目次
春日山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 170m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 110m | ||
所要時間 | - / 30~40分 |
指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀、井戸 |
歴 史 | 永正4年(1507)頃、越後守護代・長尾為景により築城された。その後、為景-晴景-輝虎(謙信)-景勝と4代の居城となる。 天文18年(1549)病弱な兄・晴景に代わり、輝虎が19歳で長尾家を継いだ。永禄4年(1561)上杉憲政より関東管領の職と山内上杉氏の名跡を継ぎ、その後出家して「謙信」と名乗った。 謙信の死後、2人の養子(景勝と景虎)が家督を争い、上杉氏を二分する「御館の乱」が起きた。 |
駐車場 | 駐車場(春日山) – Google マップ |
住 所 | 新潟県 上越市 中屋敷1743 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2024年5月25日(土)曇りのち晴れ |
1.御館(おたて)

広くて何も無い公園だが、ここは関東管領の上杉憲政が住んでいた居館「御館」のあった場所になる。元々長尾氏の統治していた府中の政庁があり、天文21年(1552)北条氏康に敗れ関東を追われた憲政が上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼って越後に来た際に、ここが提供された。
御館というと最も有名なエピソードに「御館の乱」がある。上杉謙信亡き後、上杉家の家督を掛けて謙信の2人の養子たち(景虎と景勝)が争った戦だ。負けた方の上杉景虎が御館に入っていたので、“乱”を付けて御館の乱と呼ばれる。もし上杉景勝が負けていれば、「春日山の乱」と呼ばれていたことだろう。
個人的に御館の乱は戦国史上で最も興味深い戦のひとつなので詳細は後述する。(鮫ヶ尾城のセクションにて)

上杉憲政の顕彰碑と御館の説明板。これを見ると現在公園になっているエリアは御館のごく一部で、海水を取り込んだ水掘を周囲に張り巡らせた広大な平城だったことが分かる。
2.春日山神社

大手道から続く舗装路を車で登り、春日山の中腹の駐車場に停めた。

春日山城の案内図。本丸までのルートは主に2つ。北側(図の右側)から登るルートと、東側(図の中央)から登るルート。戦国時代の大手道は北側ルートになるが、上杉謙信像の付近から春日山城の全体を見られる東側(中央)から登ることにした。

駐車場のすぐ上にある春日山神社は、奈良の春日大社から勧請したものだ。

上杉謙信の像。頭巾姿なので、出家していた頃(40~48歳)をイメージしているのだろう。上杉謙信の初名は長尾景虎で、天文17年(1548)18歳の時に兄・長尾晴景の跡を継ぎ、越後守護代だった越後長尾氏の当主となった。その後、断絶した越後守護・上杉氏に代わり越後統治を幕府から任された。
天文21年(1552)、北条氏康に敗れた山内上杉憲政が謙信を頼って越後へやってくると、将軍・足利義輝から「憲政を助けるように」との通達もあり、関東へ出兵し氏康と戦うようになる。それから9年後、憲政から関東管領と山内上杉氏の家督を継いで「上杉政虎」と名乗る。さらに8ヶ月後には義輝の偏諱を賜り「輝虎」と改名した。
永禄13年(1570)、長らく敵対していた北条氏康と同盟を結び、氏康の子・北条三郎を上杉家の養嗣子として迎え入れた。その際に出家し、戒名を「不識庵謙信」とした。“不識”は「物事の本質は表面的な知識では識り得ないものであり、厳しい修行によって体得できる。」という意味から付けられたという。
3.三の丸・二の丸

春日山城の東側エリア。頂上に本丸がある。

看板に手書きで「三の丸入口」とある。ここから登っていく。

少し登ったところで振り返ると、遠くに先ほどの上杉謙信像が見えた。
現在地のすぐ下の曲輪(写真左下)には「甘粕近江守宅阯」という石碑が建っている。上杉四天王のひとり甘粕景持の住居跡ということだろう。しかしこの手の表示物は、何の根拠もなく書かれた江戸時代の絵図などが出典だったりするので、鵜呑みにするのは危うい。

先へ進む。この上は三の丸。

「三ノ丸阯」の石碑と案内板。三の丸には「米蔵阯」と「上杉三郎宅阯」の石碑も建っている。

上杉三郎の屋敷跡。「三郎」とは上杉謙信の養子となった上杉景虎のこと。三郎の父は関東の覇者・北条氏康で、永禄13年(1570)に越相同盟の証人(人質)兼上杉家の養嗣子として越後に来た。

三の丸には米倉もあった。同じ曲輪に上杉氏の次期当主の屋敷があるというのはとても違和感がある。「関八州古戦録」では、三郎の屋敷は二の丸にあったという。近年の研究では、景虎屋敷は春日山城内ではなく春日の町にあった可能性が指摘されている。

青苧の群生地。青苧はカラムシとも呼ばれ、茎の皮から取れる繊維は麻のように丈夫で、衣類・紙・漁網などに使用されている。上杉氏の財政を支えた資源だった。

二の丸。

二の丸には2つの井戸があり、台所として使用されていたという。
4.御成街道~本丸

関白・近衛前久が通ったことから御成街道と呼ばれる道。前久は上杉謙信(当時は長尾景虎)が上洛した際に親交を通じ、永禄3年(1560)に謙信を頼って越後に来ると、関白在任中にも関わらずここに3年間滞在した。前久は平安時代の藤原道長の直系の子孫にあたり、一条氏や九条氏を庶流として持つ公家のトップオブトップだ。

柿崎屋敷跡。柿崎景家は上杉四天王のひとりとして知られている。上杉四天王とは、宇佐美定満・直江景綱・柿崎景家・甘粕景持の4人を指す名称だが、年齢がばらばらで活躍時期の異なる4人を、誰が何の目的で選んだのかは分らない。
永禄3年(1560)の第四次川中島の戦いでは、柿崎景家は武田信玄本隊を強襲し、副将・武田信繁(信玄の長弟)や、武田氏屈指の外交官兼軍師・山本勘助を討ち取り、武田軍を壊滅寸前まで追い込む大功を挙げた。

本丸のすぐ下にある井戸曲輪。

南北に横並びに配置された2つの曲輪からなる本丸のうち、南側にある天守曲輪。

上杉謙信に子は無く、2人の養子(厳密には4人だがあと2人は猶子)がいた。そのため近現代では、謙信は生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたとも、謙信は女性だったのではないかとも言われている。しかし実際には妻はいたようだ。兄・晴景の娘を妻にしていた説が有力とされる。
謙信は元々僧籍にいたが、越後長尾氏の当主で兄・晴景の要請を受け還俗し、家臣となった。そして病弱だった晴景(39歳)は嫡子(猿千代)が成人するまで持たないことを危惧し、天文17年(1548)に謙信(18歳-当時は景虎)を名代として家督継承した。しかしそれから数年のうちに猿千代は夭折してしまう。晴景にはあとは娘しかいなかった。錯乱したのか何を考えていたのかは分らないが、晴景は娘のひとりと謙信の婚姻を命じた。
謙信は主君・晴景の娘(謙信の姪)を妻として受け入れたが、子は成さなかった。また晴景死去後も側室は持たなかった。謙信が“義の武将”と呼ばれる根幹はここにあると思う。

天正7年(1579)3月、上杉謙信が急逝した。通説では、謙信は後継者を誰にするか決めていなかったため、2人の養子・景勝(23歳)と景虎(25歳)がそれぞれ継承権を主張し争ったとされる。そして景勝が勝利し、景虎は討たれた。これが御館の乱である。しかし戦国時代に越後一国を治める上杉家の当主が48歳で亡くなるまで後継者を決めていなかったなど到底考えにくく、決めていたが後世にその証拠が残っていないから分らないのではなかろうか?
謙信が後継者として指名したのは景勝か景虎か。歴史研究者の間では、景虎が有力とされている。
永禄13年(1570)北条・武田・今川の三国同盟(甲相駿同盟)が武田信玄の駿河侵攻により破綻すると、北条氏康は信玄と敵対していた謙信と同盟(越相同盟)を結んだ。すると同盟に際して謙信は氏康に養子を要求した。通常は同盟の証人(人質)として当主の幼子になるのだが、謙信は自分の後継者かつ北条上杉の外交官としての成人した養嗣子を求めた。そうして越後に来たのが氏康の六男・北条三郎(16歳)だった。
北条三郎はすぐ謙信の姪(清円院-13~15歳)と婚礼を挙げ、謙信の初名である“景虎”を貰い、上杉景虎と名乗った。しかし翌年氏康が亡くなると、当主の北条氏政(氏康の次男)は武田信玄との甲相同盟を復活させた。北条家の当主は12年前から氏政だったが、大御所・氏康が実質的に主導していた。氏康がいなくなったことで、氏政主体の政治に舵が切られたのだった。氏政は越相同盟を維持したまま甲相同盟を復活させたかったのだが、謙信にとって宿敵である武田信玄と同盟を結ぶことは背徳行為でしかなく、謙信は北条との同盟を破棄した。
それから4年後の天正3年(1575)、謙信は上田長尾氏の当主で仙桃院(謙信の姉)の子・長尾顕景(19歳)を新たに養子とし、上杉景勝と名乗らせた。景虎はこの時21歳。北条との同盟は無くなったが養子は解消されることなく、上杉の姓も景虎の名も取り上げられてはいなかった。しかし再び敵対した北条のいる関東へ攻め入るに際し氏政の弟である景虎が大将では都合が悪く、景勝に上杉軍を率いさせるため、新たに養子としたようだ。
その頃に書かれた「軍役帳」に景勝の名があるという。景勝は“御中城様”と呼ばれ、一門衆筆頭の地位にいた。そして景虎の名は書かれていない。軍役帳は家臣に軍役を科すためのものであり、これこそが景勝は「家臣」、景虎は「主君」である証拠だと言われている。また景勝が謙信の養子となるに際し、上杉の姓と越後国主の証し「弾正少弼」の官途を譲られたとされる。しかしその書状がのちに景勝が上杉家の当主となった後の書状と筆跡が一致することから、景勝が全てを手に入れたあとにねつ造された偽文書の可能性が指摘されている。つまり景勝は謙信の養子となった時、長尾顕景から長尾景勝になっただけで、上杉の姓も弾正少弼の官途も譲られていなかった。
通説による御館の乱は次のような顛末だった。
謙信の葬儀が執り行われた9日後、景勝は春日山城の本丸に入った。そして二の丸(もしくは三の丸)にいた景虎を攻撃し、武力で追い出した。2ヶ月後、景虎は上杉憲政の居城・御館に入る。御館には、憲政のほか神余親綱、本庄秀綱といった重臣達がいた。そして堀江宗親、琵琶島弥七郎、桃井義孝など総勢5000を越える兵力が集まった。東北の諸将、北条氏政、武田勝頼を巻き込んでの10ヶ月におよぶ内乱は、御館の敗勢で収束した。上杉憲政は最後の一手として景虎の子・道満丸を連れて春日山城へ向かったが、道中で景勝の手の者により道満丸ともども殺害されてしまう。景虎は妻・清円院を連れて御館を脱出し、堀江宗親の手引きで一旦鮫ヶ尾城へ入る。兄・北条氏政のいる関東へ逃げる算段であったが、景勝の追撃は厳しく、景虎は鮫ヶ尾城にて自刃した。
5.北側遺構

ここからは降りになる。毘沙門堂や千貫門跡のある北側遺構を見学しながら駐車場へ向かう。

諏訪堂跡(手前)と護摩堂跡(奥)。奥の石碑には「毘沙門堂」と書かれているが間違い。

その下の曲輪にある小さい建屋が毘沙門堂(復元)。当時は「多聞堂」と呼ばれていた。毘沙門天も多聞天も同じ神を指す。四天王の一人である多聞天は、グループでいるときは多聞天だが、ソロのときは毘沙門天と呼ばれる。

石碑には「直江山城守宅阯」と書かれている。謙信の重臣で上杉四天王のひとり直江景綱の屋敷跡だ。景勝の代に断絶しかかり、近衆だった樋口兼続が跡を継いで直江兼続と名乗った。兼続は「愛」の兜で知られ、真偽はともかく関ヶ原の戦いの前の、徳川家康に送った直江状はあまりにも有名。

千貫門跡。大手道を守る要の門。

千貫門の先にある細い道。土塁か堀切か、一見通路として使用されていそうな雰囲気があるが、この先は深い切岸になっており、落ちたら無事では済まない。
6.上越市埋蔵文化財センター

上越市埋蔵文化財センター。「謙信公と春日山城展」をやっていた。

たまたま居らした上杉謙信公と記念撮影。

見応えのある展示物がずらり。
昼食:ヨーデル金谷

昼食は洋食レストラン「ヨーデル金谷」で、ビフカツのカレーソースがけ。
鮫ヶ尾城
形 態 | 山城 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 110m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 40m / 70m | ||
所要時間 | 13分 / 13分 |
指 定 | 国指定史跡、続日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、土塁、虎口、堀切、切岸、井戸 |
歴 史 | 上杉氏の家臣・堀江宗親の城。天正7年(1579)の御館の乱では上杉景虎・上杉憲政側に付いた。御館落城後に景虎を鮫ヶ尾城に匿ったが、北条氏のいる関東へ逃がす算段が間に合わず景勝軍に包囲され落城。景虎とともに命を落とした。 |
駐車場 | 鮫ヶ尾城址 駐車場 – Google マップ |
住 所 | 新潟県 妙高市 宮内241 |
トイレ | 斐太歴史の里 総合案内所 |
訪問日 | 2024年5月25日(土)晴れ |
7.駐車場~

鮫ヶ尾城址駐車場。乗用車20台とバスが停められる。山城の駐車場としてはとても広い。

宮内池の東側を渡る。

非太遺跡群を通る。
8.東曲輪群

大堀切。この辺りから鮫ヶ尾城の城域のようだ。

尾根筋を分断するように堀切が設けられている。

東曲輪群の主郭・東一ノ丸。
9.主郭部

この大堀切の先にある北曲輪群が主郭部となる。堀切の底を左へ行けば三の丸、堀切を渡ってすぐ左へ行けば二の丸がある。

大堀切を渡ると本丸下帯曲輪がある。このまま真っ直ぐ行っても堀切により袋小路になっている。当時は無かったはずだが今はすぐ左手の切岸に階段が設けられているので、そこから登る。
①本丸

本丸下段。

本丸上段。

歴史研究家の乃至政彦氏によると、謙信が後継者として指名したのは景勝でも景虎でもなく、景虎の嫡子・道満丸だという。景虎を養子とした時には間違いなく景虎が後継者になる予定だったが、越相同盟がまさかの解消。北条氏と戦うこととなり、北条出身の景虎が当主では都合が悪くなった。しかし経緯はともかく破棄したのは上杉のほうなので、義を重んじる謙信は景虎を次期当主の座から降ろすことが出来なかった。苦肉の策として思いついたのが、景虎の子・道満丸を次期当主とし、家臣筆頭の長尾景勝を名代とすることだった。
謙信亡き後、葬儀は景虎と景勝で執り行った。そして景勝は名代として春日山城入りした。景勝から見て景虎は主君筋であり、その子・道満丸が成人するまで上杉家を預かるのが自分の使命。景虎から見て景勝は上杉家の名代であり、道満丸が成人するまで上杉家を任せる人物。2人の間に争いが起きるはずはなかった。
事の発端は景勝の政治方針だ。謙信の頃は、上杉氏と家臣や国衆たちは緩い連携でつながっており、戦の際には彼らに協力を請うというものだった。しかし6年前に織田信長が足利義昭を京から追放して以来、織田氏は足利将軍に代わる日本の王として配下の戦国大名たちに命令を下していた。そして独裁的な手法により急激なスピードで領土を拡大していた。景勝がその脅威に対抗するために謙信式から信長式へ方針転換するのは必然だった。
緩い連携の主従関係から独裁的な主従関係にシフトしようとする景勝に対し、家臣たちは大いに反発して景勝の元を離れ、御館の上杉憲政を頼った。しかし憲政は今や何者でもない身。名代である景勝に対抗出来る旗頭として、次期当主・道満丸の父である景虎を擁立した。景勝が春日山城入りしてから景虎が御館入りするまでに2ヶ月の空白期間があるが、この説だと腑に落ちる。

景勝の兵力は4,000、景虎の兵力は6,000と言われている。しかし上田長尾氏を統率し戦場を転戦していた景勝に対し、景虎は戦の経験が無かった。実質的な大将である憲政も、最後の戦場から27年の歳月が過ぎていた。景虎方の兵は武将たちが自分の利益だけ考えて個々に戦うのみで、全体を統率する者はいない。冬季に入ると頼みの北条は兵站の関係で一時帰国し、景虎方であるはずの武田勝頼も、景勝と景虎の間で駆け引きを行い一緒に戦ってはくれなかった。
10ヶ月におよぶ戦の結果、御館は敗勢となった。憲政は最後の一手として道満丸を人質として差し出し、自分や景虎の助命を請おうとした。しかしすでにそんな交渉の余地のある段階ではなくなっていた。道中、憲政と道満丸は景勝の手の者により殺害された。
御館を捨てた景虎は妻(清円院)とともに、堀江宗親の手引きで鮫ヶ尾城に入った。ここから関東の北条領へ逃げようとしたのだが、景勝方の追っ手は早く、鮫ヶ尾城はたちまち取り囲まれた。景勝は姉(妹)である清円院だけは助けようとしたようだが、彼女は景虎から離れることを拒んだという。
鮫ヶ尾城は焼け落ち、景虎は妻とともに自刃した。堀江宗親は景虎を裏切ったとの説もあるが、その後の歴史に一切名前が出て来ないことから、景虎と運命を共にしたと考えるのが自然なようだ。

大堀切とその奥にある米倉跡。今でも土の中から焼けた米が出土するという。御館の乱により落城した際の戦火によるものだ。
②二の丸

先ほどの帯曲輪を左へ入ると、

二の丸がある。

帯曲輪から切岸の階段を登って本丸へ登る道は当時は無く、二の丸の中にある通路を通って本丸へ入っていたようだ。今は藪に埋もれて何も見えない。
③三の丸

大堀切を左へ進むと三の丸がある。春日山城は堀切の先に切岸があったが、上杉の城はトリッキーな縄張りが印象的だ。

三の丸の下にある井戸跡。

ここは虎口曲輪と呼ばれている。枡形虎口のように、入口と出口に門があったのだろう。上方の曲輪から弓矢で狙えば、効率的に敵兵を倒せそうだ。
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