【丹後:弓木城】天橋立を臨む一色義定ゆかりの弓木城と宮津八幡山城へ登る

宮津八幡山城から見る天橋立 畿内近国
宮津八幡山城から見る天橋立
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宮津八幡山城

形 態山城址難易度★★---
比 高155m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ65m  /  75m
所要時間10分  /  15分
指 定
遺 構曲輪、土塁、石垣、堀
歴 史丹後守護・一色義道の嫡男、一色義定の城。天正6年(1578年)の織田信長による丹後侵攻の際、義定は居城・八幡山城を捨て、弓木城へ移った。
駐車場猪岡八幡神社の鳥居の横に駐車場あり((有) 中上写真館 宮津店 – Google マップ
住 所京都府 宮津市 宮村1596-1(中上写真館宮津店)の向かい
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年3月19日(日)快晴

1.駐車場~八幡神社

中上写真館宮津店さんの向かいの鳥居が目印。その脇道沿いに駐車場がある。白線が引いてあるが、奥行きがなさ過ぎて車体が道路にはみ出してしまうので、仕方なく道路と平行に停めさせていただく。

猪岡八幡神社の鳥居

八幡山城の説明板。八幡山城と呼ばれる城は全国に少なくとも10基はあるが、八幡神社のある場所に城を建てた場合にそう呼ばれるようだ。この八幡山城も、千年以上前に石清水八幡宮を勧進して建てられた八幡神社のある山に、室町時代になって丹後守護の一色氏が城を増築したもの。

一色いっしき氏のルーツは足利あしかが氏となる。鎌倉時代に、足利泰氏やすうじ(足利尊氏たかうじの高祖父)の庶子・公深こうしんが三河国吉良きら荘一色に移り住み、“一色”を名乗ったのを始まりとする。一色氏は室町時代には三河・若狭・丹後・伊勢の守護を任ぜられ、“三管四職”の四職の1つに数えられた。

八幡神社から上がお城とのことなので、この辺りは自然地形か。

猪岡いのおか八幡神社。八幡山城が造られる500年前からある神社。

2.登城口~西曲輪群

社殿の右側に登城口がある。

登城口から1分ほどで三叉路が出現。『あと450m』と『←八幡山城』の看板があるが・・・、

ここはすでに西曲輪群の腰曲輪だった。

西曲輪群は上下2段の広い曲輪と腰曲輪から成る。ここは看板の立っていた腰曲輪の上にある西第二曲輪

段曲輪群に平行して帯曲輪が続いている。当時からあった地形なのか、後世に造られた通路なのかは分からない。段曲輪に平行して帯曲輪があるということは、敵兵は段曲輪を無視して帯曲輪を進むことが出来る。もし帯曲輪がなければ、段曲輪内の虎口をひとつずつ進む事になる。利点と欠点は表裏一体なものなので、どちらもありそうな気がする。

上段の曲輪、西第一曲輪。その上には中央に大きな土塁がある。当時はこの上に櫓が建っていたという。

土塁の奥の曲輪。補強のために石垣を組んでいたのだろうか?

3.主郭部

主郭第五曲輪

南側の切岸。この上は主郭部第四曲輪。ここから上は、本丸までカスケード状に段曲輪が続いている。

北側の切岸。この下は、左はさっき見た西曲輪群、右は北曲輪群の段曲輪が続いている。

主郭第四曲輪

主郭第三曲輪

主郭第二曲輪

今までとは打って変わり、巨大な壁のような切岸。この上には主郭第一曲輪がある。

主郭第一曲輪。格別に高い切岸の上に備えられた曲輪。

主郭第一曲輪は展望台になっており、天橋立あまのはしだてが良く見える。

4.本丸

残すは本丸のみ。

本丸の石垣。

本丸

宮津八幡山城は一色義定よしさだの城として知られている。義定は丹後守護・一色義道よしみちの嫡男。「義」は将軍足利家の通り字であるため、一色氏はその「義」を使用することを将軍から認められていた足利氏の重臣であることが分かる。

天正6年(1578)に、織田信長による丹後侵攻が始まった。父・一色義道の建部山たけべやま城は、織田軍の大将・細川藤孝ふじたかにより攻め落とされた。自刃する父からその直前に家督を譲られた義定は、この宮津八幡山城では戦えないと判断して城を放棄。すぐに一色家重臣・稲富いなとみ祐直すけなお(26歳)の弓木ゆみきへ移った。宮津八幡山城にはおそらく井戸は無く、籠城には不向きだったのだろう。

本丸の南側は腰曲輪になっている。

弓木城

形 態山城址難易度-----
比 高45m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  20m
所要時間-  /  3分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀
歴 史 丹後一色氏の被官・稲富祐直の城。天正6年(1578年)織田信長による丹後侵攻の際、一色義定は居城・八幡山城を捨て、弓木城へ移った。一色義定と稲富祐直は、細川藤孝-忠興軍と互角に戦い、その後和睦した。
駐車場城山公園駐車場 – Google マップ
住 所京都府 与謝郡与謝野町 岩滝443(与謝野町立岩滝小学校前)
トイレ駐車場にあり
訪問日2023年3月19日(日)快晴

5.駐車場&登城口

宮津八幡山城から車で約20分、弓木城のそばにある城山公園駐車場に車を停める。

道路を挟んで向かいは小学校になっている。カーナビで「弓木城」が出て来なかったので、この与謝野町立岩滝小学校を目的地に設定した。

弓木城の案内板。弓木城は北曲輪群と南曲輪群から成るが、北曲輪群には小学校が建っているため南曲輪群のみ遺構が残る。

南曲輪群の測量図。主郭(本丸)・副郭(二の丸)・出丸から構成されている。

弓木城は稲富いなとみ祐直すけなおの城として知られている。この人物は晩年に徳川家康に仕え、稲富流砲術書を著している。稲富流砲術書とは、火縄銃を使用する際の具体的な心得を書いたもので、人や馬など(なぜかトンボまである)の急所を明記したり、ターゲットが遠くなればなるほど弾丸は重力で下振れするため、距離ごとの狙うポイントを明記したりしてある。

日本の王にならんとする織田信長が丹後攻めを命じた天正6年(1578)には、稲富祐直(26歳)は丹後守護・一色氏の被官だった。祐直は、父の死により一色家当主となった一色義定をこの弓木城へ迎え入れ、織田軍大将の細川藤孝ふじたか(44歳)忠興ただおき(15歳)親子と戦った。

攻防の末、要塞・弓木城は落ちず、織田信長の命により和睦となった。細川藤孝が娘の伊也いや姫(10歳)を一色義定に嫁がせる(人質にする)ことで和睦は成立した。そして義定は織田信長の家臣となり、丹後東部(宮津から東)は細川氏が、丹後西部(丹後半島)は一色氏が支配を認められた。その際、そのまま弓木城が一色氏の居城となった。

一色義定は、天正9年(1581)には信長の京都御馬揃え(権威誇示のための軍事パレード)、天正10年(1582)には織田信忠の甲州攻めにも参加した。しかし織田家家臣として確固たる地位を得たのも束の間、その後の本能寺の変で運命を大きく変えることとなる。

登城口

舗装された階段を登る。この鳥居の右側に“武者隠し”と呼ばれる局所的な土塁があるので見に行く。

武者隠し

階段へ戻る。北側の切岸はほぼ垂直に切り立っている。このキューブのような立体感が弓木城の特徴だ。宮津八幡山城の第一曲輪下の切岸もそうだが、垂直にそそり立つ切岸は、一色氏系城郭のお家芸なのだろう。

弓木城の山頂部(本丸)は比高45mだが、駐車場のある場所がすでに比高25mほどの鞍部なので、そこからは高さ20mくらいか。

階段を登った先にある北腰曲輪。稲荷神社が建っている。

北腰曲輪の南側には高さ7mの切岸がそびえており、その上は本丸になる。本丸へ行くには、帯曲輪を通って中曲輪を経由し、反対側(南側)にある本丸虎口から入る必要がある。

6.帯曲輪~二の丸

本丸下の帯曲輪を通って南へ移動する。帯曲輪というより犬走りか。

中曲輪。本丸と二の丸の間の曲輪だ。奥に見える小高い曲輪が二の丸。

二の丸の北側(向かって左側)にある枡形虎口

二の丸。二の丸は東西に50mほどの長方形の曲輪だ。

二の丸の東端は、10mほどの落差のある腰曲輪になっている。

7.本丸

本丸へ。

本丸

本丸虎口

弓木城の石碑

本丸は南北に70m以上ある細長い曲輪だ。

本丸北端の曲輪は2mほど高くなっており、城主のエリアだったと思われる。今は水無月神社が建っている。

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