【伊豆:韮山城】伊勢宗瑞が伊豆統治のため築いた韮山城と、伊豆海運の要衝・長浜城を巡る

伊豆長浜城本丸から見た駿河湾 東海
伊豆長浜城本丸から見た駿河湾
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韮山城

形 態平山城址難易度-----
比 高35m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  35m
所要時間4分  /  5分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀切
歴 史 明応2年(1493)足利茶々丸討伐の命を受けた伊勢宗瑞が、伊豆入国後に拠点として築いた城。足掛け6年で足利茶々丸の討伐を果たしたあとも、宗瑞は生涯伊豆を離れることは無かった。
駐車場駐車場 – Google マップ 無料駐車場(30台)
住 所静岡県 伊豆の国市 韮山 山木733-2
トイレ駐車場にあり
訪問日2022年8月7日(日) 曇り 時々晴れ 時々雨

1.韮山城 登城口

江川邸の近くの無料駐車場に車を停め、韮山城を目指す。左の城池は当時は湿地帯で、韮山城の東側を守る天然の堀だった。

韮山城は、伊勢盛時が伊豆統治の拠点とした城である。伊豆に来た頃には出家して“早雲庵そううんあん宗瑞そうずい”と名乗った。昔は「北条早雲」と呼ばれていたが、名乗ったことのない「北条」や、「宗瑞」が呼び名なのに「早雲庵」のほうから切り取るのはおかしいので、今は「伊勢宗瑞」と呼ぶのが一般的だ。

明応2年(1493)に足利将軍の命を受けた宗瑞(37歳)は、駿河守護で甥の今川氏親(22歳)の全面協力を得て、伊豆侵攻を開始した。伊豆を支配していた足利茶々丸を2年掛けて追い落とし伊豆への入国を果たすと、茶々丸のいた堀越御所の近くにある韮山に城を築いた。

左右どちらからでも韮山城へ行けるが、三の丸から順番に見たいので右ルートで行く。

2.三の丸~権現曲輪

三の丸は静岡県立韮山高等学校のグラウンドになっている。城址が学校になっているパターンはよく見られるが、城の主要部分をしっかり残して保護してくれていることも多く、韮山城はその好例だろう。この高校のOBの方が「韮山城を復元する会」を立ち上げて活動しているとの事。城好きとしては感謝しかない。

切り通し?虎口?

三の丸の上にある権現曲輪。熊野神社が建てられている。

3.韮山城 主郭部

①二の丸

権現曲輪の上には二の丸がある。

二の丸。周囲を土塁で囲っている。

②本丸

二の丸の上は本丸。

本丸

伊勢宗瑞が伊豆へやってきた因果は、日野富子に端を発する。

日野富子は、室町幕府第8代征夷大将軍・足利義政の正室である。20歳の時に産まれた長男がすぐ夭折した際、腹いせにその乳母を殺し、義政の4人の側室を追放している。それから第2子第3子を産むが、どちらも女の子だった。後継者のいない状態が長く続くことを危惧した夫・義政は、仏門に入っていた弟(のちの義視よしみ)を還俗させ、将軍後継者スペアとした。しかしその後すぐに、富子が男の子(のちの義尚よしひさ)を産んだことで事態は複雑になる。

将軍後継者の義視よしみと、我が子を将軍にしたい富子の間で、対立が生まれる。冨子はB面作戦として、義視を懐柔するため実妹の良子よしこを義視の正室にした。しかし作戦の甲斐も無く、管領で義視の後見人・細川勝元と、義尚派で西国の太守・山名宗全そうぜんの間で戦乱が勃発し、畿内近国の守護や国衆を巻き込んでの大戦おおいくさとなった。世に言う応仁の乱である。

そんな応仁の乱の最中の文明5年(1473)、足利義政(37歳)は将軍職を退き、足利義尚よしひさ(9歳)を第9代征夷大将軍とした。幼い将軍の後見はもちろん両親(義政と富子)が務める。富子の思い描いていた天下が実現した。

それから約10年後、若武者になった義尚は、両親からの自立を始める。義政は義尚から政庁を追われ東山山荘(のちの銀閣寺)を築き隠居し、富子は政庁から出て行かなかったためか義尚のほうが出て行き、富子は政治との関わりを断たれた。この3年前に徳政一揆が起きているのだが、その理由はこうだった。20年前から京都七口に関所が設けられ、御所の修復と祭礼の費用の名目で関銭を徴収するようになっていた。しかしそのほとんどが富子のポケットマネーになっており、それを知った民衆の怒りは頂点に達し、徳政一揆は起こったという次第だ。そして富子はこれを武力で弾圧し、押さえ込んだ。富子の資産が今の貨幣価値で60億円だったということからも、その悪政ぶりが窺える。息子の義尚が富子から離れたのは、そんな母親に愛想を尽かしたからかも知れない。

長享3年(1489)に足利義尚が25歳で病死すると、義視よしみの子・義材よしき(母は良子)が将軍の座を継ぎ、第10代征夷大将軍となった。しかし義材もまた、義尚と同じく富子から距離を取った。

富子はふたたび天下を画策する。富子が注目したのは同じ日野一族、武者小路むしゃのこうじの姉妹だった。この姉妹は2人とも現代に名前が伝わっていないので、ここでは「姉小路あねこうじ」「妹小路いもこうじ」と呼ぶことにする。姉小路は、足利義政の庶兄・足利政知まさともの妻だ。政知は元々仏門に入っていたが、将軍・義政の命で還俗し、訳あって今は伊豆の国主になっていた。嫡男は先妻の子・茶々丸で、姉小路の子は次男と三男で伊豆足利家(堀越公方)を継ぐことはないため、次男・清晃せいこうは出家して京都にいた。妹小路は関白・九条政基まさもとの妻で、実子は管領・細川政元の養子となっていた。

富子のシナリオはこうだ。妹小路のツテで細川政元の力を借り、姉小路の子・清晃せいこうを次の将軍の座に就け、義材よしきを追放する。細川政元は応仁の乱では富子と敵対していたので、味方に出来るかどうかは妹小路の説得次第となる。将軍は姉小路の子・清晃が、細川家は妹小路の子・澄之が、伊豆足利家(堀越公方)は姉小路のもう1人の子・潤童子が、それぞれ継ぐ。それぞれのメリットは、武者小路姉妹にとっては自分たちの子が名家を継ぐこと、細川政元にとっては九条家や日野家との結びつきが強くなり細川家も安泰になること、富子にとっては清晃せいこう傀儡かいらい将軍として操り、自らが天下を牛耳れること、になる。関係者すべてがWinWinになる作戦だった。

しかし延徳3年(1491)に足利政知が病死すると、予想外の事件が起きた。政知の長男・茶々丸(20歳?)が、義母・姉小路と三男・潤童子を殺害し、力技で伊豆足利家(堀越公方)の当主となったのだ。次期当主は元々茶々丸に決まっていたが、富子の陰謀により潤童子が跡を継ぎ自分は排除されるだろうことに気づき、父がいなくなったタイミングで事を起こした。

それから2年後の明応2年(1493)、計画は少し変更されたものの富子と細川政元のクーデターは成功した。義材よしきは追放され、清晃せいこう改め足利義澄よしずみ(12歳)は、第11代征夷大将軍に就任した。世に言う「明応の政変」である。しかし再び富子の天下となったのも束の間、その3年後に富子は57歳でこの世を去った。

将軍となった義澄は、茶々丸の討伐を家臣へ命じた。そして誰に討伐させるかで名前が挙がったのが伊勢宗瑞だった。6年前に駿河の今川氏の内乱を収めた実績を買われたものだ。足利義澄は、母(姉小路)と弟・潤童子の仇討ちを伊勢宗瑞に命じた。今川氏の内乱については丸子城🔎で、足利義材と足利義澄のその後については近江八幡城で書いている。

明応2年(1493)に再び駿河へ来た伊勢宗瑞は、今川氏親の全面協力により駿河焼津にある石脇城を与えられ、これを拠点とした。今川家臣の葛山かずらやま氏堯うじたかが与力となり、備後びんごにある伊勢氏の荘園を管理していた笠岡氏を呼び寄せるなど、家臣団も充実した。

伊豆侵攻が開始されて2年後、足利茶々丸は劣勢となり本拠地である堀越御所を捨てて伊豆大島へ逃れた。伊勢宗瑞は堀越御所に入場したが、まだ茶々丸方の残存勢力・狩野氏との抗争が続いていたため、堀越御所近くの韮山に城を築いた。茶々丸も伊豆大島を拠点に反撃を続けた。

足利茶々丸の討伐は、足掛け6年で果たされる。茶々丸の重臣だった狩野氏は、その娘が宗瑞の側室となり一門に加わった。葛山氏堯の妹(または姉)も宗瑞の側室となり、一門となった。伊豆の国主として統治を行う宗瑞は、関東の山内やまのうち上杉氏と戦いつつ、今川氏親の要請があれば今川軍の大将も兼任して各地を転戦した。

しかしながら宗瑞は生涯韮山城を本城とし、伊豆から拠点を移すことは無かった。今川の内乱を収めるため駿河に来た際、宗瑞は伊豆の足利政知とも交流があり、土地を拝領している。その時、茶々丸とも交流があったのではなかろうか? 義澄のめいとはいえ死なせてしまったことを不憫に思い、伊豆で茶々丸を弔い続けたのかも知れない。

永正16年(1519)、宗瑞はこの韮山城で亡くなった。享年63歳。

本丸から、静岡県立韮山高等学校の校舎が見えた。比高35mのはずだが、もっと高い気がする。

伊豆 長浜城

形 態海城址難易度-----
比 高30m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  30m
所要時間-  /  5分
指 定国指定史跡
遺 構曲輪、土塁、堀切
歴 史 天正7年(1579)駿河に侵攻してきた武田勝頼が伊豆との国境近くの沼津に三枚橋城を築城したため、四代目・北条氏政は、韮山城を守る支城として海岸沿いに長浜城と獅子浜城を築城した。
駐車場長浜城跡見学者駐車場 – Google マップ
住 所静岡県 沼津市 内浦長浜176
トイレ駐車場にあり
訪問日2022年8月7日(日) 曇り 時々晴れ時々雨

4.長浜城 登城口

韮山城から約20分で、駿河湾沿いにある伊豆長浜城に到着。

長浜城の案内板

駿河湾に面したこの長浜城は、北条氏政が築いた城として知られている。

三国同盟(北条・今川・武田の同盟)を破棄して今川氏を滅ぼした武田氏は、天正7年(1579)に沼津に三枚橋城を築いた。韮山城からわずか10kmほどの場所であり、危険を感じた北条氏政は韮山城を守るため、韮山城の海の入口である江浦湾と内浦湾にそれぞれ獅子浜城と長浜城を築いた。長浜城のあった場所はもともと見張り台程度の砦はあったようだが、この時海城として築城された。

登城口。少し入りにくい雰囲気がある。

8月の草がウッソウとする時期とは思えないほどスッキリと整備されている。

5.第四曲輪~三の丸

第四曲輪

上に登る。

跳ね橋跡。右側に三の丸、左側に二の丸がある。

先に三の丸へ。

6.主郭部

①二の丸

二の丸の虎口

二の丸の下にある跳ね橋跡。当時は三の丸(青い屋根のある曲輪)から橋を渡って二の丸に入るようになっていた。

二の丸

二の丸の櫓。櫓を通って本丸へ。

②本丸

本丸

本丸から見る景色。淡島の手前は内浦湾。奥は江浦湾で、北の端に獅子浜城があった。左へ出るとさらに大きな湾・駿河湾がある。

本丸の先にある段曲輪へ。

7.段曲輪

段曲輪は4段の階段状で、海に突き出ている。

最下段から段曲輪を見上げる。

帯曲輪を南へ回った先にある安宅船の原寸大模型

8.夕食「港83番地」

晩ご飯は、沼津の「港83番地」にある「ポルトゥス」で。

スズキのアクアパッツァ。

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