【美濃*遠山七頭】戦国の争乱を生きた室町幕府の奉公衆・遠山一族の居城を巡る

苗木城址 東海
苗木城址
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串原大平

形 態山城址難易度★----
比 高80m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  50m
所要時間2分  /  7分
指 定
遺 構曲輪、石垣、堀
歴 史 串原遠山氏・遠山景家-経景の城。前期は柿畑城、後期は大平城を本城とした。他に福原城、松本砦、木根砦を支城として持つ。景家は元亀元年(1570)の上村合戦で死去、経景は天正2年(1574)の武田勝頼との戦いで、大平城が落城した際に死去した。
駐車場大平城跡 – Google マップ(登城口付近の広い路肩に駐車可能)
住 所岐阜県 恵那市 串原大平
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2022年3月20日(日)晴れ

1.登城道

県道403号線の串原大平の交差点(T字路)を北上し、バス亭「峯」を左へ入り200mほど行くと、登城口の看板が見える。車はその付近の広い路肩に停めさせて頂いた。

ここにある串原大平城は遠山七頭のひとつ串原遠山氏の城で、最も南に位置している。今回の城旅はその遠山七頭の城を、最南端の串原遠山氏から最北端の苗木遠山氏まで、順番に北上していく。

遠山七頭とは、美濃遠山荘の領主・遠山一族の中で主だった七家を言う。上杉謙信の書状の中で遠山氏のことを「遠山七頭」と書いているそうなので、この時代の一般的な呼びかただったのだろう。鎌倉幕府創設の功労者の一人・加藤景廉かげかどが源頼朝から美濃国恵那郡(岐阜県恵那市と中津川市)の遠山荘を拝領したのを始まりとし、以来遠山氏を名乗り、南北朝時代には足利尊氏に与して室町幕府の奉公衆となった。宗家は岩村遠山氏で、苗木遠山氏と明知遠山氏がそれに次いで勢力を持っているので、この三家を遠山三頭と呼ぶこともある。この三家に、串原・飯羽間いいばま安木あぎ(阿木)・明照あてら(阿寺)を加えた七家が遠山七頭となる。

大平城へ誘う矢印看板。城をで現している。明確な表示はないが、ここが登城口のようだ。

主郭部の下の段曲輪(?)

見学者が万が一にも迷わないよう、要所要所に矢印看板が立てられている。このすぐ上は本丸なので、たぶんこのルートは後世に造られたもので、当時はここはすべて切岸だったのだろう。

2.主郭部

①本丸

登城口から10分とかからず本丸に到着。

本丸に立つ二つの石碑。22夜、23夜?、26夜??

本丸からの景色。

②二の丸

本丸の北西側に連なる二の丸へ。

本丸の南側は石で覆われている。

二の丸は千畳敷と呼ばれている。広い平坦な場所は千畳敷と呼ばれがちだが、千畳は横20m×縦80mなので、恐らくここは千畳は無いだろう。

二の丸の先は腰曲輪と堀切があり、雪隠屋敷と呼ばれる曲輪に続いている。

二の丸千畳敷から本丸を見る

串原遠山氏についての主なエピソードは、元亀元年の「上村合戦」と天正2年の「武田勝頼による東美濃攻め」の2つある。

元亀元年(1570)秋山虎繁とらしげを大将とする2,500の武田軍は、徳川領の三河へ侵攻するため経由地である東美濃へ進軍した。明知城の遠山景行かげゆきを総大将とする遠山連合軍2,500(明知・串原・苗木・飯羽間・安木)は、それを阻むべく東美濃で迎え討った。徳川から援軍として2,500の山家三方衆(奥平氏・長篠菅沼氏・田峯菅沼氏)が派遣されたものの、彼らは静観を決め込み戦わずして後で軍を引いたので、実質的に遠山勢のみ。

秋山虎繁は行軍する部隊を3つに分けた。秋山本隊は根羽村から大桑峠へ、副将・望月もちづき信永のぶなが(武田信繁のぶしげの三男)の隊は南の小田子から、もう一隊は北の平谷村から進軍させた。串原遠山氏の当主・遠山景家かげいえと嫡男の経景つねかげは1,000の兵で出陣し、狭隘の地で出くわした望月隊に攻撃を仕掛けた。これが上村合戦の緒戦しょせんとなった。

不意に戦闘となった望月信永は一端兵を引き、遠山景家はそれを追撃した。そして足場の良い場所に出ると望月は部隊を左右へ広げ、突進してくる遠山軍を左右から挟撃した。さらに正面からも攻め返すと遠山軍は総崩れし敗走。遠山景家はこの戦で戦死した。

再現VTRを見てきたかのような詳細なエピソードだが、これらは「美濃国諸旧記」などの古文書に書かれているという。しかし武田氏と同盟関係にあった遠山氏がなぜ徳川方として戦ったのか理由が分らないし、遠山宗家である岩村遠山氏が不参加だったり、№2の苗木遠山氏を差し置いて№3の明知遠山氏が総大将となっているなど、不可解な点が多い。もうひとつ言うと、明知遠山景行が敗北後に自刃しているが、敗走中に武田兵に捕まったとしても遠山一族を敵に回すことがデメリットでしかない武田方が景行の首を取るとは考えにくい。「美濃国諸旧記」は戦から70~80年後の江戸時代の編纂物で作者も不明なので、もしこれが江戸幕府に仕えた明知遠山氏が徳川に忖度そんたくして書いた創作だと考えるなら、すべて合点はいくだろう。

その後の大平城は、天正2年(1574)に武田勝頼が東美濃へ攻め込んだ際に落城している。その際、当主・遠山経景つねかげは岩穴へ逃げたのだが、飼っていた犬が穴の外で吠えていたため武田兵に気づかれ、見つかって討たれたという。「日本昔話」に出て来そうなエピソードだ。

明知

形 態山城址難易度★----
比 高80m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  20m
所要時間-  /  5~15分
指 定岐阜県指定史跡
遺 構曲輪、土塁、畝状竪堀、切岸、横堀
歴 史 明知遠山氏・遠山景行-景玄かげはるの城。元亀元年(1570)の上村合戦で、景行と景玄の親子は死去。景行の次男・友治が継いだが、天正2年(1574)の武田勝頼との戦いで籠城中、飯羽間城主・遠山友信の裏切りにより明知城は落城、友治も命を落とした。
駐車場明知城跡搦手駐車場 – Google マップ(4~5台)
※大手口である日本大正村の駐車場は100台
住 所(搦手)岐阜県 恵那市 明智町東山町1553-1
トイレ日本大正村駐車場にトイレあり
訪問日2022年3月20日(日)晴れ

3.搦手口~畝状竪堀

串原大平城から車で約20分。明知遠山氏の城・明知城の搦手口に到着。日本大正村や明知陣屋跡のある大手口から登城するのが正規ルートだか、搦手口のほうが本丸に近いのでこちらから上る。無骨な冠木門かぶきもんがカッコイイ。

クマ注意の掲示あり。北へ100mも行けば民家のあるこんな場所にクマが出るとは。

三叉路。本丸へ行くなら左だが、先に畝状竪堀うねじょうたてぼりを見学するため右へ行く。

畝状竪堀見学ルートをしばらく歩いていると、この道は横堀で、右側にある凹凸がすでに畝状竪堀であることに気がついた。そこで畝状竪堀ここがよく見えそうな場所へ移動する。

曲輪(本丸北砦)の先端から畝状竪堀を見ると、幾筋もの竪堀が斜面に設けられているのが分かった。写真で見ると分かりづらいのが残念だが、とても見事な竪堀だ。

4.貯水池~出丸

本丸へ向かう途中にある貯水池。1kmも離れた水源地からといを使って水を引き入れ、1つ目の池で濾過し、2つ目の池で濾過された水を貯めていたという。

主郭部の南側にある出丸。江戸時代には「南本城」と呼ばれており、本丸として使用していたのかも知れない。

明知城で礎石のある曲輪はここだけだという。主殿があったのだろう。

「猿戻し」のネーミングがついている切岸。藪で見えないが、ほぼ垂直に切り立っているとのこと。

本丸へ向かう。

5.主郭部

①二の丸

二の丸

明知城を居城とした明知遠山氏は、遠山の金さんで有名な遠山金四郎景元かげもとを輩出した家として知られている。戦国末期に武田氏と織田氏の狭間にいた遠山氏は、両者の争いに巻き込まれて一族のほとんどが領土を失ったが、明知遠山利景としかげが本能寺の変後に徳川家康を頼って接近し、その後徳川配下の武将として関ヶ原の戦いで功績を挙げた。江戸時代には徳川幕府の旗本(交代寄合という地方在住の旗本)となり、明知の旧領に復帰し、明治を迎えることとなる。室町幕府時代も足利将軍に仕える奉公衆(江戸時代の旗本に近い役職)だったので、500年以上似たような役職についていたことになる。

二の丸と本丸を連絡する虎口。

②本丸

本丸

本丸の下には帯曲輪がある。

どの曲輪も目的が明確で、シンプルな縄張だ。

岩村

形 態山城址難易度★★---
比 高150m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  150m
所要時間-  /  30分
指 定岐阜県指定史跡、日本100名城
遺 構曲輪、石垣 [復元]太鼓櫓、藩主邸
歴 史 宗家の岩村遠山景任かげとうの城。元亀3年(1572)に景任は病死し、織田信長の五男・御坊丸(後の織田勝長)が、養嗣子として送り込まれたが、まだ幼かったため景任の妻・おつやの方が名代となった。その後、織田と武田の狭間で悲劇的な運命をたどる。
駐車場岩村歴史資料館 – Google マップ
住 所岐阜県 恵那市 岩村町98
トイレ岩村歴史資料館内
2022年3月20日(日)晴れ

6.岩村歴史資料館

明知城から約30分で、岩村歴史資料館に到着。広い敷地は岩村城見学者のための駐車場も兼ねている。

この時、スタンプラリーに参加すると「東美濃山城カード」が貰えるイベントをやっていた。岩村城・苗木城・美濃金山城の3城が対象なのだが、イベントは明日(3月21日)までなので、美濃金山城は行けないので諦めた。

岩村歴史資料館の入り口近くにある案内板。後で思ったが、ここから本丸まで20分で行くのはかなりの健脚だ。私とナオは写真を撮りながらではあるが30分は掛かった。

資料館の敷地に再建された太鼓櫓と藩主邸

岩村城は、遠山宗家・岩村遠山氏の城として知られている。室町時代の遠山氏は幕府の奉公衆であり、美濃の守護大名・土岐とき氏の支配に属さない独立した存在だった。戦国時代に入り、斎藤道三や一色義龍(斉藤高政)が美濃の国主となった後も、彼らと同格の勢力として幕府や神社仏閣から扱われていた。

元亀3年(1572)8月、岩村城の当主・遠山景任かげとうが嫡男不在のまま病死すると、織田信長は自身の五男・御坊丸(6歳)を岩村遠山家の養嗣子ようししとして送り込み、景任の妻・おつやの方をその名代に据えた。おつやは何年か前に織田家より嫁いでおり、この時30代半ばと考えられる。信長(39歳)より年下だが、血縁上は信長のおばに当たる。

織田信長による遠山氏への一方的な介入は、双方の関係性によるものが大きかったのではないかと思う。遠山氏は室町幕府の奉公衆(江戸幕府での旗本に近い役職)であり、将軍直属の軍事勢力。一方信長は、足利義昭を奉じて上洛して以来、力を失った三管四識に代わる幕府の要の軍事パートナーとなり、いわば「防衛省の大臣」的ポジション。さらに10歳で政所執事に就任した伊勢貞興の後見人に命じられたことから、法務省と財務省の大臣代行も兼任していた。小勢力であっても幕府の威光により守護(県知事)並の扱いを受けている遠山氏は、幕府の権力者・織田信長の命令には逆らえなかったのだろう。

同年10月、武田信玄は秋山虎繁を大将とした軍勢を岩村城へ派遣した。岩村城を包囲した武田軍・秋山虎繁の目的は遠山氏からの織田勢力の排除、つまり御坊丸の首だった。今川氏の旧領を武田と徳川で切り取り終わったあと、信玄は今度は徳川領を切り取ることに決めていた。そうなると徳川家康の盟友・織田信長が武田との同盟を破棄してくることが想定出来ていた。つまり織田氏はいずれ敵になる存在であり、今ここで遠山七頭を織田に取られるわけには行かなかったのだろう。

遠山宗家の名代・おつやは、運命の選択を迫られる。選択肢は3つあった。

①籠城を続ける。→織田信長の援軍は期待出来ない。畿内には反織田勢力が多数おり、気の抜けない状況だった。三好一族、浅井・朝倉氏、大坂本願寺と長島一向一揆などの、いわゆる信長包囲網に苦しめられている最中だ。岩村城の兵糧が尽きれば城兵は全滅する。②城から討って出る。→名将・秋山虎繁に対し、数で劣る岩村軍では勝てる見込み無し。よほどの策が無ければ御坊丸を失い城兵も壊滅する。③降参する。→城兵は助かる可能性が高いが、御坊丸の命の保証はない。

おつやは、今の実質的な当主は自分だから自分だけ死ぬという提案を秋山虎繁へ打診したが、却下された。その次に出された策はおつやの家臣の発案らしいが、戦国史上類を見ないトリッキーなものだった。それはおつやが秋山の妻となり、敵将・秋山を岩村城の城主にするというものだ。おつやが秋山の妻となれば、おつやの子である御坊丸は秋山の子となる。何よりも体裁を重んじる武士であれば、正当な理由も無く自分の子を殺すことは出来ないだろうと考えた。かくして御坊丸は助命され、人質として甲斐へ移送された。

7.登城道

登城口

①初門

私もナオも土や葉の山道に慣れているので、石の道は意外と歩きにくく感じる。

敷石に、石を割るときに穴を穿った・矢穴の跡がある。

②土岐門

第二の門・土岐門。

畳橋の辺りで、階段が土砂崩れにより工事中となっていた。右の石垣に組まれている階段を上る。

石垣の上に上がると、ユンボと階段に使用するのであろう石があった。

石をよく見ると、切り出した加工面に今付けられたばかりのような矢穴跡に似た溝があった。昔の雰囲気を損なわないための細工なのだろうが、矢穴があれば昔のものだと思っていたので少しショック。

③霧ヶ井

霧ヶ井という井戸。この井戸に蛇骨を入れるとたちまち霧が立ち込め、城を覆い隠したという伝説があるという。ナオが興味を持ち、蛇骨の成分や霧が発生すると言われた要因についてWEB検索したが、詳細は分からなかった。

④六段壁

岩村城の名所・六段壁。石垣といえば大阪城や伊賀上野城が圧倒的に高いし、個々の石の大きさなら萩城、段の高さなら丸亀城が有名だが、岩村城の石垣も個性的で味わい深い。

8.主郭部

本丸のすぐ下にある長局埋門ながつぼねうずみもん。埋門はだいたい本丸のそばにある。本丸から秘密裏に抜け出せるよう石垣と同じ高さに造られた門で、外部の者は気づきにくい。

①本丸

本丸

本丸からの景色。

②出丸

本丸の南西にある出丸。ここにも駐車場があり、本丸周辺だけ行くのであればここに停めるのが良い。ただ資料館駐車場に併設されている「藩主邸」「太鼓櫓」、登城口の先の「藤阪」「門跡」など見所が麓から絶え間なく続くため、私的には出丸駐車場に停めるメリットはなく、資料館駐車場に停めた。

9.昼食「ふる里」

お昼ご飯のため、岩村城下町第一駐車場(無料&トイレ有り)に移動。

第一駐車場のすぐそばにある「ふる里」で、恵那鶏の唐揚げ定食を食べる。味がしっかりしていて美味しかった。

飯羽間

指 定
遺 構曲輪、土塁、堀切、竪堀
歴 史 飯羽間遠山氏・遠山友忠-友信の城。永禄13年(1570年)苗木城の遠山直廉が死ぬと、遠山友忠が苗木遠山家を継いだ。長男・友信は飯羽間城、次男・友重は阿寺城、をそれぞれ継ぎ、三男・友政は友忠と一緒に苗木城に入った。
駐車場飯羽間城跡大手登城口 – Google マップ
加藤商店の前の見学者用駐車場
住 所岐阜県 恵那市 岩村町 飯羽間2084
トイレ岩村城下町第一駐車場
訪問日2022年3月20日(日)晴れ

岩村城下町第一駐車場から10分弱、加藤商店の前にある飯羽間いいばま城見学者用駐車場スペースに停める。

この山が飯羽間城。

小屋の手前に大手口への道がある。

登城口。以前は手入れされていたウエルカムな城址だったようだ。管理していた人が出来なくなったのか、今は荒れている。

藪がひどくて足を踏み入れるのが困難との前情報だったので覚悟はして来たが、半端に刈られた竹が危険過ぎる。飯羽間城はここで終了。

阿木

形 態山城址難易度★----
比 高60m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類猪、猿、カモシカ見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  30m
所要時間-  /  10分
指 定中津川市指定史跡
遺 構曲輪、土塁、堀切、竪堀
歴 史 安木遠山氏の城。詳細は不明。
駐車場阿木城跡大手登城口 – Google マップ(3台)
県道406号線沿いのコイン精米機前(5台)
住 所岐阜県 中津川市 阿木町1406
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2022年3月20日(日)晴れ

10.登城道

①登城口

阿木あぎ城の公認駐車場は3箇所ある。阿木駅前、県道406号線沿いのコイン精米機前、阿木城登城口の向かい。私は一番近い、登城口向かいの駐車場に停めた。飯羽間城からは約20分。

志納金箱にお金を入れ、御城印を1枚貰った。

②虎口と曲輪

切り通しのような虎口。動線の横幅を狭めることで敵の侵入を困難にしている。「虎口」は「小口」とも書く。

虎口の上の腰曲輪

もう一つ上の段の腰曲輪

さらにその上の帯曲輪(二の丸)

先ほどの腰曲輪。

この切岸の上が本丸だが、帯曲輪(二の丸)を時計回りに一周しないと入れない。

二の丸

11.本丸

本丸

360度の見事に円形状の本丸。ここまできれいな円を描いた円郭式曲輪は始めて見た。全体を写真に収められないのが残念。ただかっこいい城ではあるが、難攻不落とはほど遠いと思うので、安木遠山氏の詰めの城は他にあったのではないだろうか? 近くに無いとすれば、有事には岩村城か阿寺城か苗木城かに退却することを前提としていたか?

本丸からの景色。

苗木

形 態山城址難易度★----
比 高170m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  40m
所要時間-  /  10~15分
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、堀、井戸、門部材
歴 史 苗木遠山氏(遠山直廉)の城。直廉は、永禄12年(1569年)の大威徳合戦(飛騨三木氏との戦い)で受けた矢傷が元で亡くなり、飯羽間城の遠山友勝が跡を継いだ。
駐車場駐車場 – Google マップ(駐車場は8ヶ所、合計145台分あり)
住 所岐阜県 中津川市 苗木2897-2
トイレ史料館または苗木城近くにあり
訪問日2022年3月20日(日)晴れ

12.苗木遠山史料館

阿木城から約45分、苗木遠山史料館の駐車場に停めた。

阿木城と苗木城の間に明照あてら遠山氏の阿寺あてら城があるのだが、WEBでの情報が少なく、限られた時間内で行くのはリスキーなので阿寺城は泣く泣く諦めた。

史料館内に保存されている風吹門

苗木城のジオラマ。天然の巨石を利用した珍しい山城。史料館内の展示物の多くは撮影禁止のため、写真はここまで。

13.登城道

史料館の東側から登城開始。

「龍王院跡」はフォトスポットになっており、苗木城が良く見える。

先ほど史料館にあった風吹門のあった場所。

苗木城の三の丸の北側にある大矢倉跡。天然石と人工石垣がコラボした出丸的な防御設備。三階建ての櫓が建っていた。

駆門跡。枡形虎口になっている。

14.主郭部

ラピュタさながらに岩から草木が生えている。

大門の礎石。

綿蔵門跡

二の丸(城主屋敷跡)

した岩。

菱櫓門跡。

的場跡。弓矢と火縄銃の練習場。

武器蔵と具足蔵の礎石。

蔵跡から見える木曽川。この川のずっと先の下流に犬山城がある。

天守展望台

本丸に建つ天守展望台

全周45mの馬洗岩。158cmのナオがこんなに小さい。敵に攻められ籠城中にこの岩の上に馬を乗せ、馬に米を掛けて洗っているように見せかけ、水が豊富だと思わせ欺いたというエピソードから馬洗岩と呼ばれる。

本丸から見る木曽山脈

15.苗木城遠景

苗木城遠景のフォトスポットがあるというので行ってみた。

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