出雲 勝山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 220m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 210m | ||
所要時間 | 3分 / 35分 |
指 定 | 島根県指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、竪堀 |
歴 史 | 尼子氏の家臣・田中三郎左衛門の城。永禄8年(1565)の第二次月山富田城攻めで占拠した毛利元就が改修し、月山富田城の付城として使用した。 |
駐車場 | 広厳寺 – Google マップ |
住 所 | 島根県 安来市 広瀬町 石原558 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年3月12日(日)晴れ |
1.駐車場~登城口
車は広厳寺の駐車場に停めさせていただき、広厳寺へその旨を伝えに行ったあと、勝山城の登城口へ向かう。
矢印看板の通り、民家の手前の道を進む。
獣除けの柵を通過する。
出雲勝山城は京羅木山城砦群のひとつで、2度に渡る月山富田城の戦いで付城として使用された城として知られている。特に永禄8年(1565)の第二次月山富田城攻めでは、毛利元就が約50本もの畝状竪堀を造成し、月山富田城を攻め落として尼子氏を滅亡させている。
歩きにくくルートが分かり難いエリアもあるが、歩きやすいエリアもある。
要所要所にピンクリボンがあるので、それを頼りに上っていく。
2.南曲輪
登城口から35分ほどで主郭部の南曲輪に到着。これは南曲輪のすぐ下にある横堀。
横堀からの連続竪堀(虎口側)。勝山城には、こんな竪堀が40本以上あるという。
こっちの畝状竪堀(南側)もすごい。現物を見た時の感動が写真では伝わりにくいのが残念だ。全国畝状竪堀選手権が開催されれば、出雲勝山城は上位入賞間違いなしの山城だろう。
畝状竪堀のすぐ上にある南曲輪。
南曲輪から月山富田城が見える。
この月山富田城をめぐり最初の大戦(第一次月山富田城の戦い)が繰り広げられたのは、天文11年(1542)のこと。攻め手の総大将は、6ヶ国(周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前)の守護を務める西国の太守・大内義隆(35歳)。総石高は108万石。守り手の総大将は、8ヶ国(出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆)の守護を務める山陰の太守・尼子晴久(29歳)。総石高は115万石。ほぼ互角のこの両者による大戦が行われた背景は2つあった。
① 前年の天文10年に、尼子晴久は安芸の吉田郡山城(毛利元就の居城)を攻めたが、大内義隆の援軍が間に合って尼子軍は撃退された。その際、尼子に従軍した出雲・石見・芸北の国衆たちも多くが討死にした。
② そして同年、山陰の尼子経久(晴久の祖父)が死に、それに呼応するかのように出雲・石見・芸北の国衆たちが尼子に反旗を翻し、尼子討伐のための挙兵を大内義隆へ要請した。
かくして大内義隆は、嫡男・大内晴持と共に天文11年1月に本国周防を出発し、安芸で毛利元就(45歳)を従え、4月には出雲へ侵攻した。出雲の国衆・赤穴光清(49歳)の激しい抵抗に遭ったため赤穴瀬戸山城の攻略に8月までかかったが、その後は大内軍へ挙兵を要請した出雲の国衆(三沢為清と三刀屋久扶)の領地を安全に通過した。10月には本陣を三刀屋へ移し、雪深い山陰の冬を忍び、翌年3月にはこの勝山城より少し西にある京羅木山に本陣を構えた。大国・尼子王国の奥深くに侵攻していくので、誰が味方で誰が敵かしっかり見極め、慎重に行軍する必要があった。
天文12年(1543年)3月から始まった月山富田城攻城戦だったが、尼子軍の戦いかたは、籠城しつつゲリラ的に大内軍の兵站(物資施設と補給路)を叩くというものだった。難攻不落の月山富田城も攻めあぐね、兵站を攻められて大内軍の士気が削がれていく中、国衆たちが正面攻撃を進言した。尼子軍1万5千騎に対し大内軍は4万5千騎だったが、その半数くらいは出雲・石見・芸北の国衆たちだ。その国衆だけで正面突破を試みようというものだった。
4月末、国衆たちは全軍で月山富田城へ向かった。しかし、弓矢は一本も飛び交うことなく大手門は開かれ、国衆たちは悠然と城の中へ消えていった。このとき大内義隆も毛利元就も、目の前で何が起きたのか分からず呆然としていたのではないだろうか?
国衆たちは最初から尼子方だった。大内義隆は1年以上だまされ続けていた。そして兵力は逆転し、四面楚歌の出雲で大内軍は孤立しているという現実を突きつけられた。5月に入り大内義隆は京羅木山を下り、撤退に取りかかった。大内義隆は陸路の石見経由で、大内晴持は美保関から海路で、毛利元就は殿を任せられた。
智将・尼子晴久によるこのシナリオは、天文10年の吉田郡山城攻めの失敗を糧としたものだろう。城攻めを失敗した者がいかに悲惨か、大内義隆と毛利元就はこの時しかと思い知る。義隆自身は周防まで逃げ延びたものの、嫡男・晴持は美保関から出た船が転覆して横死し、毛利元就は殿で尼子軍の強烈な追撃を受けて多くの家臣を犠牲にし、何度も自害することを考えながら、命からがら吉田郡山城まで逃げ延びた。
3.北曲輪
北曲輪へ向かう。勝山城は南北に細長い城で、南端と北端にそれぞれ、技巧的な土塁と虎口で造られた要の曲輪を持つ。急峻な西側は切岸で、なだらかな東側は連続竪堀で防御している。
南曲輪から中央へ向かって3つか4つのゆるやかな段曲輪で構成されており、最も高い位置の曲輪は石で補強されている。
勝山城のほぼ中央にある西虎口。
勝山城の北端にある北曲輪。全周を土塁で囲っている。
北曲輪の東側にある虎口。虎口の外は、連続竪堀で防御している。
北側の土塁を越え、その先に下りてみる。
三重堀切。
460年の経時変化で土砂は堆積しているが、堀切の痕跡はしっかり確認出来る。
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