栂牟礼城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 210m | 整備度 | ☆☆--- |
蟲獣類 | マムシ | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 60m | ||
所要時間 | 5分 / 35分 |
指 定 | 佐伯市指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、堀切、畝状竪堀 |
歴 史 | 大永7年(1527年)佐伯惟治は大友義鑑から謀叛を疑われ、臼杵長景軍2万で攻撃されたが栂牟礼城は落城しなかった。天正14年(1586年)島津家久軍1万が豊後を侵攻した際、豊後各地の城は次々に落城していったが、栂牟礼城の佐伯惟定は島津軍を撃退した。 |
駐車場 | 栂牟礼城と小山田城の鞍部に駐車場あり。国道10号線と国道217号線の番匠交差点付近に、林道へ続く道がある。 |
住 所 | 大分県 佐伯市 弥生 大字小田 |
トイレ | 駐車場にあり |
訪問日 | 2023年10月15日(日)晴れ |
1.佐伯市歴史資料館
佐伯城の麓にある佐伯市歴史資料館に、戦国時代の領主である佐伯氏とその居城・栂牟礼城についての詳しい説明がある。佐伯といえば佐伯城だが、佐伯城を築城した毛利高政が佐伯荘に入部したのは戦国末期であり、それ以前の数百年は佐伯氏が統治者だった。佐伯氏は、鎌倉時代以前からいた大神氏という一族の末裔とのこと。大神一族の諸氏を見ると、臼杵氏・戸次氏・朽網氏など、大友氏の重臣達の名前が連なる。全国的に有名な戦国武将でいうと、大友四天王ともいうべき重臣の中で特に文武両道だった臼杵鑑速。同じく四天王の1人で武神とも言われ、72歳で亡くなる2年前に“立花”と改姓したのと出家名が“道雪”だったことで「立花道雪」の名で語られる戸次鑑連、などがいる。
栂牟礼合戦の復元想像図と栂牟礼城の模型。栂牟礼合戦とは、大永7年(1527年)に佐伯惟治が主君・大友義鑑に謀反の疑いを掛けられ、臼杵長景を大将とする2万の軍勢に攻められたという合戦。このコーナーでは、プロジェクションマッピングで栂牟礼合戦の解説が聞けた。
2.駐車場~休憩施設
佐伯市歴史資料館から10分強で栂牟礼城の麓を通過し、山の中腹にある駐車場へ向かったのだが、林道は荒れ放題に荒れており、車が立ち往生するのではないかとヒヤヒヤするほど怖い道だった。
栂牟礼城の案内板。休憩施設を経由し、栂牟礼城へ行けるようだ。休憩施設からの道のりが何も書かれてないのと、栂牟礼城が山中のリゾートホテルみたいなイラストになっているのが気になるが・・・。
現在地から向かって左へ行くと栂牟礼城の支城・小山田城へ通じるが、ターゲットはあくまで栂牟礼城なので、欲張らず目的地を目指す。
休憩施設への矢印看板。
蜘蛛の巣を払いながら登る。
休憩施設(?)に出た。だが円形の曲輪は全周を木々に囲まれており、どこにも道が見えない。
そばにある矢印看板は、今来た道は「駐車場」、そのまま真っ直ぐで「栂牟礼城址」と指し示しているのだが。
ナオが木々のあいだに道とおぼしき空間を発見した。
3.尾根
草を掻き分け、至るところに張り巡らされた蜘蛛の巣を払いながら、少しづつ前へ進む。歴史資料館でプロジェクションマッピングの栂牟礼城を見たあとなので整備の行き届いた城だと思っていた分、気持ちの落差が大きい。
少し道らしくなってきた。時々ピンクリボンが木にくくられているので、正規ルートなのは確認できる。道の左右が低くなっており、尾根を歩いているようだ。
しばらく歩くと、最初の堀切が出現。
栂牟礼城の縄張り図。城郭放浪記様の許可を得て掲載させていただく。
二重堀切-1つ目。ここから続く連続堀切が、栂牟礼城の最大の見どころとなる。
虎ロープを頼りに、えぐい高低差の堀切を進む。
堀切の底。400年の歳月でどれだけ堆積しているのか不明だが、それでも人の背丈以上ある。
尾根を進む。尾根の左右は切岸なので、堀切があってもそこを通るしかない。
二重堀切-2つ目。
竪堀。標高が変わらない横移動の尾根道はここまでで、その先は急な登り坂になっている。
竪堀は尾根の上から南側へ向かって、深く刻まれている。
傾斜の急な尾根を登って行く。
4.主郭部
①二の丸
斜面を登り切り二の丸に出た。堀切と登り尾根を踏破したので、あとは高低差の少ない曲輪郡を進むだけ。
土橋?
主郭曲輪群の真ん中あたり。あと半分。
②本丸
本丸下の段曲輪。
最後の堀切。右のほうに階段が付いている。
本丸。なぜか柑橘系の果実が散乱している。周辺にそんは木は無いので、誰かが持ち込んでばらまいたのだろうか??
戦国期に栂牟礼城が戦火にみまわれたのは2度。大永7年(1527年)には主君・大友義鑑に、天正14年(1586年)には薩摩の島津氏に攻められた。それぞれ2万と1万の大軍だったが、佐伯氏はいづれも撃退している。栂牟礼城の優秀さは、主郭部を取り囲む切岸にあるだろう。石垣の場合、従来の野面積みだと手足を掛けやすく登りやすいという欠点があるが、土の切岸だと登ろうとすると土が崩れるので、侵入は極めて困難になる。とすると傾斜のゆるやかな尾根から侵入することになるのだが、そこには何層もの堀切が待ち構えている。私とナオも、400年経って土砂の崩落と堆積でなだらかになっているだろう尾根ではあるが、その堀切を通ってきて大変さを少しだけ体感した。
最初の戦火は大永7年(1527年)のとき。佐伯惟治が肥後の菊池氏に通じて謀反を企てているとの讒言が大友義鑑の耳に入り、それを信じた義鑑は家臣の臼杵長景に佐伯氏の討伐を命じた。臼杵長景は2万の大軍で栂牟礼城を攻めたが、堅固な城なので落とせなかった。経緯は不明だが、開戦から10日ほどで長景は、城を空け渡せば助命を約束するという提案を惟治に伝え、惟治もそれに応じた。義鑑が承認した手紙を貰う前になぜその話を信じたのかとか、2万の臼杵軍は兵站が大変だからもう少し籠城すれば撤退を余儀なくされたのではないのか、など疑問は残る。史実として、惟治は栂牟礼城から退去して日向へ向かった。しかしこれは長景のワナで、惟治は道中で襲撃に遭い命を落とした。
2度目の戦火は天正14年(1586年)のとき。豊後の大友配下の城々は、薩摩の島津家久率いる1万の軍勢に攻められた。城が次々と落とされていく中で、志賀親善(20歳)の岡城と佐伯惟定(17歳)の栂牟礼城は、これを持ちこたえた。佐伯氏は、8年前の天正6年(1578年)の耳川の戦いで、当主・佐伯惟真(34歳?)とその父・佐伯惟教(58歳?)親子が討死し、惟真の子・惟定(9歳)が跡を継いでいた。主立った家臣たちもその時死んでいると考えると、惟定を支える家臣団は心許なく、たった8年で島津軍と互角に戦える軍事力を備えることが出来たとは考えにくい。ひとえに栂牟礼城のポテンシャルが凄かったということだろう。
栂牟礼城攻めを諦め撤退する島津軍を、佐伯惟定(17歳)は城から討って出て野戦で追撃し、完全勝利を収めた。
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