【伊予:河後森城&黒瀬城】伊予の“戦う貴族”西園寺実充と公広ゆかりの河後森城と黒瀬城を巡る

黒瀬城から松葉城を望む 四国
黒瀬城から松葉城を望む
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河後森城

形 態山城址難易度★----
比 高70m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  70m
所要時間-  /  10~20分
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、堀、切岸[復元]屋敷、門
歴 史 伊予南部の国衆・河原淵氏の城。土佐一条氏の渡辺教忠が養嗣子となり跡を継いだ。豊臣期には戸田勝隆や藤堂高虎が、江戸期には伊達家家老・桑折こおり氏が入城した。
駐車場河後森城跡 風呂ケ谷駐車場 – Google マップ
住 所愛媛県 北宇和郡 松野町 富岡
トイレ入口付近の「やまぶき庵」のトイレ
訪問日2022年11月26日(土)曇り 時々雨

1.河後森城 登城口

河後森かごもり城は、伊予国(愛媛県)と土佐国(高知県)の国境付近の伊予側にある城で、馬蹄状のU字の形をした曲輪群が特徴的だ。室町初期頃に伊予南部(宇和郡)の国衆・河原淵かわらぶち氏により築かれた。河原淵氏は伊予南部を支配していた西園寺さいおんじ氏の被官として、西園寺15将のひとりに数えられている。

戦国末期に河原淵氏は、西園寺氏と敵対する土佐一条氏の一族・渡辺教忠のりただを養嗣子に迎えている。不思議な話だが、河原淵氏はその後一条氏へ鞍替えすることなく、それまで通り西園寺氏の被官を続けている。西園寺氏も一条氏も京の公家である点は同じだが、四国へやってきて戦国大名化した西園寺氏とは対照的に、一条氏は公家のスタンスを貫いたためだという。“戦国大名”は家臣団を編成し、彼らに軍役を科して軍事活動を行うことを基本としている。対して一条氏は婚姻関係などで地域の武士と懇意になり、土佐国2郡(高岡郡と幡多郡)の支配権を維持していたものの、傘下の国衆たちへの指示は直接行わず、武士を通して行っていた。一条氏といえば関白五家のひとつで公家のトップに君臨する家柄。京との強いパイプを維持したまま土佐に在住する一条氏とは、仲良くなりたい者、利用したい者は多かっただろう。

永禄11年(1568年)、伊予北部の河野氏の軍勢(来島くるしま村上通康みちやすと平岡房実)が安芸毛利氏の援軍とともに宇都宮豊綱とよつな(49歳)の大津城(現・大洲城)を攻めた。高島たかしま鳥坂とさかの戦いと呼ばれる伊予最大の合戦だ。土佐一条家当主で宇都宮豊綱の娘婿でもある一条兼定かねさだ(25歳)は宇都宮氏の救援のため土佐から出陣した。土佐から大津へ向かうルートは2つ。宇和盆地を通るルートとその東の山間を通るルートだが、どちらも最初に河後森城のある鬼北きほくを通ることになる。

河後森城の城主・渡辺教忠は選択を迫られた。西園寺氏の被官として西園寺に敵対する一条兼定と戦うのか、一条一族として一条兼定に協力するのか。教忠の選択は「兼定に協力する」だった。一条兼定は安全に鬼北を抜けると、山間のルートを通って大津へ入ることが出来た。

駐車場で待機中は傘がいるかどうかの微雨だったが、登城予定時刻には雨は上がっていた。足下に気をつけつつ河後森城を目指す。

井戸はUの字に連結する曲輪群の湾曲している場所にある。

後方には70mの切岸がそびえる。

2.西曲輪群

この上の西第十曲輪から、尾根伝いに西曲輪群が続く。

①西第十曲輪

西第十曲輪の虎口。(2024年に、ここに復元門が建てられた。)

西第十曲輪。曲輪には、堀立柱建物が復元されている。地面に掘った穴に柱を差し込み建物を建築する手法だ。礎石建物のほうが建築法としては優れている。

曲輪の周囲は土塁で囲われており、その上には多聞櫓があったと言われている。

巨大なペーパークラフト(?)の馬が2頭いた。

Uの字の反対側の端にある曲輪が見える。古城と呼ばれる曲輪だ。渡辺教忠の頃は、あそこが本丸だったのだろう。

②西第九~西第四曲輪

西第九曲輪。ここから段曲輪が続く。

西第八曲輪西第七曲輪

西第六曲輪西第五曲輪

③西第三-西第二曲輪

西第三曲輪

西第三曲輪と西第二曲輪の間の堀切

西第二曲輪

3.本丸

西第二曲輪から土橋を介して本郭ほんかく(本丸)へ続く。

本郭ほんかく(本丸)。河後森城で最高地点にある曲輪だ。豊臣期には天守が建っていたという。その後一国一城令により撤去され、宇和島城三の丸の月見櫓に転用された。

本郭から西第十曲輪が見える。

地域の学生が作った案内板とイラストパネル。

本郭からの景色。

4.東曲輪群

東曲輪群を経由して古城へ向かう。

東第四曲輪古城第二曲輪の間の堀切に城門の屋根が見える。

下へ降りてみた。

5.古城

小雨が降ってきたのでフードを被ってしのぐ。古城第二曲輪から古城本丸へ。

古城本丸。室町時代から戦国時代にかけて使用された曲輪とのこと。つまり河原淵氏による築城から戦国末期の渡辺教忠まで、ここが河後森城の本丸だった。

6.新城

最後の曲輪、新城へ向かう。

新城

新城から、西第十曲輪と本郭が良く見える。

7.道の駅「広見森の三角ぼうし」

河後森城から約10分のところにある、鬼北きほく町の道の駅@広見森の三角ぼうし。

黒瀬城

形 態山城址難易度★★---
比 高130m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ20m  /  110m
所要時間3分  /  15~20分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀切、井戸跡
歴 史 伊予南部(宇和郡)の戦国大名・西園寺実充-公広の城。永禄年間の前半頃(1558~1565年)に、松葉城から黒瀬城へ本城を移した。
駐車場市営無料駐車場(黒瀬城跡) – Google マップ、宇和運動公園に上がる道路沿いにも駐車場あり
住 所愛媛県 西予市 宇和町 卯之町3-517
トイレあり
訪問日2022年11月26日(土)曇り 時々雨

8.黒瀬城 登城口

道路沿いの駐車場に車を停め、宇和運動公園陸上競技場トラックの東側へやって来た。黒瀬城へは陸上競技場トラックの西側の登城口から上る予定で、ここは御城印ポスト(無人販売所)に用があったので、助手席で寝ているナオは起こさずにそのままにしておいた。

御城印ポストだけだと思って来たが、大きな案内板もあるウエルカムな登城口だった。

案内板は今年(2022年)に作られたばかり。山城でこれだけ立派なものは貴重だ。

城のイメージ図を見ていると、草刈り機を持った人たちがやって来て、声を掛けられた。この案内板や御城印を作製している「西園寺と山城を活用する会」の人たちだった。どれくらいの頻度で草刈りを行っているのかは知らないが、登城のタイミングがピッタリ合うのは巡り合わせだろう。「一緒に登りませんか?」と誘われたので、後に続いて登ることに。

会の人たちは皆多数の荷物を持っており、成り行きで私もリュックや草刈り機を引き受けた。(登城道の写真は帰路で撮影。)

9.曲輪群

①段曲輪

登ること10~15分くらいで休憩所(段曲輪)に着いた。

肱川を挟んで向かいの山に、伊予西園寺さいおんじ氏の旧本拠地・松葉城がある。西園寺実充さねみつが当主の時、土佐の一条兼定が攻めて来て籠城戦を展開したという。しかし松葉城には井戸がないため苦戦を強いられた。城の内部に水の手が必要だと痛感した実充は、この山に水が出ることを発見し、ここに黒瀬城を築いたという。(会の人談)

もうひとつ興味深いのは、黒瀬城の目の前を北から南へ流れている肱川ひじがわ。南へ流れているのだから河口は南かと思いきや、なんと北に河口がある。平面の地図を見ても全く理解出来ないが、南へ4km先に海はあるものの、肱川は海の手前で海を避けるように反時計回りに円弧を描きながら180°向きを変えると、宇和の北にある大洲を通って北西の河口から瀬戸内海へ流れ出ている。宇和の南は山に阻まれているのと、宇和盆地は意外に高所(黒瀬城は比高130mなのに標高は342m)にあるため、このような地勢になっている。

段曲輪の上の土塁

②三の丸

三の丸

三の丸の北側の帯曲輪

③二の丸

二の丸。井戸跡がある。三のくるわ、二のくるわと看板はあるものの、休憩所からここまで5~6つの段曲輪があり、どこからどこまでが三や二なのかは分からない。

④帯曲輪

二の丸から南側の帯曲輪を通って本丸へ向かう。

10.本丸

本丸へは、帯曲輪から180°方向転換して登って行く。

本丸の枡形虎口。だいぶ浅くなっているので写真だとほとんど分からないが、枡形をしている。

本丸

本丸の北側の帯曲輪。登城口の縄張り図には横堀と書かれていたが、現地には“帯郭おびくるわ”の看板がある。どちらであっても、本丸を守るための防衛線として機能していたのだろう。

西の端から本丸全体を見る。この広さが西園寺氏の勢力の大きさを物語っている。

西園寺実充さねみつのライバル、宇都宮豊綱の伊予国喜多郡や一条兼定の土佐国二郡はともに3万石程度なのに対し、西園寺の宇和郡は10万石あった。しかし豊綱と兼定は九州の大友宗麟と同盟しており、遠交近攻のお手本のような外交戦略をもって西園寺実充を北・西・南から挟み撃ちにし追い詰めた。弘治2年(1556)には実充の嫡男・公高きんたかが、宇都宮豊綱との戦いで命を落とした。永禄8年(1565)には実充は体調を崩し、出家して家督を甥の公広きんひろに譲った。

風向きが変わるのは翌年の永禄9年(1566)のこと。この年に起きた重大事件といえば、山陰の太守・尼子氏の滅亡。それにより毛利元就は西国の覇権を握り、九州の大友宗麟との戦いに注力出来るようになった。そうなると大友宗麟は伊予へ援軍を出せなくなる。さらには西園寺氏は毛利氏と元々同盟関係にあったので、救援要請を出しやすくなる。友の友は友という理屈で、毛利元就の盟友・河野氏も西園寺公広の救援に動いた。

永禄11年(1568年)、伊予北部の河野氏の重臣・来島くるしま村上通康みちやす(49歳)と平岡房実(55歳)が安芸毛利氏の援軍とともに宇都宮豊綱とよつな(49歳)の大津城(現・大洲城)を攻めた。西園寺公広きんひろ(31歳)は、河野・毛利方として出陣。土佐一条家当主で宇都宮豊綱の娘婿でもある一条兼定かねさだ(25歳)は宇都宮氏の救援に向かったが、戦は河野・毛利・西園寺方の勝利に終わった。宇都宮豊綱は河野氏に捕まり、一条兼定は宇都宮氏を助けられなかったということで、近隣の国衆からの求心力を失った。

道後温泉

道後温泉。愛媛県松山市にある日本最古の温泉。3000年の歴史を持ち、日本書記にも登場する。源泉100%で温度も変えていないそうだ。何も足さない何も引かない、王道の温泉だ。

本館別館飛鳥の湯椿の湯の3つを「道後温泉」と呼ぶ。去年来た際は、松山市内であれば全て道後温泉だと思い、全然違う温泉に行ってしまった。本館は受付終了だったので、椿の湯に入った。本館と飛鳥の湯は次の機会に。

晩ご飯は、宇和島鯛めし! 宇和島鯛めしは、鯛の刺身と生卵を濃いタレで混ぜ合わせ、ご飯に乗せて食す。

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