佐東銀山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★★★ |
比 高 | 400m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 30m / 280m | ||
所要時間 | 5分 / 50~60分 |
指 定 | 広島県指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、堀切、切岸 |
歴 史 | 安芸佐東郡の分郡守護・武田氏の城。 |
公共交通 | 電車:下祇園駅(JR可部線)=徒歩23分⇒武田山憩いの森 |
駐車場 | 武田山憩の森駐車場 – Google マップ |
住 所 | 広島県 広島市安佐南区 祇園町731 |
トイレ | 駐車場付近にあり |
訪問日 | 2024年2月25日(日)曇り |
1.憩いの森登山口
武田山憩いの森駐車場に車を停め、佐東銀山城の登城口へ向かう。
佐東銀山城は、戦国初期に安芸西部で活躍した武田元繁の城として知られている。安芸の国は8郡(佐西郡・佐東郡・安南郡・安北郡・山県郡・高田郡・賀茂郡・豊田郡)からなり、安芸武田氏はそのうち3郡(佐東郡・安南郡・山県郡)ではあるが、安芸の中枢部といえるエリアの分郡守護であった。ただ、元繁の父・元綱の時に主家(若狭武田氏)から独立しており、以降守護職の補任は受けていなかったようだ。なので元繁の頃は、佐東郡を中心に勢力を持つ安芸随一の有力国衆という立ち位置になる。
武田元繁のエピソードで最も有名なのは、毛利元就と戦った“西の桶狭間”と呼ばれる有田中井手の戦いだろう。のちに西国の覇者となる毛利元就が多治比元就だったころの合戦で、毛利家当主・幸松丸(2歳)の陣代として総大将を務めたが、元就は弱冠20歳でしかも初陣だった。一方武田元繁は経験豊富な50歳の老将。知勇に優れており、三国志で最強の武将になぞらえて「安芸の項羽」とうたわれたという。
事の発端は12年遡り、永正2年(1505年)。38歳で家督を継いだ武田元繁は京にいた。前年に西国の太守・大内義興が前将軍・足利義稙(当時は義尹)を奉じて上洛し、現将軍・足利義澄を京から追い出して義稙を将軍に返り咲かせるという事件が起きた。将軍の側近となった義興は、管領代と山城守護も兼任することになり、京での職務が忙しくなる。不本意ながら義興に臣従していた元繁も、京でその補佐に当たっていた。
永正12年(1515年)になると、安芸で内乱が起きた。大内義興は鎮圧のため武田元繁を安芸へ帰国させた。その際、裏切ることがないように義興の養女を元繁の継室にしたのだが、帰国し内乱を収束させた元繁は自信を付けたのか、大内の娘と離縁し、出雲の尼子経久の姪を新たな継室に迎えて大内氏と手を切った。尼子氏のバックアップを得た元繁は、大内領の佐西郡や高田郡へ侵攻し、独自に領地を拡大した。父・元綱が主家から独立したように、元繁も自らの才覚のみで道を切り開いていくことを選んだ。
永正14年(1517年)、武田方だった高田郡の有田城が、同じ高田郡の国衆・毛利氏により落とされた。武田元繁はすぐさま軍勢を率いて有田城へ奪還に向かった。その数5,400人。高田郡の大内方の国衆は毛利氏を始め2,200人だった。両軍は有田城の麓の平野“中井出”で激突する。
結果として5,400の武田軍は壊滅し、2,200の毛利軍が大勝利に終わっている。総大将の武田元繁を始め、香川景之、熊谷元直、己斐師道などの大将がことごとく討死した。その経緯についての記録が事細かく残っているのだが、毛利軍の勝因は「運」としか書かれていない。いかにも胡散臭い。野戦で、どちらも国衆たちの連合軍であることを考えると、運だけで2倍以上の戦力差をひっくり返すことは不可能だろう。
実際は、大内の援軍(毛利方)が間に合い、武田軍を挟み撃ちにしたということらしい。毛利元就が初陣で華々しいデビューを飾ったことにしたい後世の誰かが、都合良く書いたのだろう。
武田山ルート案内図に道路工事のお知らせあり。上の道(赤線の道)は通行止めとのこと。
それよりこの工事を担当している会社の名前が(株)尼子建設 となっている。武田元繁が大内義興と手を切ったあと、バックアップを受けたのが尼子氏だ。何か因果を感じる。
登城口。上の道は通行止めなので、下の道を進む。
武田山ふれあい樹林。遊具のような設備のある広場。
武田山ふれあい樹林の奥の丘が出丸っぽかったので登ってみた。出丸だったかも知れないし、そうでなかったかも知れない。
進路に戻る。
十字路になっている祇園北高校分れ。登城口からここまで、真っ直ぐ来たら15分程度。右手へ降ると、広島経済大学と祇園北高校がある。真っ直ぐ行くと大倉屋敷跡。左手の馬返し方面が頂上への道となるので左へ進む。
「馬返し」と呼ばれる曲輪。ここまで馬で登ってこれたかどうかは疑問だが、ここから先の道のりは険しさが格段に増していることからそう呼ばれているという。
土橋。左右が切岸になっている。
急な斜面を登っていく。階段が設けられているので登り易い。
2.御門跡と千畳敷
巨石が無造作に転がっている。破城によるものだろうか。
御門跡。ここは6m四方の枡形虎口なっている。外門と内門が直角になるように配置して二重扉にすることで、安全性を高めているという。横矢はないが、近世城郭の枡形虎口の原型と言われている。
内門のあった場所だろう。門跡っぽい雰囲気を遺している。
千畳敷。城主の居館があった場所。
石が積まれ、段曲輪になっている。
先へ進むと、矢竹の群生地があった。矢竹は「竹」と言いながら節のない笹科の植物で、弓矢の矢を造るのに使用されていた。
3.武田山山頂
三叉路になっている相田分れ。左へ行くと弓場跡等。頂上のある右へ進む。
虎口。ここから先は、軍事施設である詰丸に相当するエリアになる。
眺望の良い曲輪に出た。
佐東銀山城は、戦国期に2度戦場になっている。
1回目は大永4年(1524年)に、周防の大内義興(47歳)が2万5,000人を引き連れて安芸へやってきた。その内、今回の戦が初陣となる嫡男・義隆(17歳)を大将、宿老の陶興房(49歳)を副将とした1万5,000人の別働隊が、佐東銀山城を攻めた。武田側は当主・武田光和(21歳-元繁の嫡男)3,000人が銀山城に籠城しており、尼子軍(牛尾氏と亀井氏)5,000人と、この頃尼子側に寝返っていた毛利元就(27歳)をリーダーとする安芸国衆たち(恐らく1,000人程度)が援軍に来た。
「城攻め3倍の法則」によると、籠城する城を落とすには城兵の3倍の兵力で攻めれば良いとされる。この場合、籠城3,000×3で、攻め方は9,000ほど必要となる。平地にいる尼子軍と安芸国衆の計6,000の相手として同数をあてがっても城攻め部隊に9,000動員出来るので、普通に戦えば城を落とせることになる。
消極的な尼子援軍を尻目に、安芸国衆たち約1,000は、情報収集と調略が巧みな毛利元就の策によって夜襲を仕掛け、大内義隆軍520名の首級を挙げることに成功した。安芸国衆の被害は20名だったという。これにより両陣営の士気に大差がついたため、義隆の初陣にこれ以上泥を塗られることを嫌った陶興房はすぐに軍を引き、大内本軍(大内義興)とともに周防へ帰った。
毛利元就は、安芸の危機にたった5,000人しか援軍を出さなかった尼子経久(66歳)を見限り、ふたたび大内側についた。前々から経久には不信感があったので、この件がトドメとなったのだろう。大内と尼子という2つの大国の間で生き抜くにはどちらにもいい顔をしてうまく立ち回る必要はあったが、これ以降、元就は基本的に親大内派を貫き、尼子派に大きく傾くことはなかった。
2回目の戦は天文10年(1541年)のこと。世代交代が進み、大内氏は大内義隆(34歳)と陶隆房(20歳-のちの晴賢)の時代に、尼子氏は尼子経久の孫・尼子詮久(28歳-のちの晴久)が当主となっていた。安芸武田氏も、前年に当主の武田光和が37歳で病死していた。陣代の光和の妻が尼子詮久に当主を求め、若狭武田氏から信実が新当主としてやってきた。光和の弟の子・信重も当主候補ではあったが、落日の安芸武田氏を少しでも盛り返すには尼子氏の庇護が不可欠だった。
家臣の離反などで勢力が衰えていく安芸武田氏とは対照的に、毛利氏は家臣が増え勢力を増していた。新当主・武田信実は、毛利を討ち破るため尼子詮久に軍事行動を要請した。尼子詮久はまず家臣の牛尾幸清2,000人を信実の与力として佐東銀山城へ送り込んだ。そして尼子詮久は3万人を動員し、毛利氏の吉田郡山城を目指した。それを知った毛利元就もすぐさま大内義隆に援軍を要請。大内軍は陶隆房を大将として1万人でやってきたが、武田信実1,000人と牛尾幸清の2,000人に阻まれ、足止めをくらった。毛利元就は単独で尼子詮久3万と戦うことになったのだが、吉田郡山城には籠城兵2,400人、農民・町民が8,000人いた。頭数の上では籠城側がなんとか守りきれる人数だ。
結果、毛利元就は吉田郡山城を守り切り、尼子詮久の本軍3万は出雲へ退去した。それを知った牛尾幸清はすぐさま撤退。武田信実も佐東銀山城には戻らず、牛尾とともに出雲へ撤退し、出雲から故郷の若狭へ帰った。
大戦が去ったあとの佐東銀山城には、武田信重(光和の甥)と300人の兵が残された。大内義隆の命を受けた毛利元就により、銀山城はあえなく落城。信重は自刃し、安芸武田氏は滅亡した。
しかし信重には2歳になる息子がおり、落城前に密かに逃がされていた。安国寺に匿われ、その後京の東福寺で僧侶となる。偶然だろうが東福寺は毛利氏と懇意にしており、その縁でその子は成人後に毛利氏に仕えた。その後「毛利の怪僧」安国寺恵瓊の名で全国に知れ渡ることになる。
御守岩台。かつては岩の上に鳥居と小社があった。
館跡。巨石の上に柱穴を空けて、建物を建てていたようだ。恐らく櫓のような軍事設備があったのだろう。
巨石の奥。大小様々な石がある。
「犬通し」と呼ばれる堀切。連絡路としての役割もあったとのこと。
見張り台。城山の北側を見張る場所。
4.西側遺構
西側遺構へ向かう最初の分岐、火山分れ。先に弓場跡を見てから観音堂跡へ向かう。
弓場跡。お手製の弓矢と的が備えられており、雰囲気がある。
観音堂跡。かつては観音堂があったのでそう呼ばれているが、安芸武田氏の時代からあったのか、廃城後に建てられたのかは分からない。武田信重が自刃した場所と言われる。
この道を降り、上高間と下高間へ向かう。
中門跡。通り過ぎてから振り向いて撮影。
上高間(西の見張り台)から見た広島の街並。
馬場跡。馬をつなぎとめておく曲輪。
最後の分岐。ここは右へ湾曲する道にしか見えないのでそのまま右へ進んでしまいがちだが、そっちへ進むと東山本登山口へ降りてしまい、麓から40~50分かけて車を停めている武田山憩い駐車場へ向かわなければならなくなる。
間違って降りてしまう人が多いそうなので、案内板の設置を求む。
ここを左へ進むのが正解。しかしどこにも道は見えない。ピンクリボンを頼りに、木々の隙間を降って行った。
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