三原城
指 定 | 国指定史跡、続日本100名城 |
遺 構 | 石垣、水堀 |
歴 史 | 小早川家を継いだ毛利元就の三男・隆景が、小早川水軍を効果的に差配するために永禄10年(1567)に三原浦に築いた城。豊臣政権時に五大老となった隆景は筑前国を加増されたが、文禄4年(1595)に秀秋に家督を譲り隠居すると、三原城を居城とした。 |
公共交通 | JR三原駅 – Google マップ |
駐車場 | タイムズ三原駅新幹線口 – Google マップ |
住 所 | 広島県 三原市 城町1-1 |
トイレ | 三原駅構内 |
訪問日 | 2024年7月28日(日)晴れ |
1.天守台周辺

三原城を東西に横断するようにJR山陽新幹線と山陽本線は通り、その本丸の中心に三原駅は建っている。駅の北側の隆景広場に、小早川隆景の像がある。小早川隆景といえば、毛利元就の三男で「三本の矢」の1人として知られる戦国武将だ。
天文10年(1541)、竹原小早川氏の第13代当主・小早川興景(22歳)は大内義隆に従軍し、佐東銀山城を攻めていた最中に病死した。この頃の西国は、山陽に勢力を持つ周防の大内義隆(34歳)と、山陰に勢力を持つ出雲の尼子晴久(28歳-当時は詮久)が覇権を争っていた。佐東銀山城の戦いに勝利し、尼子派である安芸武田氏を滅ぼした義隆は、翌年晴久の本城・月山富田城攻めを敢行した。しかし難攻不落の月山富田城を攻め落とすことは出来ず、味方に付いた国衆たちが次々に離反する中敗走し、嫡男・晴持をも失った。(詳細は【出雲:勝山城】で)
大内派の要のひとりである竹原小早川氏は当主不在のままだった。興景に子がいなかったため、大内義隆は毛利元就の三男・徳寿丸(後の隆景)の入嗣を打診した。しかし元就は難色を示した。義隆の「竹原小早川家中もみな、徳寿丸の入嗣を望んでいるから」との執拗な説得により、元就はしぶしぶ我が子を差し出した。興景が亡くなってから3年後のことだ。義隆が毛利から竹原小早川への入嗣にこだわったのには理由があった。竹原小早川氏は親大内派であり、その領地が出雲から遠い瀬戸内海にあることもあってか、今まで大内を裏切って尼子傘下に入ったことは一度もなかった。一方毛利氏は安芸北部の山手で出雲から近く、二大勢力(大内と尼子)の間を行き来するという境目領主の宿命を背負っていた。つまり元就が大内を裏切って尼子方に降ることを未然に防ぐために、体良く人質を取ったのだろう。事実、これ以降に元就が大内傘下から離れることはなかった。
天文13年(1544)、徳寿丸は11歳で竹原小早川氏の養嗣子となり、木村城(竹原市新庄町)へ入った。そして15歳で元服した際に大内義隆から偏諱を賜り、「隆景」と名乗った。

天守台と、本丸の上を通るJR山陽新幹線。日本で最初の鉄道は明治5年(1872)に新橋~横浜間で開通したが、その後の明治13年(1880)には横浜~神戸まで通り、明治36年(1903)にはここ三原駅も開通した。そのときから120年以上、この石垣と線路のコラボは続いている。

高架下の本丸石垣。三原駅は、三原城を抱きかかえるように建てられている。

天守台の奥に見える山は比高170mの桜山で、山頂付近には桜山城がある。鎌倉時代に山名氏が築いた砦を前身とし、三原城を築いた小早川隆景は桜山城を三原城の詰城としていた。その頃は桜山城ではなく三原要害と呼ばれていた。

天文20年(1551)、小早川隆景(18歳)は小早川本家である沼田小早川氏を継ぐことになった。その年、主君である大内義隆が守護代三人衆(内藤興盛、陶隆房、杉重矩)に討たれるという大事件が起きた。[大寧寺の変]
沼田小早川氏は当主の小早川正平が先の月山富田城の戦いで戦死しており、嫡子の又鶴丸(9歳)を次期当主候補としつつ当主不在のまま家臣団で運営していた。しかし義隆が討たれて不安定な情勢の中では毛利氏に従属するのが得策だと判断し、乃美隆興を中心とした重臣たちの主導により正平の娘(又鶴丸の姉)と隆景の婚姻が取り計らわれ、隆景が沼田小早川氏の当主となった。ここに鎌倉時代から分離していた沼田と竹原は統合され、かつ毛利氏の家臣・小早川氏が誕生した。隆景は沼田小早川氏の本城・高山城(三原市高坂町)に入ったが、すぐに沼田川の対岸の山に新たに新高山城を築いて移った。
三原城が築かれたのはそれから16年後の永禄10年(1567年)のこと。毛利氏は元就(70歳)と輝元(14歳)の二頭体制で、元就の次男・吉川元春(37歳)と同じく三男・小早川隆景(34歳)がそれを補佐していた。世の情勢はというと、畿内は2年前に将軍・足利義輝が三好義継に討たれ混沌とし、西国では1年前に毛利元就が尼子氏を滅ぼして急激に勢力を拡大していた。隆景は小早川氏の本城・新高山城の麓を流れる沼田川の河口である三原浦に、水軍の拠点となる海城・三原城を築いた。
2.二の丸三の丸

後藤門の石垣の一部が復元されている。こちら側に雁木があるので、こちらが門の内側だ。

二の丸の石垣。

後藤門から東へ行った先にある東大手門跡。地面が低いのは、ここが外堀だった証し。

和久原川にある水刎。川はここで90°左へ進路を変えるため、水の勢いを削ぐためにクチバシのように突き出した石垣が設けられた。

船入櫓跡。当時は石垣の周囲は全て海で、船がここを出入りしていた。

ここも海だった。

三原観光協会案内所にある三原城の縄張り図。現在の地図と重ねてあるのでとても分かり易い。
3.天守台

駅のホームにある階段を登ると、天守台に入れる。利用時間は6時半から22時まで。

公園化した天守台。

ちょうど新幹線が広島方面から来ていた。

小早川隆景、引いては毛利氏にとっての最大の戦は、天正4年(1576)から天正13年(1585)まで9年間続いた毛利輝元 vs 織田信長-羽柴秀吉の戦いだろう。図らずも敵対した足利義昭を京から追放し日本の王になることを目指し始めた織田信長と、その義昭を擁護し信長と戦うことを決意した西国の太守・毛利輝元が激突した。
詳細は割愛するが、毛利領16ヶ国のうち10ヶ国(内2ヶ国は半国)を残してあとは差し出すことを条件に、信長亡き後の政権を引き継いだ羽柴秀吉と和睦した。文禄4年(1595)の秀次事件ののち、豊臣政権に五大老という役職が誕生し、毛利輝元と小早川隆景がそれに選ばれた。それ以外の五大老は、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家の3人。
小早川隆景に子はなく、正室の門田大方以外に側室を置くこともなかったため、年の離れた弟を養嗣子としていたが、秀吉が甥の羽柴秀俊(のちの秀秋)を同じく子のない毛利輝元の養子にしようとしたため、身代わりになって秀俊を小早川家へ受け入れた。そして五大老となった文禄4年(1595)には家督を譲り、三原城に入った。小早川の家臣団は、最初から隆景に仕えていたものは皆隆景に付いて行き、秀俊と共に入った羽柴からの者のみが残った。
隆景と門田大方は仲睦まじく、慶長2年(1597)に隆景が急死するまで添い遂げた。その後隆景の家臣たちは毛利本家に帰属した。
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