【伊予:能島城】村上海賊が支配した瀬戸内海の要塞・能島城に上陸する

能島城の潮流 四国
能島城の潮流
この記事は約8分で読めます。

能島城

形 態海城址難易度-----
比 高30m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、切岸、犬走り
歴 史 瀬戸内海の芸予諸島を支配した三島村上氏のひとつ、能島村上氏の本拠地。本州に近い因島村上氏や四国に近い来島村上氏はそれぞれ毛利氏・河野氏の影響を強く受けたが、その中間にいた能島村上氏はどちらにも属さず独自性を保持していた。戦国末期の当主は村上武吉-元吉。
駐車場能島水軍潮流体験船・水軍レストラン – Google マップ
住 所愛媛県 今治市 波方町 波方乙497
トイレ乗船場(レストラン能島水軍)
訪問日2022年11月27日(日)晴れ

レストラン能島のしま水軍にある案内板。

能島城は、能島のしま村上氏の城として知られている。鎌倉時代に信濃村上氏の庶流が芸予諸島へやって来て勢力を拡大した。その村上氏には3人の息子がおり、長男は能島のしま、次男は来島くるしま、三男は因島いんのしまをそれぞれ本拠地とした。伊予村上氏もしくは三島みしま村上氏と呼ばれるが、「村上水軍」や「村上海賊」という呼称のほうが一般的だろう。

予約している「能島城跡上陸&潮流クルーズ」の出航時間にはまだ余裕があるので、先に村上海賊ミュージアムへ。

1.村上海賊ミュージアム

村上海賊ミュージアム。砦のような外観をしている。

「村上海賊の娘」のレリーフ。「村上海賊の娘」は、三島みしま村上氏の全盛期を築いた能島のしま村上武吉たけよしの娘・きょうを主人公とし、天正4年(1576)の第一次木津川の戦いを舞台にした長編歴史小説だ。漫画化もされている。

村上海賊の名を全国に知らしめた高い機動力を誇る小早船(復元)。写真は見切れているが、船の側面には「武吉たけよし」と書かれている。当時の船に当主のいみなが書かれていたはずはないが、「村上武吉」の名をアピールするには良いと思う。

村上景親かげちか像。武吉たけよし(父)と元吉もとよし(兄)亡き後、当主である元吉の子・元武もとたけを支えた。「村上海賊の娘」にも登場し、主人公で姉のきょうに振り回される愛嬌のある弟として描かれている。その後、元武に子がいなかったので景親の孫・就親なりちかが継いだ。令和の現在、就親から数えて14代目の方が当主となっている。

能島城の復元図。戦国の城の復元図でおなじみの香川元太郎さん作。村上海賊ミュージアム内はほとんど写真撮影禁止となっている。時間になったので、クルーズ船の乗船場があるレストランへ。

2.潮流クルーズ

レストラン能島水軍の中が受付で、その反対側へ出ると乗船場がある。今現在、能島城へのアクセスはこのクルーズのみとなっている。

いざ出航!

出航から5分で、目的地が近くに見えてきた。左のお椀のような島は鯛崎たいさき(鯛崎出丸)。右の島は能島のしまで、上から見ると三角形の手裏剣のような形をしている。これらを総して能島城と呼ばれる。

三島みしま村上氏3氏は一門衆だが、領地の関係で立場は異なっていた。本州に隣接する因島村上氏は安芸の小早川氏(毛利氏)と、四国に隣接する来島村上氏は伊予の河野こうの氏と、それぞれ親交があった。一方、能島村上氏は本州とも四国とも離れているため毛利氏や河野氏の顔色をうかがう必要はなく、3氏の中では独立性が強かった。

能島村上武吉たけよしの幼少期である天文年間(1536-1555)は、瀬戸内海は大内氏と尼子氏の二大巨頭がしのぎを削っており、能島村上氏は大内義隆とその重臣・陶隆房(のちの晴賢)に従属していた。天文末頃に大内義隆と陶晴賢が相次いで命を落とすと、当主となっていた武吉(19歳)は阿波の三好実休(28歳)によしみを通じた。

永禄9年(1566)に尼子氏が滅亡し毛利氏が西国の覇者となり勢力を拡大してくると、反毛利勢力が共闘を試みて「毛利包囲網」を結成した。九州の大友宗麟(41歳)を旗頭に、浦上宗景(40~50歳)、宇喜多直家(42歳)、三好長治(18歳)、尼子再興勢力(山中鹿介-26歳)、そして村上武吉(35歳)も参画した。しかし旧大内尼子領を取り込んだ毛利氏は強大で、武吉はすぐに毛利重臣・小早川隆景の袋叩きに遭い、毛利への恭順を余儀なくされた。

能島には、6つの曲輪がある。左の独立した曲輪は四の丸で、東南出丸と呼ばれる。右の一番高い曲輪が本丸で、その下が二の丸。手前の海岸線は東部海岸と呼ばれ、船を繫留して修理・メンテナンスを行っていた。

能島の北東にある五の丸。矢櫃やびつと呼ばれる。

島の北側へ。矢櫃やびつの北側は潮の流れが荒い。

激しく形を変え続ける潮の流れは、山城のどんな堀より強烈な防衛線だろう。

能島の北側の岸は、船だまりとして使用していた。右に見える曲輪は三の丸で、当主の住居があった。

荒波に削られて今はわずかに残るのみだが、海岸線に沿って犬走り(犬が通れる程度の幅の細い帯曲輪)がある。

船だまりのある北側から、反対の南側へ。南側は「南部平坦地」と呼ばれる6つ目の曲輪だ。物資の荷揚げ、作業場、軍事演習など、多目的広場として使用していた。

ここから上陸する。

3.能島城上陸

南部平坦地

南部平坦地から三の丸へ上った。「しまなみ海道」の伯方大島大橋が見える。

三の丸の端から見る切岸は、まさに海上の要塞。

重機のある曲輪は二の丸、その上の曲輪は本丸。

本丸

本丸から鯛崎出丸を見る。

矢櫃

元亀2年(1571)村上武吉は毛利氏の備中平定の折には小早川隆景に祝儀を贈り、毛利氏が大坂本願寺を援護することになると水軍を率いて隆景に従い木津川の戦いで織田水軍を撃破した。もっともその時の能島水軍の大将は嫡男の元吉もとよしで、自身は能島城にいたが。そんなタイミングで、武吉は隆景から1人の幼児を託された。2歳になるその子供は名を「馬場ばば六大夫ろくだゆう」と言った。誰の子か? なぜ武吉に託すのか?

馬場六大夫が生まれたのは天正元年(1573)、東美濃にある岩村城だ。父は武田勝頼の重臣で、岩村城城主・秋山虎繁とらしげ。母は織田一門で遠山景任かげとうの妻だった おつやの方。秋山虎繁が岩村城主となり、おつやを娶った経緯については岩村城🔎で。

元亀3年(1572)、岩村城の女城主・遠山おつやは、織田信長の五男で遠山家の養嗣子ようししである御坊丸を助命するため秋山虎繁と結婚し、岩村城を明け渡した。そもそも織田と武田と遠山は前年まで同盟関係であり、秋山は東美濃の外交担当だったので、おつやとは面識があった。この時秋山は45歳ですでに娘がいたとされるが、おつや以前に妻がいた記録はない。秋山がおつやに一途に惚れていた可能性もあるだろう。秋山虎繁とおつやは、結婚後すぐ男の子を授かった。しかし幸せは長くは続かなかった。

天正3年(1575)越前の朝倉と北近江の浅井を滅ぼした織田信長は、武田攻めに主力を投入し、奥三河の長篠ながしの設楽原したらがはらにて武田勝頼を討ち破った。同年、岩村城も織田方に攻められ、秋山は降伏した。そして助命嘆願のため面会に来た秋山を信長は捕え、逆さはりつけにした。その際、妻のおつやも一緒に逆さ磔にされているのだが、ここで疑問が残る。おつやは信長の父・信秀の末妹まつまいで、信長にとっても年下で妹のような存在だった。御坊丸の助命に成功した彼女の手腕を、信長も評価していたという。子の名前が「六大夫」なのも、五男の御坊丸に配慮してのことだ。信長とおつやの関係が悪化していた事実は無い。だとすると考えられるのは、おつや自身が秋山と同じ仕置きを望んだからではなかろうか? 親族を何よりも大事にした信長が、自身の決断で死に至らしめた人物は弟の信勝とおつやだけ。どちらも本当は死なせたくなかったとすれば、充分考えられる仮説だろう。

岐阜に送られた秋山とおつやは並んで逆さ磔にされ、ほぼ同時にこの世を去った。織田方は秋山とおつやの子を捜したが、六大夫はどこにも居なかった。岩村城が包囲される前に2人は密使に六大夫を預け、小早川隆景を頼って安芸国へ向かわせていた。「秋山」や「遠山」を名乗る訳にはいかないので、姓は「馬場」とした。武田四天王の1人として名高い「馬場信房のぶふさ」をリスペクトしたものだ。そんな出生の秘密を持つ馬場六大夫を、小早川隆景は村上武吉に託した。六大夫は秋山の子である以上、織田に擦り寄ろうとする者に見つかったら連れ去られてしまう。秋山と隆景が面識があったかどうかは分からない(恐らく面識はない)が、武田の名将・秋山虎繁の名は知っていただろう。面目を何より大事にする武士ならば、大人物の子息を頼まれれば簡単に失うわけにはいかない。この時隆景にとって最も信頼出来る男が村上武吉だったのだろう。

慶長5年(1600)石田三成が挙兵し、毛利輝元を旗頭として徳川家康へ全面戦争を挑んだ。馬場六大夫は27歳の武者に成長し、能島村上氏当主・村上元吉(47歳)の家臣となっていた。能島村上氏は豊臣秀吉に逆らったため芸予諸島の領地を取り上げられていたが、小早川隆景から安芸東部・竹原に領地をもらい、以来竹原を拠点としていた。

三成の挙兵により、世は戦国時代に逆戻りしたかに思えた。智将として名高い全国の諸将達(上杉家の直江兼続、小県ちいさがたの真田昌幸、九州の黒田官兵衛etc.)がこぞってそう思った。村上元吉も皆と同じで、芸予諸島への返り咲きを目論み、伊予松前まさき城へ攻め込んだ。初戦は大勝利に終わったものの、勝利酒を飲んで寝ているところを加藤嘉明よしあきら軍の夜襲を受け、村上元吉、馬場六大夫ともども命を落とした。

馬場六大夫にいみなは無い。普通、武士は元服したら「信長」や「家康」のような2文字の諱を付けるのだが、六大夫は27歳の生涯を終えるまで、幼名を名乗り続けた。「六大夫」は両親との唯一のつながりだから、その名にこだわったのではないだろうか?

<END>

Follow me!

コメント

PAGE TOP