豊後 岡城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 95m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 40m | ||
所要時間 | 5分 / 10~15分 |
指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
遺 構 | 石垣、大手門跡 |
歴 史 | 南北朝時代に大友一門衆の志賀貞朝が源平時代の古城を増築改修し、岡城と名付けたのを始まりとする。天正14年(1586年)の耳川の戦いにより、主君・大友宗麟は島津義久に敗れ衰退していく中で、岡城の城主・志賀親善(親次)は岡城に籠城し、島津軍の攻撃を再三に渡り退け、大友家を支えた。 |
駐車場 | [由学館]竹田市歴史文化館・由学館 – Google マップ [岡城]岡城跡駐車場 – Google マップ |
住 所 | [由学館]大分県 竹田市 竹田2083 [岡城]大分県 竹田市 竹田320 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2023年10月14日(土)曇り |
1.竹田市歴史文化館・由学館
岡城へ向かう前に、岡城のすぐ近くにある資料館「竹田市歴史文化館・由学館」で岡城を予習する。
岡城のジオラマ。岡城は天然の要害を巧みに利用した難攻不落の山城だ。
岡城の主な城主。南北朝から戦国末期までは志賀氏が、江戸期は中川氏が岡城の城主だった。解説文の中で、志賀氏の最期の当主の名が「志賀親次」となっている。山口県にある彼の墓にそのように漢字とルビが書かれているということなのでそれが元情報だと思うが、一次資料(信頼出来る資料)によると「志賀親善」だそうだ。
石垣の高さ比べ。大阪城(30m)と伊賀上野城(26m)は高石垣界のツートップ。岡城も5位タイにランクインしている。
2.岡城 駐車場
資料館から5分程度で岡城の駐車場に到着。料金所でチケットと御城印を購入する。
岡城の案内図。戦国期から江戸期にかけて、大手門は3回造られている。戦国期の志賀岡城は城の北東側に大手門があった。江戸期の中川岡城は大手門を南のエリアへ改築し、最初は東向きに造られ、のちに西向きに造られた。
左手の石垣にひときわ大きな石・鏡石がある。人の頭から上の高さにあり、パズルのように周りの石と嵌合している。石垣に大きな石を組み入れるのは高い技術を必要とするため、見る者に畏敬の念を抱かせる。
竹細工専門店「大手門」。数百円のお手軽なものから数万円の高級品まで、竹細工の品々が揃っている。
西の丸の切岸。阿蘇山の火砕流で出来た岩山を削り出して造られた。
この辺の切岸は、上部が張り出している。敵の侵入はほぼ不可能。
岡藩オリジナルの「かまぼこ石」。天面が丸く湾曲している。見た目の美しさもあるだろうが、侵入者が横の石垣をよじ登ろうとした際、手を掛けにくくした意図も考えられる。ここから坂道を登っていく。
急坂の先に大手門が見えた。
3.大手門
大手門址。重厚な櫓門が築かれていた。藤堂高虎のアドバイスで大手門は西向きとなるこの場所に造られたとのこと。
大手門の礎石と車敷。礎石が残っている門址はよく見かけるが、車敷は初めて見た。
大手門の枡形虎口。
大手門後方の石垣の上から大手門址を見る。ここにあった城壁の狭間から、大手門に詰め寄る敵を狙える。
文禄3年(1594)に中川秀成が入部した際に最初に造られた旧大手門。だいぶ横幅が狭いが、慶長17年(1612)に今の大手門を造る際に不要となったので狭めたのか、戦国の余韻が残る時代の築城だから元々狭かったのか。
旧大手道。
旧大手門は東側、新大手門は西側にある。大手門が東にあると、朝駆け(夜明けと共に攻めること)を仕掛けてきた敵を、朝日を正面に受けながら迎え討つことになる。それをあらかじめ回避するため、西向きの新大手門が提案された。
4.西の丸
西の丸の正面入口・東門跡は通行止めになっている。
なので、西の丸の南側を進む。上の道と下の道があるので先に下から。
階段があるので西の丸へ登れそうだが・・・
階段の途中で、石垣により封鎖されていた。
先ほどの分岐へ戻り、上の道を通って西の丸へ。
西の丸から駐車場が見える。
角櫓跡。物見台として使用していた。曇っているので眺望は芳しくないが、晴れていれば30kmほど先にある阿蘇山も見えるそうだ。
西の丸の西端の一角に、丸い石垣の上に小山のようになっている場所がある。ここには中川氏が信仰していた「秋葉社」という稲荷神社があったようだ。
小山を乗り越えた反対側にある中川家家老・中川民部の屋敷跡。礎石や水路がここまで残っているのは凄い。
民部屋敷と西の丸の間にある石塁。
5.主郭部
西の丸の入口に戻ってきた。中川民部屋敷跡の奥には中川覚左衛門屋敷跡があり、赤穂城の本丸御殿跡のような床復元がされているようだが、私は江戸期の遺構にはあまり興味がなく、あくまで戦国時代ファンなので後回しにした。城によってはとてつもない城域を持つものもあるため、全てを見て回ることをマイルールにしてしまうとしんどくなる。気ままに見たい場所から足を運んで満足したら終わるのが理想の城巡りだと私は思う。
次は本丸へ向かう。
中川但見屋敷跡。中川家の家老たちはみな中川姓だ。家臣が当主と同じ名字の場合、当主の次男坊三男坊が兄(嫡男)の家臣となるパターンと、当主が重臣に自分の姓を与えて一族化させるパターンがある。但見と民部は前者。覚左衛門は後者。覚左衛門こと古田重則の兄は茶人として有名な古田織部で、その妻は中川清秀の妹・せんであったため、重則も一族同様の扱いを受け、のちに中川姓を与えられた。
谷を挟んだ向こう側に、先ほど行かなかった中川覚左衛門屋敷跡の石垣が見えた。本丸に近いほうから「中川但見」「中川民部」「中川覚左衛門」なので、家老としての序列も多分そうなのだろう。
西中仕切跡。東と西にある中仕切は、主郭部(三の丸、二の丸、本丸)への敵の侵入を防ぐ、最後の防衛拠点だ。動線を右へ90°曲げることで敵の勢いを削いでいる。後方に見えるのは三の丸の高石垣(高さ約21m、全国5位タイ)。中仕切に押しかけた敵を迎撃するための横矢掛かりが2段構えになっている。
正面の石垣の上には、鐘櫓があった。
西中仕切をクランク状に進む。
岡城の主郭部。主郭部の右手には帯曲輪があり、北の下原御門まで続いている。
①三の丸
三の丸の虎口。ここには太鼓櫓門があった。
門の内側は枡形虎口になっている。
三の丸。奥の石垣は本丸で、その上には天守に相当する御三階櫓があった。
②二の丸
三の丸の左奥にある二の丸。本丸に連絡している。
二の丸にある井戸。本丸に近い場所に井戸があることは、山城を造る上で必要不可欠な要素となる。
「春高楼の~♪」から始まる「荒城の月」で有名な滝廉太郎像(享年23歳)。七五調の日本古来の歌詞に西洋の曲を融合した「荒城の月」は、作曲を担当した滝が岡城を訪れた際、岡城からインスピレーションを受けたとされる。作詞は仙台出身の土井晩翠が仙台城で書いたため、仙台城には「荒城の月」の歌碑がある。
二の丸の石碑。
本丸へ登ろう、と思ったら石階段が危険な状態で通行止めに。
石階段の反対側から登っても良かったが、この休憩所から行くことも出来る。江戸期はここに風呂屋が建っていて、客人をもてなしたという。400年経った今も客人を癒やす空間になっているとは。
休憩所の奥に階段がある。
建屋の内階段を登って二階へ行ったら地面・・・って、ドラえもんの「どこでもドア」だ。
③本丸
本丸。
天守に相当する御三階櫓跡。天守台に相当する石垣も、極めて低く積まれている。「天守」という呼称や高い天守台は江戸幕府に目を付けられ兼ねないので、気を遣ったのだろう。
御三階櫓跡から岡城全体を見下ろす。岡城は巨大な戦艦のようだ。
岡城が戦火に見舞われたのは天正14年(1586)10月、九州の二大勢力である豊後・大友氏と薩摩・島津氏による戦、豊薩合戦のとき。その8年前の耳川の戦いで島津氏に大敗した大友氏は、譜代家臣団の多くを失い、外様の国衆たちも次々に離反していた。落日の大友氏に対し、日の出の勢いの島津氏が襲いかかるという構図だった。
豊後に侵攻してきた島津義弘(51歳)の軍勢3万騎は、豊後の城々を次々に落としていった。まともに交戦して島津軍に勝利出来たのは、岡城の志賀親善(ドン・パウロ-20歳)と栂牟礼城の佐伯惟定(17歳)の2人だけだったという。
志賀親善は、この岡城をわずか1,000騎で守りきった。岡城には総勢4~5千人はいたのだが、日向と豊後の国境付近の宇目にいた親善の祖父・志賀親度(道輝-51歳)が城を捨て臼杵へ逃げたため、それをフォローするべく大半を宇目へ派遣していた。その際、大御所・大友義鎮(宗麟-56歳)は、息子で大友家当主・大友義統(28歳)に書状を出している。志賀親度(道輝)を再び宇目へ戻すよう言っているのだが、その中で「知っての通り道輝は奥さんが一緒じゃないと動かないから、説得するときは奥さんも同時に説得しなさい。」と書いてあるというのが実に興味深い。
さらには、攻めて来た島津軍の中に親善の父・志賀親孝(道易-35歳)がいた。親孝は2年前まで志賀家の当主だったが、大友義統の侍女に手を出したため、義統の怒りを買い蟄居を命じられていた。そして、この豊後侵攻に乗じて島津氏へ寝返ったのだった。
愚父と愚祖父に苦労しながらも志賀親善は戦い抜き、黒田官兵衛を大将とする豊臣軍が援軍に来るまで持ちこたえた。ほどなく豊臣秀吉の天下統一により平和は訪れた。天正15年(1587)3月、キリシタンだった親善の信仰を嫌っていた祖父・親度と父・親孝は、黒田官兵衛のすすめにより受洗し、同じキリシタンになったという。
岡城の下を走る国道502号線。ここはメロディロードと呼ばれ、時速50kmで走行すると、荒城の月のメロディが流れるようになっている。障害物がないので、岡城に居ても良く聞こえる。
岡城の案内板。
本丸に建つ天満神社。
おみくじがあると引きたくなるもの。ナオと私も1枚づつ購入した。
6.東ノ郭
本丸下の帯曲輪から岡城の切岸を見る。岩盤を削り出して設けられているため、垂直を通り越して逆反りになっている箇所もある。
本丸を後にし、先へ進む。
東中仕切跡。こちらも西同様に横幅は狭い。
東中仕切から東ノ郭へ。
東ノ郭。戦国期に城主だった志賀氏の居館があった。
御廟所跡。中川家代々の墓があった。
下原御門跡。戦国期の志賀氏の時代はここが大手門だった。中川氏入部後、加藤清正の指示で大手門を移したと書かれている。しかし清正大手門の欠点を指摘した藤堂高虎のほうが、築城技術は一枚上手だったようだ。
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