【阿波:勝瑞城&一宮城】戦国最初の天下人・三好長慶のルーツ、勝瑞城と一宮城を巡る

四国
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城リスト

勝瑞城

形 態平城址+館跡難易度-----
比 高整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、土塁、水堀
歴 史 勝瑞は、讃岐・阿波・淡路3ヶ国における政治経済の中心地として「天下の勝瑞」と称され、約240年栄えた。阿波守護・細川氏が9代、その後台頭した三好氏が3代、勝瑞城を居城とした。
駐車場勝瑞城 – Google マップ
勝瑞城:県道14号線沿いに駐車スペースあり
勝瑞館:敷地内に広い駐車場あり
住 所徳島県 板野郡 藍住町 勝瑞 東勝地29-2
トイレ勝瑞館に併設されている展示室内にあり
訪問日2022年6月26日(日)晴れ

1.勝瑞城

勝瑞しょうずい城の御城印は藍住町にある「GS武田石油」で購入出来るとの前情報だったが、あいにく臨時休業だった。隣に「シューズショップタケダ」という店があったので、同じ経営者なのかな?御城印を売ってくれるかな?と逡巡していると、店の人がわざわざ外へ出て来て「御城印ですか?」と聞いてくれて、無事購入出来た。

勝瑞しょうずい城の入り口に石碑が建っている。右に2本、左に1本。右から順に「史蹟 勝瑞城趾」「西国守護 三好長治公一族菩提所(?)」「臨済宗妙心寺派 龍音山 見性寺」と読める。

明確な駐車場の表示が無かったので勝瑞事務所に電話して聞いたところ、芝生の上以外ならどこに停めても良いですと快く返事を貰った。そこで車は、石碑の間を通ってすぐ左のスペースに停めさせていただいた。

勝瑞城南側の水堀

勝瑞城は三好長治の城として知られている。長治は三好長慶の甥で、阿波三好氏の2代目当主となる。

少しややこしいが、もともと三好氏は阿波国三好郡芝生しぼう郷を拠点としており、阿波細川氏の被官として勝瑞に出仕していた。享禄4年(1531)阿波細川家当主・細川晴元はるもとは父の代からのライバル・細川高国たかくにを倒し、細川京兆家(管領)の座に返り咲いた。そして京兆家の治める畿内を拠点とした際、阿波細川氏(阿波守護)を弟の氏之うじゆきに継がせた。三好家もそれに応じて畿内を拠点として細川晴元に仕える組と、勝瑞に留まって細川氏之に仕える組に分かれる必要があった。翌年父の死により家督を継いだ三好長慶(当時は千熊丸せんくままる-10歳)は三好宗家として畿内へ、長慶の弟・実休じっきゅう(当時は千満丸せんみつまる-5歳)は別家を立てて勝瑞に残った。

それから約20年後の天文22年(1553)に、細川氏之(37歳)が家臣である三好実休(当時は之虎ゆきとら-27歳)に斬りかかり逆に斬られるという事件が起きた。真相は闇だが、阿波細川家は若年の真之さねゆき(15歳)が継ぐこととなり、実休が勝瑞での実権を握る。三好長治はその実休の嫡男で、勝瑞の最高権力者の2代目となる。

勝瑞城の本丸。戦国中期の城としては珍しい平城だ。この芝生の上は駐車禁止。

本丸にある三好家の菩提寺・見性寺けんしょうじ

北側の土塁の上に笹が生えている。矢竹という笹で、矢を作るのに適しているという。

西側も土塁が残っている。

勝瑞城北側の水堀。

2.勝瑞館

①勝瑞館跡

勝瑞城の見学を終え、続いて交差点のはす向かいにある勝瑞館しょうずいかんに車で移動した。

この広大な敷地に、戦国時代屈指の守護所・勝瑞館が建っていた。ここは讃岐・阿波・淡路3ヶ国における政治・経済・文化の中心地で、「天下の勝瑞」と呼ばれていた。在りし日の勝瑞館を想像復元CGなどで見れないものだろうか?

復元された建物。

枯山水庭園

②勝瑞城館跡展示室

勝瑞館跡の南側にある史跡勝瑞城館跡展示室へ向かう。

展示室内で三好長慶ながよしをNHK大河ドラマに推す署名活動を行っていた。そこで私は、自分とナオと子供2人の分まで署名しておいた。

三好長慶を主人公とした場合の懸念点は3つ。①登場人物が皆、有名とは言いがたい面々になること。②畿内は豊かな国で人口に比例して権力者も多いため、各々の利害関係で敵味方が頻繁に入れ替わること。③長慶が死ぬ前後で三好家は衰退し、分裂して滅亡する(いくつかの庶流勢力は残る)のでクライマックスをどこに持っていくのか難しい、といった所か。①②③はドラマ化しづらい三重苦ともいえる。しかし興味深く面白いエピソードが多いのも事実で、是非大河ドラマ化を実現して欲しい。例えば三好氏の興亡を主軸として主人公を一人と決めず、朝ドラ・カムカム方式で、三好長慶→三好義継よしつぐ十河そごう存保まさやすと物語を繋いでいけば、最後は羽柴秀吉と一緒に長宗我部元親に勝利してカタルシスを確保しつつ、戸次川の戦いで討死して終われば大団円か。

展示室の窓から見た勝瑞館跡。見えてる平地は全て勝瑞館の敷地だった。

勝瑞館にまつわる興味深いエピソードとして、小少将こしょうしょうという呼び名の女性が挙げられる。役職か何からしく、小少将は日本各地に4人ほどいる。本名は不明。阿波の国衆・岡本牧西ぼくさいの娘であることだけ分っており、ここでは小牧殿こまきどのとしておく。

小牧殿は阿波守護・細川氏之うじゆきの側室として勝瑞館に入る。天文7年(1538)に正室に先んじて嫡男(後の真之さねゆき)を出産する。阿波細川家の次期当主の母の座が確約されたのだが、天文19年(1550)頃から家臣の三好実休じっきゅう(当時は之虎ゆきとら)と関係を持つようになる。実休にはすでに妻がいたので略奪愛だ。天文19年に何があったかというと、畿内で三好長慶(実休の兄)が父のかたきである細川晴元(氏之の兄)を畿内から追放し、細川政権は崩壊して三好政権が樹立していた。

小牧殿の分かり易い変心から3年後の天文22年(1553)、細川氏之は三好実休に討たれる。畿内が三好政権になった後も氏之と実休の関係は良好だったというが、突然その関係は破綻し、氏之が実休を討とうとして逆に討たれた。

氏之が死ぬと、小牧殿は三好実休(この時出家し実休を名乗る)の正室の座に付いた。そして2人の男子(後の長治ながはる存保まさやす)が生まれる。しかし永禄5年(1562)にその実休が岸和田で戦死すると、小牧殿は「細川から三好に乗り換えた成功体験をもう一度」と考えたのだろうか、今度は三好家家臣筆頭の篠原長房ながふさの正室になろうとする。“忠義の塊”のような長房にはきっぱり断られたものの、長房の弟・篠原実長さねながの正室となることに成功した。

小牧殿が巻き起こす(?)事件はまだまだ続く。篠原実長の正室になって11年後の元亀4年(1573)、阿波三好家当主・三好長治(20歳)が篠原長房を攻め、自刃に追い込んだ。長治の軍には、細川真之と篠原実長もいた。いづれも小牧殿の身内(子と夫)だ。この事件を機に長治への求心力は衰え、家臣や国衆たちの反発が強くなる。篠原長房といえば、三好実休亡き後の長治(当時9歳)を支え、卓越した政治力・軍統率ぐんとうそつ力で阿波三好家中をまとめた人物だ。昔、父・篠原長政ながまさが10歳の三好長慶を支えたように長房もまた幼い当主を支えたのに、その長治から刃を向けられることになるとは想定外だったことだろう。

阿波の国だけの話なので、全国区の北条政子や日野富子のように有名ではないが、歴史を動かしたという点では小牧殿も彼女らと比肩し得る人物だと思う。篠原長房は元亀年間の織田信長包囲網の一翼を担う人物で、武田信玄・三好長逸ながやす・篠原長房の3人が同時期に死んだため、信長は勢力を盛り返したと言われている。(通説の武田信玄ひとりが死んだためというのは間違い。)

小牧殿の伝説には続きがある。天正7年(1579)に土佐の長宗我部ちょうそかべ元親もとちかが阿波に侵攻し制圧すると、今度は長宗我部元親の側室に納まり、天正11年(1583)に男子(後の右近大夫)を産んだという。だが細川氏之との子・真之を産んだのが15歳だとしたら、三好実休との子は30歳と31歳で産んだことになり、だとするとこの時推定60歳。これはさすがに無理があるので、こちらの小少将は別の人物なのだろう。

一宮城

形 態山城址難易度★★---
比 高120m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  120m
所要時間-  /  20分
指 定徳島県指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、竪堀
歴 史 三好実休の家臣で一門衆の小笠原成助(一宮成助)の城。三好長慶の妹を妻としていた。
駐車場一宮城跡 登山口 – Google マップ 登城口にあり(2~3台)
住 所徳島県 徳島市 一宮町 西丁
トイレ登城口にあり
訪問日2022年6月26日(日)晴れ

勝瑞城から約30分で一宮城に到着。一宮城は阿波小笠原氏の城で、信濃小笠原氏を本家とする小笠原一族だ。鎌倉時代に源頼朝の命により、阿波守護としてこの地に来た。室町時代になると、新たな阿波守護として足利尊氏に派遣された細川氏に敗れ、臣従した。三好長慶の三好一族は阿波小笠原氏の庶流だと言われているが、本人たちがそう言っているだけで確たる証拠はないという。

3.一宮城 登城口

一宮城の登城口。案内板、トイレ、杖、駐車場あり。登城口に必要なものは一通り揃っている。御城印や缶バッチの無人販売も行っている。

駐車場はここ。幅約2mの道路を挟んで登城口の向かいにある。切り株に注意して停める必要があるが、2台~3台は停められる。

駐車場の奥の太鼓橋(この角度だとアーチが見えない。斜めから撮るの忘れた><;)を渡った先に、一宮いちのみや神社がある。鎌倉時代はここが阿波国一宮だったので、その名残だろうか。室町時代になり阿波国一宮は、細川氏の勝瑞城近くにある大麻比古おおあさひこ神社になった。

天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国攻めの時、一宮城は長宗我部元親の統治下にあった。重臣・谷忠澄ただずみが守る5,000の兵に対し、羽柴秀長を総大将とする秀吉軍50,000の軍勢が攻めて来て、一宮神社を含むこの辺一体は焼け野原となった。江戸初期の承応2年(1653)、阿波藩3代目藩主・蜂須賀はちすか光隆により一宮神社は再建された。

登城開始。しばらくは石階段が続く。

登って左側にある最初の曲輪、倉庫跡

道の脇にある湧水

主郭部手前にある要の曲輪、才蔵丸の虎口

才蔵丸

先へ進む。

4.一宮城 主郭部

門跡。右へ行けば明神丸、左へ行けば本丸という鞍部。

明神丸の手前にある縄張り図。明神丸を無視して左の帯曲輪から本丸を目指すと、背後を明神丸の兵に攻められ、本丸の兵と挟み撃ちにされる。

①明神丸

明神丸

②本丸

帯曲輪を通って本丸へ。

本丸の石垣

本丸

天正5年(1577)一宮城城主・小笠原成助なりすけは、細川真之さねゆきが土佐の長宗我部元親の力を借りて阿波三好氏に反旗を翻したとき、同調して一緒に三好長治を討った。当主不在となった阿波三好家は、長治の弟で十河そごう家を継いでいた存保まさやすが同時に継いだ。

その後、成助は長宗我部元親を後ろ盾として三好の本城・勝瑞城を攻め、十河存保と争奪戦を繰り広げた。しかし三好一族のバックには羽柴秀吉がいたので戦果は思うように上がらず、苦し紛れに羽柴方に内応したため、長宗我部元親にそれを咎められて謀殺された。

小笠原成助が思い描いていた青写真は、阿波一国の国主に復帰することだったのであろうが、捲土重来は果たせなかった。

昼食「中華そば いのたに」

お昼ご飯は、一宮城と同じ徳島市にある徳島ラーメンの発祥の店・中華そば いのたに

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