明智光忠の居城・周山城へ登る

畿内近国
本丸西側段曲輪群の石塁
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周山城

形 態山城難易度★★★--
比 高220m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ30m / 190m
所要時間8分 / 35分
指 定
遺 構曲輪、土塁、石塁、虎口、堀切、切岸、井戸
歴 史 織田信長の家臣で丹波一職を任された明智光秀が、京都と若狭を結ぶ周山街道に築いた城。城主には光秀の家臣・明智光忠が入った。築城からわずか1~2年後に本能寺の変が起こり、その後明智光秀は羽柴秀吉に敗れたため、周山城は廃城となった。
駐車場篠山藩周山代官所跡 – Google マップ
住 所京都府 京都市右京区 京北周山町上代2-4
トイレ道の駅 ウッディー京北(駐車は不可)
訪問日2024年5月17日(金)晴れ

1.登城口~東側遺構

車は篠山藩周山代官所跡に停めさせていただく。その近くに光秀ゆかりの寺院・慈眼寺じげんじがあり、“明智光秀の黒塗りの像”が安置されている。御城印等も各種販売中。そこから歩いて数分の所に「周山しゅうざん城」はある。

周山城は、明智光秀の城として知られている。明智光秀の居城といえば近江の坂本城だが、天正3年(1575)11月に始まった丹波侵攻で、明智光秀は織田軍の総大将として丹波へやってきた。4年掛かりで丹波を平定すると、光秀は信長から丹波の支配を任された。

丹後との国境の要衝である天田あまた郡には重臣筆頭・明智秀満ひでみつを置き、横山城を大改修して福知山ふくちやまと改めた。その手前の氷上ひかみ郡と多紀たき郡にはそれぞれ斉藤利三としみつ(黒井城)並河なみかわ飛騨守ひだのかみ八上やかみ城)を置いた。そして若狭との国境に面する桑田郡には周山城を築き、重臣№2の明智光忠みつただを置いた。光秀自身は、京都に最も近い丹波口に亀山城を築き、そこを本城とした。

周山城の登城口。ここから本丸までの比高は約190m(道のり1.2km)。所要時間50分は、各遺構を丁寧に見て回った場合の時間なので、本丸へ直行なら30分もあれば行ける。

つづら折りの大手道を10分ほど歩くと、最初の曲輪に到着。

虎口の右手に広がる北東尾根の曲輪。入口は狭いが、縄張り図を見る限りとても奥行きは広く、周山城で最大の曲輪だ。しかし案内板は特にないため曲輪の使用用途は不明で、しかも少し奥から立入禁止になっている。山城は私有地であることが多いので、立入り制限のある場所は間違って入らないよう注意したいところだ。

虎口の左側に大手道が続いている。「本丸まで800m」

北東尾根から南東尾根へ続く一本道を進む。

4分ほどで南東尾根に到着。

南東尾根の曲輪は鍛冶場として使用されていたようだ。

この先から主郭部となる。

2.三の丸(兵糧蔵)

大手道から切岸を見上げる。この上は三の丸となっている。

三の丸の虎口に併設されていた櫓台の石垣

三の丸から平虎口を見る

虎口は平虎口で、動線に対して90度右に曲がっているのと、急な傾斜があるのが特徴。虎口の左右には櫓が建っていた。三の丸がこれまでの曲輪と決定的に違うのは、虎口での堅固な防御を備えていることもだが、ここを通過しないと本丸へ行けないということだ。

三の丸は、兵糧蔵として使用されていたようだ。

三の丸の切岸。この下に大手道があるので、列を成して進軍してくる敵兵は格好の標的になる。

3.二の丸

三の丸から続く大手道。

二の丸の枡形虎口。ここも三の丸と同様に、90度右へ曲がった急斜面となっている。

二の丸から見た枡形虎口。

二の丸の東側。

二の丸の西側。この先に本丸がある。

二の丸と本丸を連絡する傾斜部には、左右に石塁が設けられている。

4.本丸

本丸の枡形虎口。90度右へ曲がる構造は三の丸二の丸と同じだが、ここは平面になっている。

その代わり奥行きがあり、左右の土が盛り上がっていることから、櫓門があったのではと思われる。

櫓門跡?を内側正面から見る。私は専門家ではないので間違っていたらごめんなさいだが、歴史好きの好奇心をかき立て妄想を引き出すだけの痕跡は充分に残っている。

本丸

周山城の城主・明智光忠みつただは、明智五宿老の1人と言われている。明智五宿老とは、明智秀満(左馬助さまのすけ)、明智光忠(次右衛門じえもん)、斉藤利三(内蔵助くらのすけ)、藤田行政ゆきまさ伝五でんご)、溝尾茂朝しげとも庄兵衛しょうべえ)の5名をいう。特に秀満と光忠は五宿老の双璧ツートップで、それぞれの父が光秀の父と兄弟で、3人は従兄弟同士だったと言われている。しかし敗軍の将としてその後滅亡した明智氏のことなので、重要な文書はその多くを消失させており、はっきりしたことは分かっていないようだ。

天正10年(1582)6月、毛利攻めの中国方面軍の指揮官・羽柴秀吉を補佐するよう信長に命じられていた明智光秀は、亀山城へ明智軍団全軍を集結させた。そして織田を討つ好機であることを五宿老に告げると、備中ではなく京都へ向けて出陣した。第一陣は、大将に明智秀満。第二陣は、大将に明智光忠、副将に藤田と溝尾。第三陣は光秀自身を大将とし、副将に斉藤利三を配置した。本能寺で織田信長を滅ぼし、二条城で織田信忠を滅ぼし、光秀は本懐を遂げた。しかし光忠は二条城での攻防で銃撃を受け、重傷を負ったという。

京都東山の知恩院で養生していた光忠だったが、本能寺の変に続く山崎の戦いで、明智軍(光秀、斉藤利三、藤田、溝尾)が秀吉軍に敗れたことを聞く。最初から決めていたのか早馬で知らせが入ったのかは分からないが、坂本城へ集合することとなり、光忠も知恩院を出て坂本城へ向かった。

坂本城で、安土城の守備を担当していた秀満と合流。しかしその後やってきたのは溝尾茂朝だけだった。山崎での敗戦後、光秀と溝尾だけ近くの勝龍寺城へ入ることが出来た。しかし夜明けを待って坂本へ向けて移動したものの、道中落ち武者狩りに遭い、光秀は深手を負って切腹。溝尾が介錯し、坂本城まで首を持ち帰ったという次第だった。光秀を失った明智五宿老は、それぞれの家族とともに坂本城を枕に皆自害した。藤田行政は淀で自害、斉藤利三は坂本からさらに北へ逃走しようとしたが堅田で捕まり、六条河原で斬首された。

本丸の外周には土塁が見られる。その近辺の至る所に石が散乱しており、ここに石垣が組まれていたことを物語っている。

残念ながら、本丸からの眺望はほぼ無し。国指定史跡かせめて京都市指定史跡にでもなれば、一部の木を伐採して眺望を確保して貰えるのだろうが、この周山城は地権者が複数いるため、史跡指定を受けるのが困難とのこと。

本丸には3つの土山がある。左の2つは小さい山で、右の山はL字型に左の2つを囲うように配置されている。ここに石垣が組まれ、その上に天守があったと言われている。

天守台のすぐ右側にある大型土壙どこう。当時からの物だとすると、貯水池か貯蔵庫として使用されていたのだろう。井戸だったとの説もある。

大型土壙の手前に本丸のもうひとつの虎口・搦手口がある。ここから西側遺構を見に行く。

5.西側遺構

本丸の西側は石の散乱が多い。曲輪の中央に「壮大な石垣①」の矢印看板があるので、左下へ進む。

「壮大な石垣①」の石垣。

その先にある小性こしょう曲輪。「小性」は「小姓」と同じ意味。実際に城主・明智光忠の小姓が使用していた曲輪なのかは不明だ。ただ曲輪の名称には地域性が感じられるので、「この曲輪は本丸に近いから小姓が使っていたんじゃないか」と考えた人が名付けたのではないかと個人的には思う。

①の反対側にある「壮大な石垣②」の石垣。この立派な石塁と石垣は、周山城の最大の見所となっている。

城主・明智光忠がいなくなったあとの周山城がどうなったのかは、ほとんど分っていない。天正12年(1584)2月に、羽柴秀吉が軍事視察のために周山城へ来たという記録があるという。その時の城主は誰なのか、その後何年に廃城となったのか、不明なことが多い。

ほとんど手付かずの壮大な石垣。本丸には石がほとんど残っていないので破城後に何者かが石を持ち去ったと考えられるが、ただ上から下へ運べば良い本丸の石と異なり、ここの石は一旦本丸に上げないといけないため、労力が全然違ったのだろう。ここは放置され、お陰で今でも当時の面影を見る事が出来る。

この先には、出城である「西の城」がある。

「西の城」の手前にある大規模堀切①

さすがに“大規模”は誇張が過ぎる。一般的な立派な堀切だ。

この先は、もう1本の堀切を介して「西の城」へ続いている。

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