【伊勢:安濃津城】室町幕府の奉公衆・長野氏の治めた中伊勢の城々を巡る

細野城本丸の切岸 東海
細野城本丸の切岸
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伊勢 細野城

形 態山城址難易度★----
比 高60m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  60m
所要時間6分  /  -
指 定国指定史跡
遺 構曲輪、土塁、堀
歴 史 伊勢中部の有力国衆・長野工藤氏の城。史跡名は「長野氏城」。鎌倉期に源頼朝から中伊勢の安濃あの郡・奄芸あんき郡を賜ったのを始まりとする。南北朝期には足利尊氏に与し、のちに室町幕府の奉公衆となった。伊勢南部の北畠氏とは南北朝から戦国期にかけて200年以上争った。
駐車場津市美里ふるさと資料館 – Google マップの駐車場 または第2駐車場
住 所三重県 津市 美里町 北長野1445
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年1月8日(日)晴れ

1.細野城 登城口

朝8時に津市美里ふるさと資料館付近に到着したが、資料館へ続く道は閉門していた。近くの消防団の車庫に団員の方々が集まっていたので、「長野氏城」へ行きたい旨伝えた。

国史跡名称で「長野氏城」と呼ばれる城は2つある。ここから歩いて数分のところにある比高60mの3つの山をトライアングル状に連絡させた城と、ここから西へ2km先の比高360mの山の上にある城。目的の城は前者だが、団員の方は後者への行き方を説明してくれた。私が前者の特徴を話すと「ああ細野城ね」との事。前者の城は地元では「細野城」と呼ばれているようだ。対して後者の城は「長野城」と呼ぶ。細野城へ行きたいのなら車は第2駐車場(↑写真)に停めると良いと教えていただいた。

細野城は、“東の城” “中の城” “西の城” の3つの城域からなる。登城口は「国道側登城口」「細野墓地側登城口」の2つ。駐車場から近い「細野墓地側登城口」は、この右の坂道を上った先にある。

2.西の城

西の城 登城口

細野城は、長野工藤氏の城として知られている。源頼朝の家臣で、蘇我兄弟に殺された工藤くどう祐経すけつねの子が、中伊勢の安濃あのう郡と奄芸あんき郡を賜ったのを始まりとする。そして長野郷を本拠地としたことから「長野氏」を名乗るようになった。武士が新天地でその地名を自分の名字にすることはよくあり、その土地の名を名乗ることで土着民たちに認められ易くなるという利点があった。長野氏となり「工藤」を名乗ることはなくなったが、他の長野氏と区別するため「長野工藤氏」と呼ばれている。

南北朝時代には北朝の足利尊氏に与し、のちに室町幕府の奉公衆となった。南朝方についた北畠氏とはその頃から争うようになり、北畠氏が北朝の足利氏に従属したあともそれは続いた。「中伊勢の長野氏」と「南伊勢の北畠氏」は伊勢の二大勢力で、その後200年以上も争った。

西の城の最初の曲輪。細野城城郭群の最北端になる。

この上が西の城の主郭部。「長野氏城居館西跡」と書かれている。

西の城 主郭部。防御力の高そうな遺構は見られなかったので、看板にあったようにここは長野氏の居館として使用されていたのだろう。籠城用の城としては2km西に比高360mの長野城があるので、有事にはそこへ入れば良い。

3.中の城

中の城へ向かう。

尾根を進む。

堀切

“中の城” 主郭部。急峻な切岸と堀や土塁に囲まれており、恐らくここが細野城の本丸で長野氏当主の居館があった場所だろう。

戦国時代の長野氏の当主は長野政藤まさふじ尹藤ただふじ稙藤たねふじ藤定ふじさだと4代に渡るが、いみなを見て分かるように前3人は時の将軍の偏諱を受けている。藤定が将軍の偏諱を受けていないのは北畠具教とものりと同じ理由で、戦が激化した時期で将軍の偏諱を賜るタイミングを逸したからとのこと。

天文16年(1547)、南伊勢の北畠具教と北の方(六角定頼の娘)の間に男子(のちの具房)が生まれると、北畠氏と六角氏との同盟はより強化された。六角氏との安定的な連携が保証された北畠晴具はるとも具教とものりは、宿敵・長野氏との因縁に決着を付けるべく猛攻を開始した。南北を挟まれる形となった長野稙藤たねふじ藤定ふじさだは、次第に劣勢となり衰退していった。

曲輪をどんどん南へ進んでいくと、切岸に突き当たった。あとで知ったが、“中の城”から“東の城”へ連絡するルートは存在せず、“西の城”と“中の城”の間の谷間を下るのが正規ルートだった。

横移動し下りられそうな場所を探したものの、通路らしきものは全く見当たらなかったので、竹を頼りに無理やり斜面を下りた。

巨大な自然岩を切り出した切岸。この上に中の城の本丸がある。

4.東の城

谷を移動し、東の城の登城口を見つけた。

堀切

右側が東の城なので、先に左側へ上ってみると、縄張り図未掲載の曲輪があった。竹林で見えにくいが、奥に段曲輪が続いている。その先は西の城になる。

右側の尾根に上り、東の城へ向かう。

かろうじで「長野氏城(東の城)跡」と読める。

東の城 主郭部。細野城城郭群で最も広い曲輪になる。

最後にもうひとつの登城口へ向かう。

細野城のもうひとつの登城口「国道側登城口」に立つ案内板。登城ルートが赤線で書かれてあった。最初にこれを見ていれば、中の城で迷わずに済んでいたか。

安濃城

形 態平山城址難易度-----
比 高35m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  35m
所要時間-  /  5分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀
歴 史 長野工藤氏の庶流・細野氏の本城。弘治年間(1555-1558)に細野藤光(長野稙藤の子)により築城されたという。永禄11年(1568)に織田信長の家臣・滝川一益が攻めたが、落ちなかった。
駐車場松原寺の駐車場 安濃城跡 – Google マップ
住 所三重県 津市 安濃町安濃1281
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年1月8日(日)晴れ

5.安濃城 登城口

安濃あのう城の本丸は現在、阿由田あゆた神社になっている。この左の坂を真っ直ぐ進んで行った先にあるのだが、看板に書いてあるように四輪は軽自動車しか通れないようだ。

なので松原寺の駐車場に停めさせていただいた。細野城から約25分。

松原寺駐車場のすぐ横にある阿由田神社の鳥居。歩きで上る場合、ここが登城口になる。

遺構のような遺構でないような。

6.主郭部

①本丸

この上が本丸。

本丸。奥に見える小高い場所は櫓台跡

本丸北側の二重土塁

本丸に建つ阿由田あゆた神社

安濃あのう城は、長野稙藤の次男・細野藤光の城として知られている。北畠氏との戦が激化する弘治年間(1555-1558)に築城されている。北畠氏に攻められ劣勢となった長野藤定(藤光の兄)が、鈴鹿郡に活路を見いだそうとして、その拠点として弟・藤光に築城を命じたようだ。鈴鹿郡の関氏庶流である神戸氏が六角定頼によって没落させられていたため、その再興を支援し、関一族を味方にしようという苦肉の策だった。しかし永禄元年(1558)、長野藤定はついに北畠氏に屈し、北畠具教の次男(のちの長野具藤ともふじ)を養嗣子に迎えた。長野氏は、北畠氏に従属することで滅亡を免れた。

②本丸虎口

本丸の虎口へ向かう。

本丸虎口(外から)。

本丸外の曲輪土塁がしっかり残っている。写真にすると分かりにくいが、現地で目視で見ると塁線ははっきり分かる。

昼食「津餃子」

お昼ご飯は津城の近くにある「氷花餃子ひょうかぎょうざ」で津ぎょうざ定食

津城(安濃津城)

形 態平城址難易度-----
比 高整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆--
指 定三重県指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、天守台、石垣、水堀 [再建]丑寅櫓(模擬)
歴 史 細野氏の支城・安濃津城が前身。その後、長野氏の養嗣子となった織田信包(信長の弟)の城となった。慶長13年(1608年)には藤堂高虎が今治から転封となり、大改修を行い「津城」が完成した。
駐車場津市営お城東駐車場 – Google マップ
住 所三重県 津市 丸之内32-28
トイレ津城の東側にあり
訪問日2023年1月8日(日)晴れ

7.西の丸

安濃城から約20分のところに津城はある。水堀と石垣が現存しているがこぢんまりとした印象を受ける。しかしそれは本来の津城のごく一部で、失われた大部分を地図で確認すると、今の10倍の広さはあったと思われる。

「津城」は本来「安濃津あのつ城」と呼ばれていた。いつ「津城」になったかは不明。少なくとも江戸期に藤堂高虎がこの総石垣造りの近世城郭を築いた時はまだ「安濃津城」だった。

この地に最初に安濃津城が築かれたのは永禄年間(1558-1569)で、築城者は細野藤敦ふじあつ藤光ふじみつの子)と言われている。永禄元年(1558)に、200年続いた長野氏と北畠氏の抗争は終結し、北畠具教とものりの子・具藤ともふじが長野氏の当主になることで決着していた。長野本家は乗っ取られたが、庶流の細野氏は独自の勢力を保持しており、新たな本拠地として安濃津を選んだのだろう。

西の丸。番所と倉庫の機能を備えていたという。二の丸と本丸の間にあり、それぞれを土橋でつないでいた。大掛かりな枡形虎口と考えたほうが良いのかも知れない。

入徳門。江戸期に二の丸にあった藩校の薬医門を移設している。

江戸期には戦う機能は不要となり、西の丸に日本庭園が造られた。

8.本丸

本丸の北西を守る隅櫓・戌亥三重櫓跡

西の丸と本丸を連絡する土橋跡。当時は、土橋の両脇は水掘だった。土橋の先には鉄門があり、鉄門をくぐると枡形虎口の石垣とその上に伊賀櫓があった。

本丸の西側に構えられた天守台

天守台の脇にある埋門うずみもん。足元に段違いの石垣がある。その手前の地面は当時は水掘だったことを考えると、この石垣は本丸の外周に巡らせた犬走りだったのだろう。津城は今治城を建てた藤堂高虎によって築かれた城なので、ここでもアップデートされた高虎の築城術が遺憾なく発揮されている。

本丸に建つ藤堂高虎像。左右に突き出た羽のような唐冠形兜とうかんなりかぶとは、高虎のトレードマークだ。

本丸の北東を守る隅櫓・丑寅三重櫓跡に上り、戌亥方面を見る。隅櫓と隅櫓の間は、多聞櫓が建てられていた。

本丸東側の多聞櫓があった場所に、丑寅三重櫓が再建されている。

丑寅三重櫓の前は道路になっているが、当時は水掘(内堀)だった。石垣左端の少し張り出した場所に、南東を守る隅櫓・月見櫓があった。

西日本の勢力が万が一不穏な動きをした際に関東の徳川を守るため、今治から津に転封となった藤堂高虎だが、時代はすでに平和が定着し始めていたことを、この「月見櫓」の名が伝えている。

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