【甲斐:要害山城&躑躅ヶ崎館】武田三代の居館・躑躅ヶ崎館跡と、詰城・要害山城へ登る

甲信越
躑躅ヶ崎から見る武田氏館跡の虎口と馬出跡
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要害山城

形 態山城址難易度★★★--
比 高260m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ- / 210m
所要時間- / 40分
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、土塁、堀切、切岸、横堀、土橋、竪堀、井戸
歴 史永正15年(1518)年、武田信虎は祖父の代からの居館・川田館から躑躅ヶ崎へ拠点を移し、翌年に躑躅ヶ崎館を、翌々年にこの要害山に詰城を完成させた。平時には信虎は躑躅ヶ崎館におり、要害山城は家臣の駒井氏を城番とした。
駐車場要害山登山口 駐車場 – Google マップ
住 所山梨県 甲府市 上積翠寺町
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2025年12月29日(月)晴れ

1.大手道

要害山登山口駐車場に車を停める。案内板が何もないのと傾斜地なのとで分かりづらいが、グーグルマップにも駐車場としてしっかり載っている。その後ろの山が、甲斐武田氏の詰城のある要害山ようがいさんだ。

永正15年(1518)年に甲斐守護・武田信虎のぶとら(20歳-当時は信直)は、祖父の代からの川田館から躑躅ヶ崎つつじがさきへ拠点を移し、翌々年にはこの丸山に詰城を完成させた。要害山は築城後の呼称だろう。味方にとっては“重要”で、敵にとっては“害悪”となる場所を「要害」という。

武田信虎の生まれた明応7年(1498)の甲斐国は、戦国時代真っ只中だった。しかも武田氏当主・武田信縄のぶつな(27歳-信虎の父)と前当主・武田信昌のぶまさ(51歳-信虎の祖父)が、親子で敵味方に分かれて戦うというお家騒動に陥っていた。事の発端は伊豆の堀越ほりこし公方くぼう足利氏の内乱に起因している。父・信縄はクーデターを起こした足利茶々丸を支援し、祖父・信昌と叔父・油川あぶらかわ信恵のぶよし(信縄の弟)は幕府方を支援した。茶々丸のクーデターに関しては【伊豆:韮山城】🔎で詳しく書いている。

この年に茶々丸は幕府方の大将・伊勢宗瑞そうずいに討たれ堀越公方は滅亡したが、武田氏の内乱は続いた。その後、信虎7歳のときに祖父が、9歳のときに父が亡くなったが、それぞれを叔父(信恵)と信虎が継ぎ、内乱が終わることはなかった。しかし幼少の信虎が率先して軍事を執り仕切るなどとは考えにくく、重臣たちの対立に武田氏が利用されていたと考えるのが自然だろう。そうすると茶々丸のクーデターも、幕府のやり方に反発した堀越公方の家臣たちが、幼い茶々丸を旗頭にして起こしたものと考える事が出来る。

翌永正5年(1508)に信虎方が油川信恵のぶよしとその子息を討つと、信恵方の重臣・小山田弥太郎との抗争へとシフトした。年末には弥太郎を討ち、武田氏の内乱はようやく終わりを迎えた。

永正12年(1515)になると、武田氏庶流の大井信達のぶさととの抗争が始まる。信達が駿河の今川氏親に救援を求めたことで武田vs今川の戦となった。翌々年に信虎は、大井氏・今川氏と和睦した。和睦の施策として、信達の娘(大井の方-瑞雲院殿ずいうんいんでん)が信虎(19歳-当時は信直)の正室として嫁いだ。

翌永正15年(1518)、信虎は祖父の代からの居館・川田館からから甲府の躑躅ヶ崎へ拠点を移した。川田は笛吹川に近く、水害に悩まされていたからだという。翌年には躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたが、翌々年には要害山ようがいさんが完成した。それらの建設中に、有力国衆の栗原・大井・今井の三氏が、国衆の統制を強めようとする信虎に反発し、甲府を退去してそれぞれの所領へ戻る事態が発生した。すぐさま信虎は討伐軍を派遣し、三氏をたちまち降伏させた。この頃の武田氏の力は、その他の国衆達とは一線を画すほどになっていた。

要害山城とその出丸・熊城の縄張図。高さ10m毎の等高線が城の北側南側(縄張図-左右)で詰まっており、急峻な崖となっているのが分かる。比較的緩やかな西側(縄張図-下)はいくつもの段曲輪で防御し、東側(縄張図-上)の尾根は6本もの堀切で遮断している。

登山口から大手道を登って行く。

城域までは、8曲がりほどのつづら折りを登る。

大手道にある巨石と石階段。動線を限定することは、城の防御には欠かせない。

2.西曲輪群

最初の門跡。写真の右下に縄張図を併載し、城のどの辺りの遺構かが分かるようにした。この縄張図は城郭放浪記様からの引用で、許可を得て掲載させていただく。

門跡を通るといくつかの段曲輪がある。

門跡曲輪の上の曲輪を南へ進んだ先にある不動曲輪。曲輪の中央には、不動明王をモチーフにし武田信玄に見立てた武田不動尊が建っている。江戸後期に建てられたという。

北へ横移動すると、井戸曲輪がある。

①三の丸

要害山城で最も堅固な門跡。このあと本丸まで12~13段の段曲輪が続くのだが、大規模な虎口が3つあるため3つのエリアに分けられそうなので、ここを三の丸と仮称する。

門跡の内側は枡形虎口になっている。

内側から見た枡形虎口。

要害山城で3番目に広い曲輪。

②二の丸

この先の虎口も枡形虎口になっている。

要害山城で2番目に広い曲輪。

段曲輪毎に動線を右へ左へと誘い、おのおの土塁付きの虎口が設けられている。

3.本丸

本丸下の曲輪の虎口。ここから本丸まで3~4の段曲輪があるがいずれも小さく、入れる人数は制限されるため、攻め手を少数にして各個撃破出来る。

正面にあるのが本丸切岸だ。動線は右へ回り込んで本丸虎口へ連絡している。

本丸大手虎口。

本丸

永正18年(1521)信虎23歳のとき、朝廷・幕府から従五位下じゅごいのげ左京大夫さきょうのだいふの任官を受けた。これは信虎が甲斐一国の国持大名として認められたことを意味している。これを期に、それまで名乗っていた信直から信虎に改名した。

そして甲斐の国衆でありながら駿河の今川氏親うじちかに従属している穴山信風のぶかぜを、武田配下に戻した。具体的には、人質として駿府にいた穴山一族の穴山八郎を帰国させている。信虎だけでそんなことが出来るはずはないので、室町幕府に働きかけ、将軍・足利義稙よしたねの上意により取られた措置だろう。

その後、その裁定を不服とした今川氏親は甲斐へ攻め込んだ。今川軍に山梨郡河内や巨摩郡富田を攻め落とされ、甲府も危なくなった。信虎は身重の妻・大井の方を要害山城へ避難させると、自らは軍を率いて飯田河原で氏親を迎え討った。

武田信玄公誕生之地の石碑

要害山城へ避難した大井の方は、嫡男・勝千代をここで産んだ。その後、勝千代は元服し武田晴信はるのぶと名乗り、出家し徳栄軒とくえいけん信玄しんげんと号した。“戦国最強の騎馬軍団”のフレーズで有名な武田信玄は、令和の現在も戦国史好きな人々を魅了している。

南に見える富士山

甲斐をほぼ手中に治めた武田信虎は、国外への軍事行動を始める。大永4年(1524)信虎(26歳)は、関東で北条氏綱うじつなと戦う扇谷おうぎがやつ上杉朝興ともおきを支援するため、武蔵へ出兵した。大永7年~8年(1527~1528)にかけては信濃へ出兵している。享禄3年(1530)には再び武蔵へ出兵した。

享禄4年(1531)には甲斐国内で反乱が起きた。飯富おぶ・栗原・今井の三氏が反旗を翻し、信濃の諏訪氏が三氏の援軍に加わったものの、信虎はこれをことごとく鎮圧した。甲斐の古代から中世までの歴史をまとめた『勝山記』によると、これにより信虎は甲斐を統一したとしている。これ以降から織田信長による甲斐侵攻まで、国外勢力が甲斐へ乱入することはなかった。

天文4年(1535)には、信虎は駿河へ侵攻し今川氏と戦った。その後花倉の乱を経て今川氏とは同盟を結び、北条氏とは戦い続け、信濃の勢力とも戦った。

天文10年(1541)春、信虎は43歳になっていた。この年、前年の台風のせいで100年に一度レベルの大飢饉が起きた。しかし信虎は前年にも出兵した信濃への軍事行動を決行した。海野うんの棟綱むねつなを当主とする滋野しげの一族を標的とした海野平うんのだいらの戦いである。この勝ちいくさが信虎最後のいくさとなった。翌月、少数の側近とともに駿府へ出かけた信虎は、帰路で国境を封鎖されて甲斐へ帰国出来なくなった。甲斐国内では武田の重臣たちにより嫡子・晴信の家督相続の儀式が行われており、信虎は甲斐から追放されたのだった。

信虎追放の要因は、信虎は好戦的で四方に敵を作り過ぎており、大飢饉を機に他国から経済封鎖を受けたことによる民衆の不満を解消するためのものとされる。当主を代えることで他国との関係を改善させ、この飢饉を乗り切ろうという意図だった。強引な追放劇の背景には、過去にあった信虎の父と祖父による骨肉の争いを繰り返したくないという家臣たちの強い意思が窺えるだろう。その後武田信虎が甲斐の地を踏むことは生涯なかった。

4.東側遺構

本丸の東側にある搦手虎口から東側遺構を見に行く。

虎口の外は1段下がってすぐ堀切があり、その先に小さめの曲輪が設けられている。

小曲輪の枡形虎口。

虎口の先はさらに下がった場所に堀切土橋。動線は常に右へ左へと曲げられている。

土塁で囲われた門跡。大規模な堀切で分断された尾根曲輪で、このようにしっかりした門跡は珍しいのではなかろうか。

その先も尾根道は続く。

躑躅ヶ崎館   (武田氏館跡)

指 定国指定史跡
遺 構曲輪、石垣、土塁、水堀、空堀、土橋、虎口、井戸、馬出
歴 史永正15年(1518)年、武田信虎は祖父の代からの居館・川田館から躑躅ヶ崎へ拠点を移し、翌年に躑躅ヶ崎の麓に居館を、翌々年に要害山城を完成させた。平時には信虎は躑躅ヶ崎館におり、要害山城は家臣の駒井氏を城番とした。
駐車場武田神社第1駐車場 – Google マップ
住 所山梨県 甲府市 古府中町2611
トイレ武田神社や資料館にあり
訪問日2025年12月29日(月)晴れ

5.躑躅ヶ崎館

甲府北部の扇状地にある武田神社は、大正8年(1919)に武田信玄を祀るために創建された。戦国時代には、武田氏の居館である躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたが建っていた。当時の大手門は敷地の東側(向かって右側)にあり、こちら側(南側)は全面水堀だった。

信玄ミュージアムの駐車場にある「武田二十四将屋敷跡」の配置図。武田二十四将とは、武田氏家臣である次の24名を指す。

山本勘助かんすけ、真田信綱のぶつな、土屋昌次まさつぐ小山田おやまだ信茂のぶしげ、武田信廉のぶかど、横田高松たかとし、原昌胤まさたね、内藤昌豊、板垣信方のぶかた三枝さいぐさ守友、多田満頼みつより、穴山信君のぶただ、高坂昌信、馬場信春のぶはる、真田幸隆、甘利あまり虎泰とらやす山県やまがた昌景まさかげ小畠おばた虎盛とらもり小幡おばた昌盛まさもり、武田信繁のぶしげ、秋山信友、飯富おぶ虎昌とらまさ、一条信竜のぶたつ、原虎胤とらたね

一門衆、譜代家臣、他国衆と選出対象は幅広く、親子や兄弟で選ばれている者もいたりと年代も広く選出されている24将は、武田氏家臣団を代表する人物たちだ。しかし一門衆なら木曽きそ義昌よしまさ仁科にしな盛信もりのぶが、譜代家臣なら栗原信重のぶしげ小山田おやまだ虎満とらみつ・駒井昌直まさなお跡部あとべ勝資かつすけ跡部あとべ勝忠かつただなどが選ばれていてもよいところだが、これは選者の好みなのだろう。それと令和の現在には、何名かの氏名に訂正が入っている。

土屋昌次⇒土屋昌続まさつぐ、内藤昌豊⇒内藤昌秀まさひで、三枝守友⇒三枝さいぐさ昌貞まささだ、高坂昌信⇒春日かすが虎綱とらつな、真田幸隆⇒真田幸綱ゆきつな、秋山信友⇒秋山虎繁とらしげ。真田幸隆の「幸隆」は法名なので、「ゆきたか」ではなく「コウリュウ」と読むなら正解だ。

武田神社には入らず、先に水堀を時計回りに散策する。小山になっているのは土塁で、その内側には西曲輪がある。信虎-信玄は主郭部(武田神社のある曲輪)に住んでいたが、天文20年(1551)に信玄の嫡男・武田義信よしのぶの婚儀にあわせて義信夫婦の居館スペースとして西曲輪が増築された。

西曲輪の北側にある味噌曲輪。江戸期の古絵図には蔵屋敷と表記されているという。

戦国期当時の曲輪配置図。

味噌曲輪と西曲輪を連絡する土橋。

西曲輪の虎口

武田義信といえば、「義信事件」が興味深いエピソードとして語られている。

永禄7年(1564)7月、武田氏重臣たちによる信玄の暗殺計画が露呈した。首謀者は義信(26歳)、実行役の中心人物はその傅役もりやくである飯富虎昌だった。翌年1月、計画に加担した飯富虎昌らは処刑された。そして同年10月、義信は甲府の東光寺に幽閉され、廃嫡(後継者の地位を剥奪)となった。事件発生から重臣達の処分まで半年、義信の処分まで1年以上を要しているのは、それだけ重大事案であり処分後のさまざまな影響を鑑みて信玄が慎重に決断したからだろう。幽閉から2年後の永禄10年(1567)10月、義信は将来を悲観して心を病んだためか、病死した。

信玄暗殺計画の理由としては、次の説が通説となっていた。

武田氏は今川氏と北条氏の3氏で互いに同盟(甲相駿三国同盟)を結んでおり、義信は今川義元の娘を妻にしていた。武田氏は越後の長尾景虎と戦っていたが、永禄4年(1561)に対長尾氏の軍事方針を見直す出来事が起きる。同年に勃発した第4次川中島の戦いで大敗を喫した信玄は、長弟・信繁や、信濃方面の外交官兼参謀である山本勘助を始め、多くの指揮官や兵を失った。一方景虎は関東管領上杉氏の名跡を継ぎ、将軍・足利義輝から偏諱を賜り上杉輝虎と改名し、その勢いを増した。今後も長尾氏(上杉氏)は敵であることに変わりはないが、積極的に戦を仕掛けるにはリスクが高い相手となった。その頃、前年に桶狭間の戦いで当主・義元を失った今川氏は苦境に立たされていた。義元の跡は嫡男・氏真が継いだが、駿河・遠江・三河の三ヶ国を支配する今川氏の統制を取るにはまだ若く経験が不足しており、他国衆の離反が相次いだ。氏真の動向をしばらく注視していた信玄は、今川氏を立て直すほどの器量が氏真にないと判断し、三国同盟を反古にして今川氏の領土を攻め盗る方針にシフトした。実際に信玄が今川領へ攻め込むのは義信が死んだ翌年だが、織田信長との親交が第4次川中島の戦い以前から持たれており、義信は今川氏と敵対する織田氏との同盟に反対していた。今川をないがしろにする信玄の方針に憤り、義信は親今川派の家臣たちとともに、父・信玄の暗殺を計画した。

義信は妻が今川義元の娘であることから親今川派なのは間違いないが、武田氏と今川氏の関係が悪化するのはむしろ義信の死んだあとだった。そのため近年では次の新説が有力となっている。

天文23年(1554)に甲相駿三国同盟が結ばれた。3氏の当主たちは同年代であり、それぞれの嫡男もほぼ同じ歳だった。武田義信は16歳、北条氏政は15歳、今川氏真は16歳。その5年後、政治的な理由で北条氏康は引退し、氏政(20歳)が北条氏の当主となった。そして翌年、桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことで、氏真(22歳)が今川氏の当主となった。しかし義信が武田氏の当主となる節目が来る事はなかった。三国同盟の第2世代のなかで義信だけが“当主の嫡男”のままで、戦国大名の当主としてそれぞれの国を運営する義兄弟たち(氏政・氏真)に焦りを感じていた。そんな折、甲斐国が飢饉となる。父・信玄が祖父・信虎を追放したのが飢饉によるものだったため、世代交代をもう一度と考えたのだろう。というのが義信事件の新説だ。

御隠居曲輪。信玄の母・大井の方がここに住んでいた。この時代の女性としては珍しく生没年が判明している。永正14年(1517)、20歳のときに大井氏と武田氏の同盟にともない武田氏当主・信虎(19歳)の妻となる。22歳のときに長女(定恵院じょうけいいん-今川義元の妻で氏真の母)を産む。その後、信玄・信繁のぶしげ信廉のぶかどを産む。夫・信虎が甲斐を追放されたとき、大井の方は44歳だった。恐らくその際にこの御隠居曲輪に移ったのだろう。それから11年後の天文21年(1551)、55歳でこの世を去る。

武田神社の参道と拝殿。戦国期にはここは躑躅ヶ崎館の主郭部で、武田氏当主の居館が建っていた。

神社東側の大手門跡と馬出跡。

6.躑躅ヶ崎

馬出跡から竜華池りゅうがいけ躑躅ヶ崎つつじがさきが見える。竜華池は高さ17mのアースダムで、躑躅ヶ崎の先端部分に造られている。

竜華池へ登る階段の中程から躑躅ヶ崎へ向けてスロープが架かっている。渡りきるとすぐ「躑躅ヶ崎遊亭ゆうてい」の看板がある。

看板の指すほうを登っていく。

頂上の曲輪が、躑躅ヶ崎遊亭ゆうていのあった場所だ。武田信玄はここに四阿あずまやを設け、眼下に見える風景を楽しんだという。躑躅つつじの花が多く咲いていたことから、信玄はここを躑躅ヶ崎つつじがさきと呼んだ。

躑躅ヶ崎から見る大手門跡と馬出跡

武田信玄が家督を継いでから上杉謙信との死闘までのエピソードは割愛し、駿河侵攻以降の話に触れたいと思う。信濃侵攻の正念場となった村上義清との攻防については、【信濃:上田城&砥石城】🔎の砥石城のセクションをご覧いただきたい。

武田義信よしのぶが亡くなった翌年の永禄11年(1568)、信玄は駿河侵攻を開始した。その名目は、今川氏真うじざねが上杉謙信と示し合わせ、武田領への侵攻を企てたこと(真偽不明)への報復だった。義信の死は氏真が信玄に反目するきっかけとなり、駿河から甲斐への塩の輸出を止めるなど、今川氏と武田氏の関係は悪化していた。

氏真は駿河へ来る武田軍を迎え討とうとしたが、多くの重臣が武田方へ寝返ったため撤退を余儀なくさせられた。駿河はあっという間に信玄が制圧し、氏真は遠江掛川城へ入城する。信玄は今川氏の西にいる徳川家康と結び氏真を攻めさせ、自らは今川氏の救援に駆けつけた北条氏康を迎撃した。掛川城は家康に落とされ、戦国大名今川氏は滅亡した。信玄の駿河侵攻開始からわずか5ヶ月後のことだった。

ほどなく北条氏康が脳卒中で倒れ氏政が全権を握ったことで、北条氏は武田氏との再同盟へ舵を切る。信玄は東の憂いがなくなると、敵は上杉氏のみとなった。この頃は信玄にとって織田信長は最大の同盟者であり、信長の同盟者である家康も敵ではなかった。しかし今川領を双方で切り取っていく過程で家康と信玄の認識に喰違があり、それが原因で互いに反目していた。とはいえ足利義昭を将軍とする室町幕府は、天下静謐へと動いていた。畿内で戦を続ける信長と大坂本願寺の和睦の仲介を信玄に指示したり、信玄と上杉謙信の和睦の仲介を信長に指示した。このまま日本各地で和睦が進めば、戦国乱世は下火になるかと思えた。

元亀3年(1572)10月、信玄は突如として徳川領への侵攻を開始する。山県やまがた昌景まさかげと秋山虎繁とらしげの別働隊を三河へ向かわせ、信玄本隊は駿河から遠江へ入った。高天神城・二俣城を次々と落とし、武田・織田両属だったが半年前に織田配下に組み込まれていた遠山一族を取り込み、東美濃を武田領とした。信長は信玄から「織田と本願寺との和睦の仲介のため使者を大坂へ遣わした」との手紙を受け取ったばかりであり、寝耳に水の出来事だった。そしてこともあろうか信玄は室町幕府の重臣たちに働きかけ、織田からの離反をそそのかした。この頃信長は政所まんどころ執事しつじの代行として11歳の伊勢貞興さだおきの後見人に就いており、幕府の重臣のひとりだった。しかし信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行ったことで恨んでいる者も多く、幕府内は親信長派と反信長派に二分しており、それに目を付けた揺さぶりだった。大坂本願寺に向かった武田の使者が持っていた文書は、織田と本願寺の和睦への説得ではなく、武田と一緒に織田を討とうという誘いの手紙だった。さらに、北には朝倉義景よしかげ浅井あざい長政ながまさが、南には三好長逸ながやすや篠原長房ながふさがおり、たちまち信長包囲網が出来上がった。信長と手を取り合うか、幕府から信長を排除しその包囲網に加わるか、足利義昭は決断を迫られる。

元亀3年(1572)12月、三方ヶ原で武田信玄と徳川家康が衝突するが一方的な戦いとなり、徳川軍は1,000人以上を討ち取られて惨敗した。信玄はさらに西進し、徳川領を蹂躙していく。それを聞いた義昭は信玄と手を取ることに決め、反信長の姿勢を表明した。翌年2月~4月に掛けて、幕府軍と京都へ行軍してきた織田信長が戦った。信長は「息子の信忠とともに出家し丸腰で二条御所へ向かうので謁見させて欲しい」と言って義昭を油断させ、京都上京と洛外を焼き討ちにした。なり振り構わず義昭を攻略しようとする信長だったが、圧倒的不利は誰の目にも明らかであり、信長と信忠が包囲網軍に捕まって討たれるのは時間の問題かに思えた。

だが3月に武田軍の西進はピタリと止まる。そして武田の軍勢はすべて甲斐へ帰国した。武田信玄が死んだのだった。

同時期に三好長逸と篠原長房も亡くなり、武田氏に続き三好三人衆と阿波三好氏も信長包囲網から離脱した。息を吹き返した信長は二条城を攻め、4月に義昭を降伏させた。体制を立て直し、7月に槇島城で再度反旗を翻した義昭だったが信長に勝つことは出来ず、京都から追放の憂き目にあう。続いて8月には朝倉義景と浅井長政も各個撃破され、11月には三好本宗家の三好義継よしつぐも討たれた。

大きな政治的決断をしながら一番大事なところでこの世を去った信玄は、武田氏にとてつもなく甚大な負の遺産を遺した。

蕎麦カフェ由布姫の「信玄ほうとう」。麺の下にカボチャや里芋がゴロゴロ入っており、具沢山で1,300円はお得感がある。

7.景徳院

武田氏終焉の地・景徳院

甲州街道の笹子峠手前から少し北にある景徳院けいとくいん。武田氏終焉の地として知られている。

天正元年(1573)、信玄亡き後の武田氏の家督は、信玄の遺言により勝頼の子・信勝(6歳)が継ぐことに決まった。父・勝頼(27歳)は信勝が元服するまでの名代に就いた。畿内では織田信長が、将軍不在の中央政権を我が物とし、日本全土を統一するべく勢力を伸ばしていた。勝頼は良く戦ったが、それから9年後の天正10年(1582)、この地でその生涯を終えた。

勝頼の運命を決定付けた出来事は3つあっただろう。1つ目は天正3年(1575)の長篠ながしの設楽原したらがはらの戦い。雌雄を決する大戦により、多くの重臣と手練れの兵士を失った。2つ目は天正6年(1578)の上杉氏の家督争いである御館おたての乱【越後:春日山城】🔎参照)。景虎ではなく景勝に与したことで、景虎の兄・北条氏政との同盟が破棄された。3つ目は天正9年(1581)の高天神城攻防戦【遠江:高天神城】🔎参照)。勝頼は後詰めに出陣することなく高天神城を見殺しにする形となり、武田氏の権威は失墜した。いずれの事件も事後に勝頼を苦しめ、武田氏の衰退は加速した。しかしながら、いずれの選択も勝頼は間違ってはいなかったと言いたい。1つ目は別として、2つ目と3つ目の選択で違うほうを選んでいたとしたら、むしろ武田氏の滅亡はもっと早まっていたはずだ。勝頼は常に最善手を選び、少しでも武田氏を延命させ、逆転に掛けた。

武田勝頼の生害石

甲府をあとにした勝頼は、甲州街道を通って都留郡の岩殿城を目指した。しかし笹子峠で小山田信茂の兵が道を封鎖し、追い返された。勝頼は少し戻って天目山を目指したが、織田の軍勢が追いついてきたため、ここに陣を敷いた。武田勝頼-36歳、北条夫人-18歳、武田信勝-15歳。3人はそれぞれ石の上に座り、自刃した。

「三河物語」にこう書かれているという。信長の元に勝頼の首級が届けられた際、信長は「勝頼は日本にかくれなき弓取りだったが、運が尽きてこのようになってしまったのだろう」と言ったという。これが創作だとしても、著者の大久保忠教ただたかは徳川家康の家臣で武田軍と戦った経験もあり、忠教の感想であることは間違いないだろう。

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