【美作:岩屋城】西国の両雄、赤松政則と山名政清が覇権を争った岡山屈指の山城・岩屋城へ登る

美作岩屋城の本丸 西国
美作岩屋城の本丸
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美作 岩屋城

形 態山城址難易度★★★--
比 高310m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ -  /  230m
所要時間-  /  40分
指 定岡山県指定史跡
遺 構曲輪、土塁、堀切、虎口、切岸、馬場跡、畝状竪堀、櫓台
歴 史 嘉吉元年(1441年)に赤松氏が消滅し、美作の新たな支配者となった山名一族の山名教清が築城した。応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱で、京の山名宗全の援軍として美作の山名勢も上洛したが、その隙を突き、再興していた赤松政則の軍勢が手薄になった岩屋城へ攻め込んだ。その後3年ほど戦い、美作は再び赤松氏のものとなった。
公共交通電車:美作追分駅(JR姫新きしん線)=バス5分⇒岩屋谷口=徒歩18分⇒岩屋城第一駐車場
駐車場岩屋城第一駐車場。国道181号線沿いにある岩谷簡易郵便局から北へ約1km(5分)
住 所岡山県 津山市 中北上751(岩谷簡易郵便局)
トイレ駐車場にあり
訪問日2024年2月12日(月)晴れ

1.岩屋城第一駐車場

岩屋城第一駐車場

国道181号線沿いの岩谷いわや簡易郵便局のある交差点を北へ1kmほど進むと、岩屋いわや城第一駐車場(簡易トイレ付き)がある。

岩屋城の案内板

美作みまさか岩屋城は岡山県北部(津山市)にある山城で、山名・赤松・浦上・尼子・宇喜多・毛利など、西国の名だたる大名たちが奪い合った要衝の城として知られている。中世の城としては珍しく、築城時期から廃城時期までの大筋の変遷が全て記録に残っているのも特徴だ。そしてもう1つ興味深いのは、この城にまつわる人物で“中村”姓の武将が3回登場していること。1回目は中村五郎左右衛門ごろうえもん、2回目は中村則久のりひさ則治のりはる、3回目は中村頼宗よりむね。残念なことにこれらの中村氏たちの関係は分かっていない。

嘉吉かきつ元年(1441年)慈悲門寺じひもんじのある岩屋山の北側山頂に、赤松氏に代わって新たな美作守護となった山名教清のりきよにより、岩屋城は造られた。播磨・備前・美作の3ヶ国あった旧赤松領は嘉吉の乱により全て室町幕府に没収され、山名宗家の山名持豊もちとよ宗全そうぜん)には播磨が、山名伯耆ほうき守護家の山名教之のりゆきには備前が、山名石見いわみ守護家の山名教清のりきよには美作が、それぞれ与えられた。これにより山名一族は11ヶ国の大勢力となった。

最初の“中村”が登場するのは岩屋城の最初の戦いで、応仁の乱が勃発した応仁元年(1467年)になる。応仁の乱は、幕府管領・細川勝元と山名一族の宗家・山名宗全が京で戦い、守護大名や国衆たちがそれぞれ細川派と山名派に分かれ、日本各地で戦乱が常態化する時代「戦国時代」へとなった戦いである。岩屋城を攻撃したのは、赤松宗家当主・赤松政則(12歳)の軍勢だった。山名教清のりきよが山名宗全を援護すべく軍勢を率いて京へ出向いた隙に、赤松政則は家臣・中村五郎左右衛門ごろうざえもんを大将とした軍勢を岩屋城へ送り込んだ。赤松軍と山名軍はその後3年間戦い決着は付かなかったが、室町幕府の采配により美作守護は山名教清から赤松政則へ交代となった。その際岩屋城の城代は、戦の大将を務めた中村五郎左右衛門ではなく、大河原治久が任命された。

2回目の“中村”はそれから50年後の永正17年(1520年)に現れる。赤松政則はすでに亡く、赤松当主は政則の猶子・赤松義村だったが、赤松家の実権は政則の継室・洞松院とうしょういんが握っていた。赤松家を独自に発展させようとする義村と、出身である細川京兆家のために赤松家を使おうとする洞松院との間でベクトルは異なり、双方は対立した。洞松院方となった赤松重臣の浦上村宗は、中村則久のりひさを使って岩屋城を奪取した。そして赤松義村は殺され、岩屋城は浦上傘下の中村氏によってしばらく統治された。しかし天文13年(1544年)に出雲の尼子氏(大将は尼子国久)が美作へ攻めてくると、動乱の中で中村氏は抹殺され、宇喜多直家の重臣・浜口重職しげもとが岩屋城主となる。

天正9年(1581年)3回目の“中村”が登場する。宇喜多直家は毛利輝元に属していたが、戦局を有利に進めていた織田信長と同盟を結び、毛利輝元と手を切った。それにより岩屋城も織田方となったため、毛利サイドは岩屋城を味方の城にしたいと考えていた。その時、岩屋城奪還作戦を提案したのが中村頼宗という武将だった。頼宗は32人の決死隊を組み、風雨の夜に本丸北側の切岸から本丸に乗り込んだ。作戦は成功し、岩屋城は再び毛利方の城となり、功労者である中村頼宗が新たな城主となった。この“中村”頼宗からは、岩屋城への並々ならぬ思いが感じられる。中村則久の一族で、中村氏の城だった岩屋城を取り返したかったのではないかと思う。

2.慈悲門寺跡

登城口

登城口。ここから登って行く。「いくつあるかなこの石段」と書かれた遊び心のある看板がある。段数を数えながら登ればキツさは半減かも。

慈悲門寺の段曲輪

階段の途中に「慈悲門寺下の砦跡」と書かれた看板あり。案内板の概要図によれば、このあたりは段曲輪だったようだ。

段曲輪群の頂上。

頂上にある広い曲輪。ここは9世紀ごろ(西暦800年代)に建てられた慈悲門寺の跡地で、岩屋城が築城される600年ほど前からあった。「慈悲門寺」の名は、当時の天皇が命名した。嘉吉年間(1441年~1444年)に北の山頂に岩屋城が建てられてから城と寺は共存していたが、岩屋城の廃城とともに慈悲門寺も廃寺になったという。

曲輪の東側にある土塁

3.水門跡

慈悲門寺跡から15分ほど山道を歩き、岩屋城の城域に入った。少し手前に「大手門跡」の看板はあったが、草木で覆われているせいか、虎口らしい形状は分からなかった。ここには「水門跡」の看板がある。

水門跡の上の曲輪に小屋が建っている。

小屋の奥にある龍神池。嘉吉元年(1441年)に岩屋城が築城された際、この池も造られた。

小屋の中にある岩屋城の年表。築城から廃城まで150年、戦国時代とともにあった城だ。

岩屋城の俯瞰図

4.馬場跡

主郭部へ向かう。

この上が馬場跡。

馬場跡。岩屋城で一番広い曲輪。

南端には、鳥居と旗ポールがある。

眺望パネルには、岩屋城の周囲にある陣城跡が書かれている。これは、岩屋城最後の戦いとなった天正12年(1584年)の毛利氏VS宇喜多氏の包囲戦で、宇喜多軍の大将・花房はなぶさ職秀もとひで(35歳)が築いた付城つけじろだ。岩屋城の周囲を囲うように12基あるという。毛利方の岩屋城城主・中村頼宗よりむねはこれを迎え討った。

事の発端は2年前の天正10年(1582年)。備中髙松城をめぐり羽柴秀吉と毛利輝元が対峙していたところ、京で本能寺の変が起こった。秀吉はすぐに畿内へ帰る必要があったため、急遽輝元と講話し、停戦に持ち込んだ。その中で、「美作は宇喜多氏のものとする」と決められた。そのため毛利方の中村頼宗は美作から退去しないといけなかったのだが、岩屋城へのこだわりが強かったのか城の明け渡しを拒否していた。それから2年後、業を煮やした宇喜多秀家が岩屋城を接収するため、軍勢を差し向けたのだった。

龍神池の小屋にあった年表には、「足利義昭の調停により、岩屋城は宇喜多秀家に帰した。」と書かれている。宇喜多方の優勢は疑いようもなく、毛利方(中村頼宗)には、投降するか討死するか餓死を待つかの3択しかなかっただろう。誰が手配したのかは分らないが「義昭の調停」は、中村の面目プライドを保ったまま城の明け渡しを行う、最善の一手だったと思う。

馬場跡からの南方の景色。

5.本丸

本丸へ向かう。

本丸。

落し雪隠。天正9年(1581年)の岩屋城奪取作戦の際、風雨の闇夜に中村頼宗ら32人がよじ登ったという本丸北側の切岸。

本丸から馬場跡を見る。

6.二の丸・三の丸

続いて二の丸へ向かう。常に矢印看板が進路を示してくれている。

本丸東曲輪群を進む。

二の丸

二の丸東側の大堀切

ここだけ少し分かり難いが、赤線の先に道があり三の丸へ続いている。

三の丸への道。

三の丸

三の丸の説明板。土地の人が「さんのうまる」と呼んでいるから「三の丸」で間違いないと書かれているが、岩屋城には山王宮さんのうぐうが祀られていたので「山王丸さんのうまる」の可能性もあるのではないのか?

三の丸下段曲輪

三の丸の切岸。今は草木が生い茂っているが、当時は出丸的な監視場所だったことだろう。

7.手のくぼり

三の丸の東側にある「てのくぼり」と呼ばれる畝状竪堀

幅5m深さ2mというのは、竪堀としては規模が小さすぎる気がする。防御設備として機能していたのか、はなはだ疑問だ。畝状竪堀を造るならその上に横堀と切岸がセットで必要なのだが、それは見られない。「てのくぼり」の意味を調べたが、WEB検索では確認出来なかった。個人的な解釈として「くぼほり」の略、というのを考えてみた。だとすると「手の窪のように浅い堀」という意味になる。

下り口を下りたところに第二駐車場がある。ここもトイレ付き。

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