目次
八上城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 240m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 240m | ||
所要時間 | 3分 / 45分 |
指 定 | 国指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀切、土塁 |
歴 史 | 管領細川氏の被官・波多野氏の城。応仁の乱で戦功を挙げた波多野清秀が、細川政元から丹波国多紀郡を与えられたのを始まりとする。一時期八上城を奪われたこともあったが、5代100年続いた。 |
駐車場 | 八上城登山者用駐車場 – Google マップ |
住 所 | 兵庫県 丹波篠山市 八上内576-1 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2023年11月18日(土)曇り のち雨 のち晴れ 一時アラレ |
1.八上城の駐車場
八上城の専用駐車場。3年弱前、2021年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放送終了頃に来た際は、まだここはグーグルマップに載っておらず場所がわからなかったので道に迷った。そして地元の人に野々垣市の谷口の駐車場を教えて貰い、高城山の東側から登った。今回は北側の大手道である春日神社口から登る。
春日神社口にある八上城の案内板。3種類の案内板があり、とても手厚い。八上城へ登るコースはいくつかあるが、春日神社口からの登城道は、右衛門コースとなっている。
八上城は丹波波多野氏の城で、天正年間には明智光秀を大将とする織田軍と戦った。最期は和議と見せかけた光秀の謀略により、当主・波多野秀治と弟・秀尚は命を落とした。丹波侵攻における明智光秀の “なり振り構わず勝ちに行くエピソード” は枚挙にいとまがない。これは丹波の人々に並の調略が通用しなかったことの裏返しだろう。
鳥居付近にあるトイレ。登城口にトイレが完備された山城は稀少だ。
登城口。「頂上まで1Km 約45分」の看板あり。
2.主膳屋敷跡~上の茶屋丸
主膳屋敷跡。江戸期の八上藩主の屋敷があった。
前田主膳正供養塔。八上藩主・前田茂勝の墓。個人の名前が彫ってあるのに“墓”ではなく“供養塔”になっているのは違和感がある。前田茂勝は豊臣五奉行のひとり・前田玄以の次男か三男で、前田家を継いだものの次の代へ渡すことなく改易された。
前田といえば豊臣五大老のひとり・前田利家が有名だが、前田利家は尾張前田氏、前田玄以は美濃前田氏でルーツは異なる。(もっと遡れば同族だったかも説あり。)どちらも織田信長の家臣となり、利家は織田家宿老・柴田勝家の与力に、玄以は信長の嫡男・信忠付きの家臣となった。
山の斜面を登っていく。階段があるので歩きやすい。
登りきった尾根にある西出丸・鴻の巣。
ここからは南東へ続く尾根を進み、本丸を目指す。
尾根の途中にある曲輪・下の茶屋丸。
下の茶屋丸から山頂を見る。
尾根の途中にある曲輪・中の檀。
中の壇の先にある土橋。
尾根の途中にある曲輪・上の茶屋丸。茶屋丸という名称は豊臣期の前田氏の時代に付けられたものだろう。戦国期は西の要の防衛拠点だったと考えられる。
戦国期の山城の一般的な高さは比高200mと言われており、八上城は比高240mなので決して低くはないが、整備された丸太階段がどこまでも続いている。
3.主郭部
石垣とともに右衛門丸の看板が出現。
右衛門丸。戦国末期の八上城の城主で、丹波波多野氏5代目当主・波多野右衛門大夫秀治の居館があった曲輪。2代目の波多野元清も“孫右衛門尉”を名乗っているので、「右衛門丸」はその頃からの呼び名かも知れない。
ここは比高210mほどの位置にあり、比高240mの本丸との高低差は30m。城主の居館というと山城の麓に構えられているイメージがあるがそれは室町期以前か江戸期の話であり、戦国期は山頂付近に住んでいたことを今に伝えている。
藪で見えないが、大手道の左右は削平されているようだ。
三の丸。三の丸は藪で地面が見えない。三年ほど前に来たときは草木はきれいに刈られていた。[右下写真]
二の丸の虎口。
二の丸。
二の丸からの景色。丹波篠山の町が一望出来る。城を築く山を選ぶ際の判断項目のひとつが、「支配地を一望出来ること」だと言われる。あとは生活用水が確保しやすいことと、山頂が急峻で曲輪や切岸が造りやすいこと。
丹波篠山市内にある篠山城と、明智光秀が築いた山城・金山城の位置を確認した。前者は江戸初期に徳川家康が天下普請で築かせた城。後者は丹波侵攻の際、氷上郡にある黒井城とここ多紀郡の八上城の連携を分断するためにその間に築かれた城。
二の丸から本丸へ。
本丸。
丹波波多野氏の初代・清秀は、源範頼(頼朝の弟)を祖とする石見の吉見氏の一族だったが、管領・細川政元の家臣となり、応仁の乱ののち丹波国多紀郡(現・丹波篠山市)を与えられた。その際政元の命で母方の姓・波多野を名乗り、丹波波多野氏が誕生した。そしてその勢力は多紀郡に留まらず、丹波南東部や摂津にまで及んだという。
時勢が変わり、三好長慶の台頭により細川管領家は衰退していったが、細川氏の重臣としての姿勢を変えなかったため波多野氏もまた勢力を弱めた。そして永禄2年(1559)4代・元秀のときに内藤家名代・松永長頼(久秀の弟)により八上城を奪われ、丹波の地を追われた。
時局は目まぐるしく変わるのが戦国の常で、天下に覇を唱えた三好氏も不運が重なり勢力を弱めた。永禄5年(1562)播磨三木城の別所氏のもとに身を寄せていた波多野元秀は、盟友の赤井氏(荻野直正ら)とともに多紀郡へ復帰し、力を蓄えた。そして永禄8年(1565)永禄の変(足利義輝の殺害)後の混乱を好機とみて兵を挙げ、松永長頼を討ち果たし、八上城を取り戻すことに成功した。
その後、永禄10年(1567)に当主は5代・秀治となり、荻野直正や別所長治とともに、その後訪れる織田信長との全面戦争へと続いていく。
淀山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 50m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 50m | ||
所要時間 | 4分 / 12~15分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、堀、土塁、井戸 |
歴 史 | 丹波の国衆・波々伯部光忠-光吉の城。源義家の末裔・源房光が丹波国多紀郡の開発領主となり、波々伯部を名乗ったのを始まりとする。応仁の乱後にやってきた波多野氏が勢力を持つとそれに従い、重臣となった。八上城が落城する前に波々伯部氏は逃亡し、その後帰農した。 |
駐車場 | 東山城跡駐車場 – Google マップ |
住 所 | 兵庫県 丹波篠山市 辻1019 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年11月18日(土)曇り のち雨 のち晴れ 一時アラレ |
4.淀山城の駐車スペース
淀山城の駐車場はないが、路肩に広いデッドスペースがあるので停めさせていただく。八上城からは約10分。
淀山城の南側に集落があり、東山城・南山城という山城とあわせて3基でこれを囲うように配置されている。その東山城の麓に東山城跡駐車場があり、ここから歩いて5分ほどなので、路肩駐車が気になる人はそこに停めるのが良いだろう。
ガードレールの終わったところに右へ入る道がある。
淀山城址の矢印看板あり。ここを道なりに進む。
大池の向こうの山が淀山城。池の外周を反時計回りに迂回し、登城口を目指す。
雪、というかアラレに近い塊が降ってきた。まだ11月半ばで20℃越えの日もあるので、寒暖差の激しさは年々増しているように思う。
5.登城口
登城口。獣避けのワイヤーを外して出入りするようになっている。
案内板。登城ルートが赤線で引かれている。とても分かりやすい。
「波々伯部氏の居城」と書かれているが、「城郭屋敷」と考えた方がいいのではないかと思う。波々伯部氏は波多野氏の重臣なので、有事には八上城に詰めていた。
1つ目の井戸曲輪。
2つ目の井戸曲輪まで、しばらくは山裾を横移動する。
竪堀。斜面の横移動対策の防衛設備で、敵兵の移動を制限して狙い撃ちしやすくする効果がある。同じ目的で、凹凸を逆にした竪土塁を採用している城もたまに見かけるが、竪堀のほうが圧倒的に多い印象だ。竪土塁より竪堀のほうが築城技術としては容易だからだろう。
ここを右へ登って行くルートがあり最短だったのだが、往路はそれが分からずそのまま真っ直ぐ進んだ。
縄張り図の赤線ルートの通り、2つ目の井戸曲輪の手前を右上に登り、あとは山の斜面をつづら折りに進んでいく。
分岐の矢印看板。右へ進むと、腰曲輪→腰曲輪→横堀→竪堀→堀切と見て回れる。だが、まずは本丸を目指して左へ進む。
分岐の矢印看板2つ目。看板には「腰郭」と書いてあるが、縄張り図を見る限り帯曲輪だろう。帯曲輪を経由して二の丸へ行ける。だが、まずは本丸を目指して左へ進む。
6.本丸
本丸の虎口。
本丸。
淀山城の説明板。淀山城は多紀郡(現・丹波篠山市)の国衆・波々伯部氏の城だ。“ほほかべ”とも“ほうかべ”ともいう。波々伯部氏は鎌倉初期から天正7年(1579)に波多野氏とともに滅びるまでの約400年間、この地を統治した。
運命の分水嶺となったのは、元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の戦いだと言われている。甲斐の武田信玄が、領土拡大を図って三河の徳川領へ侵攻した。このとき畿内にいた織田信長は、武田信玄とも徳川家康とも同盟関係にあったが、「盟友の徳川家康に矛を向けることは信長自身に矛を向けることに等しい」と考え、信玄との同盟を破棄し、家康救援に向かった。
足利義昭と幕府の面々は、三好・本願寺・朝倉といった反織田派の勢力を相手に戦い、織田信長とともに一緒にやってきた。しかし信長が三河へ出陣するとなると畿内は義昭と幕府勢のみとなり、彼らの標的になることは避けられない。このまま親織田派を続けるか、信長と手を切って畿内の反織田派の標的から外れるか、運命の選択を迫られた。
足利義昭の選んだ選択肢は後者。その後の歴史を知る者から見れば「義昭はなんで選択を間違ったかなぁ」と思ってしまうが、信長ひとりが倒れれば終わってしまう“織田派”と、武田・三好・本願寺・朝倉と群雄割拠の“反織田派”のどっちを取る?と聞かれれば、当時に生きていれば後者を選ぶのが自然だろう。結果論として、武田信玄と三好長逸と篠原長房の3人が同時期に死んでしまったため、反織田派は急激に失速してしまう。
とにかく義昭の決定により、足利将軍と幕府を支える丹波の武将である波多野氏や波々伯部氏の立場も“反織田”と決まった。波多野秀治とその重臣・波々伯部光吉たちは、途中で織田信長を裏切ったと言われがちだが、“親足利派の立場を最初から最後まで貫いた”、という見方も出来る。そのほうが腑に落ちるだろう。
本丸からの眺望。
7.二の丸
さきほどの2つ目の分岐を帯曲輪へ入る。
帯曲輪から切岸を下り二の丸へ。
二の丸。
本丸の切岸。
二の丸北側の堀切。
籾井城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 150m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 150m | ||
所要時間 | - / 20分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、堀切、土塁、土橋 |
歴 史 | 丹波の国衆・籾井綱重-綱利の城。波多野氏の重臣で、天正5年(1577年)第二次丹波侵攻の際、明智軍と戦い、落城とともに当主の綱利は命を落とした。綱利の父・綱重は、綱利の子を連れて落ち延び、その後藤堂高虎に仕えたという。 |
駐車場 | 禅昌寺の駐車場 白馬の半左衛門 案内板 – Google マップ |
住 所 | 兵庫県 丹波篠山市 福住274 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年11月18日(土)曇り のち雨 のち晴れ 一時アラレ |
8.籾井城の駐車場
淀山城から約10分で、籾井城のある禅昌寺に到着。駐車場に停めさせていただき、籾井城へ。
禅昌寺の左側の坂の途中に、水路をまたいで左へ入る道がある。
「籾井城跡公園」になっているだけあって歩きやすい。
休憩所。
ここからは急な尾根道を登って行く。
9.堀切・南曲輪群
しばらく進むと、道の左右に堀切らしき凹みを発見。道は平らになっているので、公園化するにあたって歩きやすいよう埋め立てたのだろうか?
段曲輪の左側を通るよう、道が付けられている。これも公園化にともなって整備されたものだろう。
南曲輪群の第二曲輪。
南曲輪群の第一曲輪。
10.主郭部
二の丸の腰曲輪。
二の丸。
本丸。石碑には「籾城公園」と書かれている。“井”を書き忘れたのか、何らかの意図があるのかは分からない。
籾井城は、波多野秀治の重臣・籾井綱利の城だ。二度に渡る丹波侵攻で、織田軍(大将は明智光秀)と戦っている。
1回目は天正3年(1575)11月。織田信長に丹波攻めを命じられた明智光秀は、織田氏に従わない氷上郡の赤井氏を討つべく出陣した。近江坂本から京を経由し、多紀郡の籾井城のそばを通って氷上郡へ兵を進めた。籾井氏の主君・波多野秀治は、織田信長に臣従の意を表していた。
赤井氏の黒井城を包囲し、兵糧攻めの準備を進めていた光秀だったが、翌年1月、織田方に付いていたと思っていた波多野秀治が後巻で現れ、明智軍を攻撃。赤井氏も城から出陣し、挟み撃ちとなった。秀治は最初から赤井氏と手を組んでおり、戦略にはまった光秀は多くの犠牲を出しながらも命からがら近江の坂本へ逃げ帰った。
2回目は天正5年(1577)10月。再び織田信長の命を受けた明智光秀が丹波を侵攻した。多紀郡の入口にある籾井城は真っ先に目標となり、落城し、籾井綱利は自刃。その後波多野秀治の居城・八上城は包囲され、兵糧攻めの末八上城は落城。波多野氏は滅亡した。天正7年(1579)6月のことだった。
11.北曲輪群
続いて北曲輪群へ。
北曲輪群の第一曲輪。ここを頂点として北へ向かって4つの段曲輪が連なっている。
北曲輪群の第四曲輪。段曲輪の一番下で、北曲輪群で一番広い曲輪。
第四曲輪の先の土橋。土橋の左右には堀切があり、その先の曲輪とつながっている。「完全な堀切」と「土橋付きの堀切」の違いは、前者は木橋を渡すことで人の往来は出来るが、馬などの重いものは往来出来ない。しかし攻められたときに木橋を落とすことで敵兵を往来不可に出来る。後者は常に往来出来る状態のままではあるが、馬などの重いものも往来させることが出来る。どちらも一長一短なので、どちらの長所がより必要かで選択するのだろう。
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