【長門:萩城】毛利輝元の晩年の居城、中世と近世が融合した石垣の名城・萩城を歩く

萩城 西国
萩城
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萩城

形 態平城址+山城址難易度★★---
比 高130m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  130m
所要時間-  /  20分
指 定国指定史跡、国の重要文化財、日本100名城、世界遺産
遺 構曲輪、石垣、堀、天守台
歴 史 西国の覇者・毛利家の第14代当主・毛利輝元の城。関ヶ原の戦いの際、石田三成の要請に応じて西軍の総大将となったため、2ヶ国に減封となった。その際、安芸の広島から長門の萩へ本拠地を移した。
駐車場指月第一駐車場 – Google マップ
住 所山口県 萩市 堀内2区 83-25
トイレあり
訪問日2022年5月28日(土)晴れ

1.萩城(平城)

①二の丸

萩城二の丸枡形虎口。大きな石を多用した高さ3~4mの石垣で、当時は手前に堀があった。

毛利家第14代当主・毛利輝元

萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元により築かれた。輝元は西国8ヶ国120万石の太守にして豊臣政権時の五大老の一人だが、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れて2ヶ国29万石に減封された敗軍の将としてのイメージのほうが強いだろう。毛利といえば、NHK大河ドラマ「毛利元就」が放送されたのは1997年で、もう25年も前になる。中国地方の戦国時代を舞台にした大河をまたやって欲しいものだ。そこで毛利輝元を主人公とした場合を考えてみた。

毛利家最大の合戦「厳島の戦い」の時、輝元は2歳。輝元が当主となった後毛利家最大版図を築いたものの、その後の織田信長との全面戦争では九州の大友宗麟に西から牽制されて畿内へ討って出ることが出来ず、専守防衛を余儀なくされる。三木城-鳥取城-備中境目七城の戦いで、西国方面軍の総大将・羽柴秀吉に次々と領土を切り取られる。(←毛利方の戦略なので想定内という説もある。)本能寺の変を機に毛利の命運をその秀吉に託した結果、豊臣政権の五大老に就任! がしかし、五大老のツートップは徳川家康と輝元の叔父の小早川隆景。秀吉の死後台頭する徳川家康に危機感を持ち、盟友の石田三成らと連携して家康をなんとかしようとしたのだが、関ヶ原の戦いではリスクマネージメント不足により毛利秀元らに明確な指示を出していない間に戦が始まり、毛利一門は何も出来ないままわずか6時間後に西軍は敗北。そして改易の憂き目にあうところを黒田長政と吉川広家の密約(とはいえ両主君とも内容を把握しているが)によりぎりぎり助かり、8ヶ国から2ヶ国の減封で収束を迎える。毛利輝元は織田信長や豊臣秀吉のようなスーパーマンではなかったというだけで史実を見る限り決して無能な人物では無いと思うが、大河ドラマにはスーパーマンが求められるので主人公の座はだいぶ厳しいか。

②内堀

二の丸を抜けると水堀があり、土橋を渡った先は本丸になる。

本丸の奥にそびえる指月山には、詰城となる萩城詰丸(萩城要害)がある。左奥の石垣が天守台

関ヶ原の戦いの敗北により周防・長門の2ヶ国に減封となった毛利輝元(47歳)は、広島城に代わる新たな城の候補地として長門・周防の3つの町「山口」「防府」「萩」を幕府へ打診し、幕府から「萩」を指定された。「萩は日本海に臨む要害の地なので」との説明があったそうだが、瀬戸内海に面した「防府」や、瀬戸内海から20km内陸にある「山口」のほうが、畿内へ行くには断然早くて便利だ。萩というと、少しでも遠くへ追いやった感は否めない。

家康の命により輝元は出家し「幻庵宗瑞」と名乗り、形式的にだが家督は幼い嫡子・秀就(5歳)が継いだ。萩城の築城には4年を要したが、築城が始まった慶応9年(1604)にまず本丸御殿が出来ると、輝元と秀就はすぐ萩城に入城した。

③本丸

本丸枡形虎口にある指月公園料金所。営業時間は8時から18時半で、平日・土日ともに営業している。ここで入場料を払って入るのだが、営業時間外でも公園(萩城)内に入ることは出来る。私は朝7時ごろ入場したので、帰る際に支払った。ちなみに御城印もここで売っている。

萩城の案内板。

本丸

内堀に面した石垣は雁木になっている。多くの守備兵を石垣の上に素早く配置させるのに適した全面階段状の構造だ。

石垣に上ってみる。火縄銃の有効射程距離は15間(約27m)と言われているので、この水掘は幅37~38mあるため、充分防御出来ている。

一度石垣から下り、天守台へ向かう。

天守台

江戸初期に、5層5階の望楼型天守がここに築かれていた。明治初期に廃城令により取り壊された。

2.萩城詰丸(指月城)

①登城道

本丸の西側奥にある萩城詰丸への登城口

5月末なので羽虫が多い。蚊などの羽虫が顔や腕の周りを飛び回っていたが、防虫スプレーの効果でどこも刺されなかった。

②詰丸虎口

登城口から約20分で萩城詰丸に到着。

ここも枡形虎口になっている。

③二の丸

虎口より一段高い場所に二の丸がある。

詰丸の案内板

指月しづき山に築かれた萩城詰丸だが、元々ここには吉見氏の城・指月しづき城があった。

吉見氏は石見の国衆で、萩から50km東にある津和野城を本拠地とし、周防の大内氏に臣従していた。そして同じく大内氏に臣従している七尾城の益田氏と、領土を巡って100年以上抗争を続けていた。長門国阿武あぶ郡(山口県北部)は、海側を益田氏が、陸側を吉見氏が占拠していた。

吉見正頼まさよりが当主だった天文20年(1551)、大寧寺だいねいじの変が起きた。大内義隆よしたか(44歳)がすえ晴賢はるかた(当時は隆房-30歳)に討たれると、大内氏の実権は陶晴賢が握った。そしてクーデターの盟友・益田藤兼(22歳)とともに吉見正頼(38歳)を攻撃した。兵力の差は歴然としており吉見氏の滅亡は時間の問題だったが、毛利元就(54歳)-隆元(28歳)が反陶氏の立場で挙兵したため、状況は変わる。毛利が陶や益田と戦うことで、吉見氏は滅亡を免れた。そして4年後の厳島の戦いで陶晴賢が敗れると状況は逆転。吉見正頼は益田藤兼から萩を奪い、益田の勢力を阿武郡から追い出すことに成功した。正頼は指月山に城を築き、萩の街並みの整備も行った。萩の城下町といえば毛利氏により造られたと思いがちだが、実は基礎を築いたのは吉見氏だった。

しかし関ヶ原後の毛利氏の転封により、萩は毛利の本拠地となった。萩を奪われた吉見氏(当主は正頼の孫・広長)は毛利と対立し、自害を命じられ吉見氏は滅亡した。

二の丸の西の端・瀬戸崎矢倉跡から臨む日本海。

④本丸

二の丸の東側のもう一段高い場所が本丸

貯水池と巨石。

本丸の東側にある埋門うずみもん。埋門は石垣と同じ高さに作ることで外部の者には分かりづらくなっており、城からこっそり抜け出す時の通路となる。

本丸の東の端・辰巳矢倉跡から見る萩城下町。

昼食「瓦そば」

昼食は、山口名物・瓦そば。

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