【大和:信貴山城】戦国乱世のワイルドカード・木沢長政が築城し、下剋上の寵児・松永久秀が改修した信貴山城へ登る

畿内近国
信貴山城本丸跡の石碑
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信貴山城

形 態山城址難易度-----
比 高340m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  100m
所要時間2分  /  15分
指 定平群町指定史跡
遺 構曲輪、土塁、堀切、門跡、石積
歴 史 戦国中期の武将・木沢長政が築いた城。のちに三好長慶の重臣・松永久秀が居城とし改修した。100を超える曲輪を持つ「大和三大山城」のひとつ。
駐車場松永屋敷跡 – Google マップ
松永屋敷跡登城口の先にある大谷池の奥に駐車スペースあり(3~4台)
住 所奈良県 生駒郡 平群町 信貴畑
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2022年2月5日(土)晴れのち曇り 時々雪

1.信貴山城 登城口(北ルート)

県道250号線を南へ登り、信貴しぎフラワーロードを横断してさらに登っていった林道の先に、信貴山しぎさん城の登城口がある。

車はその先にある大谷池奥のスペースに停める。

登城口まで歩いて戻り、登城開始。

食い違い虎口(?)。この辺りはすでに城の一部だったから、何らかの防衛設備はあっただろう。

2.松永屋敷跡

登城口から5分ほどで信貴山しぎさん城の曲輪のひとつ松永屋敷跡に到着。その名の通り、三好長慶ながよしの重臣・松永久秀ひさひでの屋敷があった場所だ。松永久秀といえば、織田信長に臣従したものの反旗を翻し、この信貴山城で信長が欲しかった茶釜「平蜘蛛」を抱いて爆死したという創作エピソードが有名で、広く知られている。

松永久秀がここ大和国やまとのくにに来たのは永禄2年(1559)51歳の時のことだ。天下人・三好長慶(37歳)は、木沢長政の基盤を引き継ぎ河内・大和に勢力を持っていた安見宗房むねふさ(40歳くらい?)と対立していた。そして宗房に従属する大和の筒井氏(当主は順慶じゅんけい-10歳)を叩くべく、大和侵攻を開始した。総大将には摂津下郡しもごおり郡の守護代格・松永久秀を任命し、配下に長慶の重臣・石成いわなり友通ともみちと松山重治しげはる、摂津国衆の池田勝正と伊丹親興、細川氏綱の被官で長慶の与力・今村慶満よしみつを加えた総勢2万人の軍勢で大和へ入った。三好一門衆を除く長慶直属軍の総力を挙げての侵攻だった。

松永久秀らの攻撃により、筒井氏の本城・筒井城はわずか1日で落城した。大和には、安見宗房と手を組む筒井氏に反発する者が多くおり、久秀に協力したためだという。筒井氏は大和東部にある椿尾上城へ撤退し、久秀は宗房と筒井氏の勢力下にある平群へぐりの町を焼き払った。その後久秀は信貴山城に入り、ここを大和支配の拠点のひとつとした。

屋敷跡出入り口の階段を登ると、左に武者が。刀に手を掛けこちらを牽制している。

屋敷といいながら、曲輪の周囲に切岸を設けた造りは城郭と変わらない。この高さが最大の防御力になっている。

一段下の曲輪。

この曲輪に虎口がある。登ってきた階段は見学者用に新設されたもので、当時の出入り口はここだった。素人目には分からないが、枡形虎口だったとのこと。枡形虎口は近世城郭ではデフォルトだが、中世の永禄年間に造ってのける松永久秀のセンスは凄い。

虎口の下に降りてみた。ちょうど朝日が差し込んできて、虎口が朝焼けに染まる。

虎口の下の大手道。

虎口のある曲輪の北側に、一段高い曲輪がある。

3.立入屋敷跡

松永屋敷の南側にある切岸。この上には松永久秀の家臣・立入たてり勘介かんすけ立入たてり屋敷跡がある。

切岸の西の曲輪を経由して「立入たてり屋敷跡」へ来た。雄嶽(本丸)と松永屋敷を連絡する重要な曲輪だ。

立入屋敷跡の上にある二の丸(?)。雲間から見える朝日が気持ちいい。朝日に照らされた大和川も映える。

下剋上といえば、従来は伊勢宗瑞そうずい(北条早雲)や尼子あまご経久つねひさが挙げられていた。しかし宗瑞は幕府下命による伊豆侵攻であるし、経久はお家騒動の京極氏から出雲統治を任され、その後幕府から正式に出雲守護に補任されており下剋上の要素はない。戦国期の下剋上をもっとも体現しているのは松永久秀ではなかろうか?

摂津国五百住よすみ(大阪府高槻市)在住の下級豪族である久秀は、阿波からやってきて摂津守護代に補任した三好長慶に登用された。そして新参者ばかりの長慶家臣団の中で頭角を現わし、長慶の庇護のもと下郡しものこおり一職(摂津守護代格)から大和の支配者となり、朝廷から藤原姓(のちに源姓も)を賜り従四位下じゅしいのげに叙せられる。中世の身分秩序からは考えられないくらいの久秀の立身出世は、天下人・豊臣秀吉に次ぐものだ。

家臣が主君を倒して権力を手に入れるのはいつの時代でも起きていることで日常茶飯事といえる。下位の者が身分秩序を覆して上位の者のさらに上に立つことこそ真の下剋上であり、松永久秀こそ下剋上の寵児といえるだろう。

4.本丸・雄嶽

雄嶽おだけ(本丸)には、朝護孫子寺ちょうごそんしじの空鉢堂が建っている。開基は聖徳太子で、毘沙門天を本尊とし「信ずべきたっとぶべき山」という意味を込めて「信貴山しぎさん」と命名したという。信貴山城に入城した松永久秀は同年に大和北部にも城を築いたが、朝護孫子寺の毘沙門天にあやかってその城の名を毘沙門天の別名・多聞天から「多聞山城」と名付けた。毘沙門天(多聞天)は、四天王グループとして居るときは「多聞天」、単独ソロのときは「毘沙門天」と呼ばれる。

雄嶽(本丸)に建つ信貴山城の石碑

朝護孫子寺のある信貴山に初めて城が築かれたのは、松永久秀が入城する23年前の天文5年(1536)のこと。築城主は飯盛城を居城とする木沢長政だ。肖像画が残っていないため有名になれないそうだが、戦国時代を代表する武将のひとりなのは間違いないところだろう。

木沢氏は義就流畠山氏の譜代の被官だったが、享禄3年(1530)長政(37歳)の代で畠山氏を出奔。細川高国の被官となり、すぐ細川晴元の被官となった。その後飯盛城に攻めて来た元主君・畠山義堯よしたかと戦い、壊滅的ダメージを負わせて滅ぼした。

木沢長政は高い外交能力を持っており、敵対する勢力を懐柔して味方に引き込むのがとてもうまかったという。細川京兆家を継いだ晴元の被官を続けながらも、畠山義堯の弟・在氏ありうじを義就流畠山氏の当主に据え、自らはその被官に収まった。そうすることで、北河内と大和の支配を正当な「畠山氏」の家臣として行った。

生駒山の西側(北河内側)の飯盛城を本拠地とする長政は、東側(大和側)の信貴山にも城を築いた。信貴山を選んだのは、朝護孫子寺があったからだろう。飯盛城を築いたときもそうだったように、大和でも地域の信仰を集める山に居城を築いた。そして幕府(細川晴元)のお墨付きを得ると自らを「大和の守護」と名乗り、大和・北河内・南山城を支配していった。

細川氏と畠山氏に両属し、摂津の本願寺や大和の興福寺とも仲良くやっていた長政であったが、その最期は意外なものだった。

天文10年(1541)8月、細川晴元は高国派である摂津国衆・塩川氏を攻めた。塩川氏から援軍要請を受けた長政は、塩川方の援軍として主君である晴元軍と対峙。塩川攻めの中止を訴えて幕府へ書状を出した。しかし晴元による塩川攻めは止まることなく、長政は晴元からの離反を決断した。時の最大権力者である細川晴元を敵に回した長政は、晴元の根回しにより本願寺や興福寺からの軍事協力を得られなくなった。次第に味方が減っていき、翌年3月、政長流畠山氏の家臣・遊佐長教や細川晴元の家臣・三好長慶と三好政長に攻められ、河内の太平寺で自刃した。享年49歳。

太平寺で討ち取られた長政方は総勢96名。その中には政長流畠山氏の元当主・畠山晴満や若狭武田氏の元家臣・粟屋右京亮がいた。畠山晴光は家督争いで敗れ、右京亮は主君と対立し、それぞれ長政を頼って来ていた。長政は彼らを匿うことで、政長流畠山氏や若狭武田氏を敵に回していた。自分を頼ってくる者を決して見捨てない性格がどんどん敵を増やし、ついには四面楚歌となったのだ。

主君を倒して権力を手に入れた梟雄のイメージが強い木沢長政だが、その最期は自分のポリシーを貫く男気のある生き様だった。

5.出丸・雌嶽

雄嶽(本丸)から南へ少し降ったところに、雌嶽めだけ(出丸)がある。

雌嶽(出丸)は、南北に細長い曲輪になっている。

雌嶽(出丸)から雄嶽(本丸)の空鉢堂が見えた。

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