【出雲:月山富田城】山陰屈指の名城!尼子経久-晴久の本拠地・月山富田城へ登る

月山富田城のジオラマ 西国
月山富田城のジオラマ
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月山富田城

形 態山城址難易度★★---
比 高160m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類スズメ蜂見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  160m
所要時間-  /  30~40分
指 定国指定史跡、日本100名城
遺 構曲輪、土塁、堀切、井戸
歴 史 山陰の覇者・尼子氏の城。尼子清貞経久の代は出雲守護代だったが、主家京極氏が家督問題で衰退すると経久は出雲守護に補任された。政久は名将と言われながら若くして亡くなった。晴久の代で尼子氏の最大版図(11ヶ国を領し、8ヶ国の守護に補任)を築いた。しかし義久の代で毛利元就の執念に敗れ戦国尼子氏は滅亡し、毛利氏の客将として余生を過ごした。
駐車場道の駅 広瀬・富田城 – Google マップ
住 所島根県 安来市 広瀬町 町帳775-1
トイレ各所にあり(城内にも2つ)
訪問日2023年3月12日(日)晴れ

1.駐車場~登城口

月山がっさん富田とだ城の駐車場。3つある建屋は、右から安来市やすぎし立歴史資料館、道の駅@広瀬・富田城、トイレ。

歴史資料館にある月山富田城のジオラマ。江戸初期の堀尾ほりお吉晴よしはる時代のもののようだ。向かって左側(方角は北東)の山にも曲輪は多数見られるが、石垣も建物も無いということは、この頃には使用されていなかったのだろう。

月山富田城は尼子あまご氏の本城として知られている。尼子氏は近江源氏・佐々木京極氏の庶流で、室町初期の1400年頃に京極高詮たかあきが出雲守護を補任ぶにんした際に尼子持久もちひさ(尼子氏2代目)は出雲守護代となり、この城を居城とした。ただし持久は高詮とともに近江に在住し、出雲での活動は子の清定からと言われる。その後、清定きよさだ経久つねひさ政久まさひさ晴久はるひさ義久よしひさと7代続く。中でも、出雲守護となり山陰全土を支配した時の当主・経久つねひさと、最大版図を築いた時の当主・晴久はるひさが有名だろう。

永正5年(1508)、尼子氏の主君・京極政経まさつねが没し後継者問題で京極家が衰退すると、尼子氏は名代の政経娘から出雲の統治を任された。政経の死により隠居した経久だったが、20歳で跡を継いだ嫡男・政久が25歳の若さで戦死すると、再び尼子家当主となった。そして永正15年(1518)には室町幕府から出雲守護に補任された。経久はこの時60歳。政久の子・三郎四郎さぶろうしろう(のちの晴久)はまだ5歳だったため、後継者問題で衰退した主家を見て自分が死ねば尼子は終わると危機感を持っていたのか、その後79歳まで当主を務めた。

天文6年(1537)経久79歳の時、嫡孫・晴久(当時は詮久)に家督を譲った。この時晴久は24歳なので少し遅い継承だが、政久の二の舞にはさせまいと、晴久が十二分に成長するまで待ったのだろう。

その後晴久は戦国の世を武力で渡り歩き、西国8ヶ国の守護に補任され、11ヶ国におよぶ版図を築いた。

登城口付近にある塩冶えんや興久おきひさの墓。塩冶興久は尼子経久の三男だが、享禄3年(1530)に父・経久に対し反乱を起こしている。出雲大社や出雲西部の国衆たちが尼子氏統治の不満のもとに集結し、興久を旗頭に兵を挙げた。出雲を東西で二分する戦となり、当初は興久側西軍が優勢であった。

劣勢の経久はここで思い切ったドラスティックな一手を打った。そもそもこの反乱の原因は、経久が大内派の領国へ侵攻するため出雲西部の国衆に軍役を科したものの大内氏の反撃が厳しく思うような戦果が挙げられず、国衆に何も見返りを与えなかったことであったが、経久はその大内氏に尼子氏の救援を求めた。

大内氏は当主・義興が逝去して嫡男・義隆が跡を継いだばかりで、軍事は筆頭家老の陶興房が取り仕切っていた。大内氏にとっては、尼子経久と塩冶興久が争い合って双方疲弊していくのが望ましいので、劣勢なほうに味方するのが得策だった。そのため陶興房は尼子経久へ援軍を出すことを承諾したのだが、経久は大内から援軍を得たことを喧伝し、勝ち馬に乗ろうとする心理を利用して出雲国内外から味方を増やし、一気に興久軍を叩いた。そして興久は敗れ、妻の実家の備後山内氏のもとへ逃走した。

興久の離反は尼子氏にとって大きな痛手ではあったが、統治体制の問題点が露呈し、乱後の基盤強化へとつながった。

登城口を登って行く。

2.馬乗馬場~千畳平

比高約20mの場所にある細長い曲輪、馬乗馬場

馬乗馬場から勝山城が見える。

馬乗馬場の長さは140mもある。安全な城内にこのような兵の鍛錬場が用意されていることも、尼子軍の強さに寄与しているだろう。

馬乗馬場の上、比高約30mにある千畳平せんじょうひら

張り出しから千畳平の側面の石垣を見る。江戸期の堀尾時代のものになるが、この張り出しには櫓が建てられていた。

3.太鼓壇~花ノ壇

太鼓壇たいこのだんへ向かう。途中にあるトイレは、山城としては大変珍しい。花ノ壇と山中御殿の間にもう1つトイレがある。

太鼓壇の北側は深い切岸になっている。

太鼓壇にある山中幸盛やまなかゆきもり(鹿之介しかのすけ)像。戦国大名としての尼子氏が滅亡したあと、尼子再興軍を結成し「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に願掛けしたという。後世に“山陰の麒麟児”と呼ばれた。

太鼓壇の先にある「奥書院」と呼ばれる曲輪。

花ノ壇へ向かう。

花ノ壇。有力家臣の居館があったという。

今は復元建物が建っている。

花ノ壇から主郭部のある月山がっさんを見る。

4.山中御殿~七曲り

整備事業の説明板とトイレ。黒く囲ったエリアを整備しているとのことだが、このエリアは江戸初期に堀尾吉晴が使用していた曲輪群となる。逆に黒枠外の北側エリア(文章に隠れて挿絵はないが)には、戦国期そのままの遺構が残されているのではないだろうか? 未整備なので危険だったり立入禁止になっていたりするかも知れないが、戦国マニアとしてはそっちのほうにも興味がある。

月山がっさんの麓の石垣で補強された曲輪は山中御殿さんちゅうごてんという。比高は約50m。菅谷口(大手)、御子守口(搦手)、塩谷口の3つのルートがつながっている要の曲輪だ。ここには城主の居館があった。山中やまなか鹿之介しかのすけが有名だから「やまなか御殿」と呼んでしまいそうだが、鹿之介とは何の関わりもない。山の法面のバリカンで刈ったようなところに「七曲ななまがり」と呼ばれる登城道があり、山中御殿と主郭部を連絡している。

菅谷口(搦手)の虎口

虎口のすぐ脇に、主郭部へ連絡出来るルートがある。

千畳平も広かったが、山中御殿はもっと広い。尼子氏歴代の住んでいた屋敷跡を通る。

尼子氏の家紋・平四つ目結ひらよつめゆい。宇多源氏を祖とする近江佐々木一族の証し。

七曲りと呼ばれるつづら折りの道を進む。

距離・角度がランダムなつづら折りの道は、初めて上る者を困惑させるだろう。

主郭部までもう少し。

七曲りの途中にある井戸。今でも水が湧き出ている。

七曲りの終点。数えたら12曲がりだった。

5.主郭部

七曲りを上りきり、主郭部の腰曲輪・西袖ヶ平にしそでがひらへ。

西袖ヶ平の先端。飯梨川が良く見える。

西袖ヶ平から見る三の丸の石垣。

この階段を登って三の丸に上がる。当時からの虎口かも知れないが、こんな直線の斜面ではなかっただろう。

三の丸

三の丸からの景色。比高は約160m。

三の丸の奥に二の丸がある。曲輪の位置は、三の丸より2mほど高くなっている。

三の丸の東端にある井戸。

二の丸

案内板には、第二次月山富田城の戦いについて書かれている。永禄5年(1562)から4年間かけて行われた合戦である。西の太守・大内氏が滅んで8年、毛利元就(65歳)は大内氏の旧領を吸収し、尼子氏に匹敵する大大名になっていた。尼子氏もまた、尼子晴久という至高の当主のもと尼子史上における最大版図を創出していたのだが、この前年(永禄4年)に晴久は48歳で急死していた。毛利元就はこの戦いで尼子氏を滅ぼし、西国の覇者となった。

天文11年(1542)の第一次月山富田城の戦いについては出雲勝山城🔎で書いている。

二の丸の先が本丸なのだが、完全に切り離されているため、一度下へ降りて登らなければならない。

本丸から見る二の丸。

本丸

本丸に建つ石碑。左の大きいほうに「山中幸盛ゆきもり塔」と書かれている。山中鹿之介しかのすけは、尼子を再興しこの月山富田城を取り戻すことは叶わなかったが、その本丸に自身の名を刻まれた。

本丸の奥にある勝日高守かつひたかもり神社奥宮。この月山がっさんに初めて城を築いたのは平氏の家臣・藤原ふじわらの景清かげきよだと言われているが、その時にはすでにここに神社はあったという。景清の築城が1180年頃とすると、少なくとも840年も前だ。勝日高守神社は古事記にも出雲風土記にも登場するという。ここに富田城を築いた尼子氏もまた、勝日高守神社を深く信仰した。

社殿の奥は腰曲輪になっている。

6.大土塁~御子守口

七曲りを下りたところ。山中御殿の南端に、搦手からめて(菅谷口)大手(御子守口)とは別のもうひとつのルート塩谷口がある。

塩谷口の虎口は埋門うずみもんになっている。近世城郭において、城主の逃げ道である埋門は必須設備だ。

城の大手道である御子守口おこもりぐちを守る大土塁。158cmのナオがこんなに小さい。5m以上あるだろう。

御子守口の虎口。

その先は、深い堀と土橋になっている。

関ヶ原の戦いの後、出雲の地を与えられた堀尾ほりお吉晴よしはるの墓

山中やまなか鹿介しかのすけの供養塔。堀尾吉晴の妻が建立したという。戦国大名や戦国武将の夫婦は2人で1つ。夫がインフラ整備等のハード面で尽力すれば、妻は民衆の心に寄り添い、ソフト面で尽力しただろう。尼子時代を懐かしみ、その象徴である山中鹿介をしのぶ人々が多かったのではなかろうか? それで供養塔を建てたものと想像する。

御子守口の麓にある赤門

飯梨川

千畳平の切岸

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