臼杵城
形 態 | 海城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 13m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 13m | ||
所要時間 | - / 10~15分 |
指 定 | 大分県指定史跡、続日本100名城 |
遺 構 | 畳櫓、卯寅口門櫓、堀、石垣 |
歴 史 | 大友宗麟により臼杵湾に浮かぶ断崖絶壁の丹生島に築かれた海城・丹生島城を前身とする。天正14年(1586年)の豊薩合戦では1万の島津軍に攻められたが、スペインとの貿易で購入した大砲を使い撃退した。慶長5年(1600年)に稲葉貞通(一徹の子)が入部し、近世城郭・臼杵城へと改修された。 |
駐車場 | 臼杵市観光交流プラザ – Google マップ |
住 所 | 大分県 臼杵市 臼杵100-2 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2023年10月15日(日)晴れ |
1.臼杵城址
大分県臼杵市にある臼杵城は、大友宗麟の城として知られている。戦国時代はこの辺一帯は海で、浅瀬の海の上にある丹生島に築かれた海城だった。
臼杵城の案内板で、海の上のぞうり型の島が丹生島。満潮時は島の周囲を海水が囲い、干潮時には陸地が姿を現わす。
天文19年(1550)大友義鎮(のちの宗麟)20歳のとき、重臣たちの謀反により父・大友義鑑が討たれた。義鑑夫妻と三男・塩市丸と3人の娘が居館の二階で殺されたことから「二階崩れの変」と呼ばれている。江戸時代の編纂物によると、塩市丸を後継者にしようとする義鑑に対し重臣達が反発したものとされているが、将軍の偏諱を受けた嫡男・義鎮を差し置いて後継者を変更するとは考えにくく、現在の研究では討たれた原因は不明という。経緯はともかく父の死により、義鎮は弱冠20歳にして大友家の当主となった。
室町初期から豊後国の守護を補任していた大友氏は代々、別府湾を臨む大分郡(現大分市)の府内城を居城としていた。府内は人口8,000人で当時全国有数の城下町だったが、義鎮の代になって人口2,000人の臼杵へと本拠地は移された。そして永禄5年(1562)義鎮32歳の時に丹生島城(臼杵城)を築城した。府内城で重臣達の度重なる謀反があったのだが、その理由は若き当主がフランシスコ=ザビエルにキリスト教の布教を許可したことによる宗教対立だったと言われている。義鎮は重臣達を府内城に残し、自らは臼杵でキリスト教の布教を推進することでポルトガルとの貿易を円滑に進めた。臼杵に来たタイミングで出家し休庵宗麟と名乗っていることからも分かるように、義鎮自身がキリシタンになったわけではなく(晩年には洗礼を受けたが)、あくまで貿易のための方策だった。
白壁が美しい近世城郭・臼杵城。朝鮮出兵後大友氏は改易され、新たに入部してきた稲葉貞通により、丹生島城は臼杵城として改築された。右上の建物は畳櫓(現存)、中央の建物は大門櫓(復元)。
臼杵城の正面・古橋口。
水堀。城の周囲は全て埋立地なので、ここは戦国期は海だった。
2.鐙坂~大門櫓
臼杵城の案内板と鐙坂。
鐙坂は、宗麟時代からのものだ。今は壁の崩落防止の工事を行っている。
鐙坂を上から見ると、その動線は鐙の形をしている。
中門櫓跡。
畳櫓(現存二重櫓)。
大門櫓(再建櫓門)。この先は二の丸。
大門櫓をくぐる前に時鐘櫓跡を見学。櫓は無くなったが、鐘は再建されている。昔は時間になると人が突きにきたそうだが、今は機械仕掛けの滑車を使って時間になると自動的に突くようになっている。
3.二の丸
大門櫓を通って二の丸へ。二の丸には駐車場はないが、自家用車の乗り入れは可能になっている。散策者の邪魔にならない場所ならどこでも停めていいようだ。
大友宗麟のレリーフ(復元)。本物は明治の彫刻家によって彫られたものだが、青銅製だったため太平洋戦争時に政府に献納され、今は残っていない。
佛狼機砲(レプリカ)。天正4年(1576)ポルトガルから大友宗麟に贈られた日本で初めての大砲。宗麟はこれを量産し、この城に配置した。
天正14年(1586)の豊薩合戦で、丹生島城は島津家久軍1万に攻められた。その際、宗麟は2,000人の領民を全てこの城へ避難させ籠城し、そしてこのフランキー砲を使って島津軍を撃退した。日本で初めて大砲が使われた戦いだった。若い頃に重臣達の謀反を招いてでもポルトガルとの貿易を優先した施策が、30年後に大友家の命脈を繋いだ。
ここは江戸期の臼杵城時代には二の丸として使用されていた場所だが、戦国期の丹生島城時代は本丸だった。島の中央部にあり、最も高い曲輪となる。
一般的に九州の戦国時代というと、薩摩の島津義久、豊後の大友宗麟、肥前の龍造寺隆信の“三大名”というイメージが強いように思うが、その三者が並び立ったのは戦国の最終盤のほんの一瞬(天正前半の6年間)でしかない。戦国中期では、大内義隆が九州最強の大名で、次いで大友義鑑(宗麟の父)、その下に渋川氏・少弐氏・菊池氏・千葉氏・島津氏が続く。龍造寺氏は少弐氏の家臣なので、そのさらに下のランクになる。
戦国末期になると、二階崩れの変で大友義鑑が、翌年の大寧寺の変で大内義隆がそれぞれ暗殺され、大友氏は大友義鎮(宗麟)が、大内氏は先代大内義興の外孫・大友晴英(宗麟の弟で大内義長と改名)が継いだ。ここからは大友氏のひとり勝ちで、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後6ヶ国の守護と九州探題を補任し、大友宗麟は九州の王となった。大友氏が直接支配していないのは日向・大隅・薩摩の南方3ヶ国のみ。すなわちこの臼杵城の二の丸広場は、戦国末期の16年間ほどではあるが、九州の政治の中心だった場所と言える。
天正6年(1578)の耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗したことで、大友氏は大きく衰退した。大友氏に臣従していた龍造寺隆信を筆頭とする肥前の国衆たちは大友から離反。九州の勢力図は、大友一強時代から島津・大友・龍造寺の3強時代になった。天正12年(1584)の沖田畷の戦いで隆信が敗死するまでこの3強は続いた。
4.本丸
二の丸と本丸の間の空堀。この城が島であることを考えると自然地形でこのような凹みがあったとは考えにくいので、平地をバスタブ状に掘り抜いたのだろう。
反対側の空堀。こちらも広範囲に掘り抜いている。
土橋と鉄門跡を通ると本丸に連絡する。
本丸。
本丸の隅にある天守櫓跡。
もうひとつの現存櫓、卯寅口門脇櫓。卯寅と書いて“うとの”と読む。なぜ“うとの”なのかは解明されていない。戦国期はここは船付場で、海へ通じる門があった。府内城との連絡は海路がメインだったので、ここが正面玄関だったと考えられる。
戦のない時代の櫓なので狭間はない。船の出入りを見張るなどの用途で使用されていたのだろうか?
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