【伊勢:津&亀山の城】3つの山をトライアングル状に連絡させた細野城を始め、伊勢の城々を巡る

津城址の藤堂高虎像 東海
津城址の藤堂高虎像
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2.安濃城

形 態平山城址難易度-----
比 高35m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  35m
所要時間-  /  5分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀
歴 史 長野工藤氏の庶流・細野氏の本城。弘治年間(1555-1558年)に細野藤光(長野稙藤の子)により築城されたという。永禄11年(1568年)に織田信長の家臣・滝川一益が攻めたが、落ちなかった。
駐車場松原寺の駐車場 安濃城跡 – Google マップ
住 所三重県 津市 安濃町安濃1281
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年1月8日(日)晴れ

安濃あのう城は現在、阿由田あゆた神社になっている。この左の坂を真っ直ぐ進んで行った先が安濃城の本丸(阿由田神社)なのだが、看板にあるように四輪は軽自動車しか通れないようだ。

2-①駐車場+登城口~

a) 駐車場

なので松原寺の駐車場に停めさせていただいた。細野城から約25分。

b) 登城口

松原寺駐車場のすぐ脇にある阿由田神社の鳥居。歩きで上る場合、ここが登城口になる。

遺構のような遺構でないような。

2-②主郭部

この上が本丸。

a) 本丸

本丸

櫓台跡

本丸北側の二重土塁

本丸に建つ阿由田あゆた神社

安濃あのう城は、伊勢中部で最大の山城と言われている。

井戸

b) 本丸虎口

本丸の虎口へ向かう。

虎口の外から本丸を見る。

本丸外の曲輪土塁がしっかり残っている。写真にすると分かりにくいが、現地で目視で見ると塁線ははっきり分かる。仮にこの竹林の竹を全て刈り取ってしまうと、今度は低い草木が生えてきて地表を覆い、現地で目視で見ても何も見えなくなってしまうだろう。高い木をまばらに残すのが遺構管理の賢いやり方のようだ。とは言え、もう少し本数を減らしても良い気もするが。

昼食「津餃子」

お昼ご飯は津城の近くにある「氷花餃子ひょうかぎょうざ」で津ぎょうざ定食

3.津城

形 態平城址難易度-----
比 高整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆--
指 定三重県指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、天守台、石垣、水堀 [再建]丑寅櫓(模擬)
歴 史 細野氏の支城・安濃津城が前身。その後、長野氏の養嗣子となった織田信包(信長の弟)の城となった。慶長13年(1608年)には藤堂高虎が今治から転封となり、大改修を行い「津城」が完成した。
駐車場津市営お城東駐車場 – Google マップ
住 所三重県 津市 丸之内32-28
トイレ津城の東側にあり
訪問日2023年1月8日(日)晴れ

安濃城から約20分のところに津城はある。水堀と石垣が現存しているがこぢんまりとした印象を受ける。しかしそれは本来の津城のごく一部で、失われた大部分を地図で確認すると、今の10倍の広さはあったと思われる。

この水掘は内堀で、今立っている場所は二の丸、右に見える橋(当時は土橋)を渡った先は西の丸になる。

3-①西の丸

西の丸。番所と倉庫の機能を備えていたという。二の丸と本丸の間にあり、それぞれを土橋でつないでいた。大掛かりな枡形虎口と考えたほうが良いのかも知れない。

入徳門。江戸期に二の丸にあった藩校の薬医門を移設している。

江戸期には戦う機能は不要となり、西の丸に日本庭園が造られた。

3-②本丸

本丸の北西を守る隅櫓・戌亥三重櫓跡

西の丸と本丸を連絡する土橋跡。当時は、土橋の両脇は水掘だった。土橋の先には鉄門があり、鉄門をくぐると枡形虎口の石垣とその上に伊賀櫓があった。

本丸の西側に構えられた天守台

a) 埋門

天守台の脇にある埋門うずみもん

埋門を外側から見る。足元に段違いの石垣がある。その手前の地面は当時は水掘だったことを考えると、この石垣は本丸の外周に巡らせた犬走りだったのだろう。津城は今治城を建てた藤堂高虎によって築かれた城なので、ここでもアップデートされた高虎の築城術が遺憾なく発揮されている。

b) 藤堂高虎像

本丸に建つ藤堂高虎像。左右に突き出た羽のような唐冠形兜とうかんなりかぶとは、高虎のトレードマークだ。

本丸

c) 丑寅三重櫓

本丸の北東を守る隅櫓・丑寅三重櫓跡に上り、戌亥方面を見る。隅櫓と隅櫓の間は、多聞櫓が建てられていた。

本丸東側の多聞櫓があった場所に、丑寅三重櫓が再建されている。

丑寅三重櫓(模擬再建)。

丑寅三重櫓の前は道路になっているが、当時は水掘(内堀)だった。石垣左端の少し張り出した場所に、南東を守る隅櫓・月見櫓があった。

西日本の勢力が万が一不穏な動きをした際に関東の徳川を守るため、今治から津に転封となった藤堂高虎だが、時代はすでに平和が定着し始めていたことを、この「月見櫓」の名が伝えている。

4.伊勢 亀山城

形 態平山城址難易度-----
比 高10m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆---
指 定三重県指定史跡
遺 構櫓、石垣、土塁、堀
歴 史 中世の亀山城は、鎌倉北条氏の被官・関盛政が、北条氏滅亡後(元弘3年/1333年)に伊勢鈴鹿郡に移り住んだのが始まり。盛政の5人の息子はそれぞれ、神戸・国府・亀山・鹿伏兎・峯に住んだ。彼らを「関五家」という。三男・関盛繁が宗家と亀山城を継いだ。近世の亀山城は、尾張出身で織田信長-信孝の家臣・岡本良勝が天正18年(1590年)に建てたのを始まりとする。
駐車場亀山城 西出丸跡 – Google マップ
住 所三重県 亀山市 本丸町572-2
トイレ駐車場にあり
訪問日2023年1月8日(日)晴れ

4-①西出丸

津城から30~40分、伊勢亀山城の西出丸跡駐車場に停める。

駐車場の端に、盛り上がった土あり。土塁か?

すぐ脇に、下の公園池に通じる階段があった。この高さがお城の証し。

4-②本丸

本丸に建つ亀山神社

神社の神官の屋敷。

a) 多聞櫓

本丸東側の石垣に多聞櫓たもんやぐらが建っている。三重県下で現存する唯一の櫓。

多聞櫓に入る。

壁構造の原寸大模型。

本丸の外から多聞櫓を見る。

b) 三重櫓跡

一段低いが、ここも本丸。

本丸の北の端に三重櫓があった。

4-③二の丸

本丸の端にこんな案内板が。三重櫓跡を見に来てなければ見逃すところだった。

二の丸は小学校の校庭になっている。

二の丸の埋門うずみもん

埋門の下は帯曲輪になっている。

5.鹿伏兎城

形 態山城址難易度不明
比 高110m整備度☆----
蟲獣類見応度不明
指 定三重県指定史跡
遺 構曲輪、石垣、土塁、堀、井戸
歴 史 室町初期、関盛政の四男の関盛宗が鹿伏兎谷を領して鹿伏兎氏を名乗ったのが始まり。天正11年(1583年)の織田家跡目争いの際、当主・鹿伏兎定義さだよしは織田信孝に与したため、織田信雄・羽柴秀吉の攻撃を受け、鹿伏兎城は落城した。
駐車場加太駅 – Google マップ
住 所三重県 亀山市 加太市場
トイレ駅構内にあり
訪問日2023年1月8日(日)晴れ

亀山城から20~30分で、加太かぶと駅に到着。城旅で電車の駅に来たのは初めてだ。関氏の一門衆・鹿伏兎かぶと盛宗の鹿伏兎かぶと城がある。

鹿伏兎氏の菩提寺・神福寺。劣化はひどいが案内板もある。

案内板に気になる一文が。「登山道及び城跡は未整備の為通行注意」

整備不十分だったり、整備後の放置期間が長かったりで藪化した城はいくつも見てきたが、案内板に堂々と「未整備」と書かれた城は初めてだ。嫌な予感しかしない。

ナオは車で待機してもらい、とりあえず私一人で行ってみる。

登城口らしき場所はここしか見当たらず、正規ルートの目印のピンクリボンもしっかりついているのだが、とても登れる気がしない。ここは三重県指定史跡なのだが・・・。

私の登城スキルと装備では危険だと判断し、鹿伏兎城は諦めることにした。

<END>

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