【美濃:郡上八幡城】山内一豊の妻・見性院(千代)が幼少期を過ごした城 郡上八幡城と、赤谷山城へ登る

東海
郡上八幡城
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郡上八幡城

形 態平山城難易度-----
比 高90m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  -
所要時間-  /  -
指 定岐阜県指定史跡
遺 構曲輪、石垣、[再建]模擬天守
歴 史 「赤谷山城の戦い」の際に遠藤盛数が陣を敷いた場所に、戦後建てられた城。以降、遠藤氏はこの城を拠点に郡上を統治した。賤ヶ岳&岐阜城の戦いで織田信孝に従ったため、敗北後所領を没収されたが、関ヶ原の戦いで周りが皆石田方に付く中徳川方に付いて勝利し、旧領を回復した。
駐車場郡上八幡城 – Google マップ
山麓の城山公園駐車場と城の北側の駐車場
住 所岐阜県 郡上市 八幡町 柳町一の平659
トイレあり
訪問日2024年4月28日(日)晴れ

1.八幡城

八幡山の麓、城山公園駐車場にある山内やまうち一豊かずとよと妻・見性院けんしょういん千代ちよ)の像。木々の間から郡上八幡ぐじょうはちまん城の天守も見える。

郡上八幡城と山内一豊は何の関係もないが、この城を建てた遠藤氏が一豊の妻・見性院の出身との説が近年有力とされているため夫婦の像が建てられた。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」では、見性院は美濃国不破郡の不破氏出身とされている。それまでは近江の若宮氏出身説が有力であった。実名は「千代」か「まつ」だという。

歴史は現在に伝わる資料からしか推察出来ないので、当然ながら無いものは分からないし、新たな資料が発見されると新説が出てくることがある。さらには研究者の出現や解釈の変化によっても通説は随時アップデートされていく。

郡上八幡城の案内板

永禄2年(1559)に遠藤盛数もりかずによって郡上八幡城は建てられた。麓の吉田川の対岸の赤谷山に郡上の領主であるとう氏の城があり、それを攻めるための陣城として築かれたのが始まりだ。その後盛数の嫡子・遠藤慶隆よしたかが城主となった。盛数の娘で慶隆の妹・千代(見性院)は、2歳から16歳くらいまでをこの郡上八幡城で過ごした。その後織田信長の家臣・山内一豊へ正室として嫁いだ。

天正11年(1583)の羽柴秀吉と織田信孝&柴田勝家が戦った賤ヶ岳・岐阜城の戦いでは、遠藤慶隆は信孝に与した。秀吉が勝利すると慶隆は郡上を追われ加茂郡へ減封(2万石→1万3千石)となり、代わりに4万石で入部した稲葉貞通さだみちにより、現在の郡上八幡城の縄張りへ大改修された。今は、戦国期の遠藤時代の遺構は全く確認出来ないという。

首洗い井戸跡

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)に与した遠藤慶隆よしたかは、西軍(毛利・石田方)に与した稲葉貞通の郡上八幡城を攻め、その後の論功行賞により旧領郡上に2万7千石で復帰した。これは、その際に討ち取った首を洗った井戸だという。

美濃の国衆たちはみな西軍となった岐阜城の織田秀信に従っていたが、遠藤慶隆だけ東軍となったため、結果は慶隆のひとり勝ちとなった。しかしこれは慶隆に先見性があったというわけではなく、郡上八幡城を攻めて城を取り戻したかったので、城主の稲葉貞通も西軍だから東軍に付くしかなかったという事情だった。「両遠藤」と呼ばれ慶隆とは別家の遠藤胤直は織田秀信に従って西軍だったことからも、東軍に与した慶隆の選択が特殊だったことが窺える。

城内へ続く道。帯曲輪か犬走りか、強度を保つために石垣を段付きにしているのかも知れない。今は駐車場と天守を繋ぐ道として使われている。

北の隅櫓

南の隅櫓と天守。模擬天守ながら、日本最初の木造再建天守として知られている。

腰曲輪から天守を見る。

天守の建つ本丸

歴代城主の旗印。左から、遠藤慶隆、稲葉貞通、井上正任まさとう、金森頼時、青山幸道よしみち。前者2名は戦国期から織豊期、江戸初期に再び遠藤氏が城主となり、井上氏→金森氏→青山氏と続き、青山氏のまま明治維新を迎える。

赤谷山城の戦いの説明板

赤谷山城の戦いは、永禄2年(1559)にとう常慶つねよしと両遠藤が戦った合戦となる。東氏の庶流である遠藤氏はこの頃「両遠藤」と呼ばれ、兄・遠藤胤縁たねよりと弟・遠藤盛数もりかずがそれぞれ木越城と刈安城を本拠として主家東氏を凌ぐ勢いで勢力を伸ばしていた。東氏の城は篠脇城であったが18~19年前の篠脇城の戦いで朝倉孝景相手に苦戦したのを教訓とし、東常慶は赤谷山城を新たに築いて移っていた。

八朔の祝い(旧暦8月1日に行う豊作祈願)で遠藤胤縁たねよりは赤谷山城を訪れた。そしてその帰り道で胤縁は、東常慶つねよしの嫡男・東常堯つねたかの手勢による銃撃に遭い、命を落とした。胤縁には3人の息子がおり、長男・胤俊を新当主としてすぐさま報復軍の旗を挙げた。常慶と常堯は、遠藤本家の当主である胤縁の首を取って遠藤氏を混乱させ、その隙に両遠藤を滅ぼそうと考えていたのだろうが、そうはならなかった。若い胤俊だけなら心許なく裏切る者も出ていただろうが、実戦経験豊富な盛数が刈安城から駆け付けて総指揮を執ったため、両遠藤軍は一枚岩になった。

天守から見下ろす本丸。

天守から赤谷山城が良く見える。

赤谷山城

形 態山城址難易度★★★★★
比 高280m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  250m
所要時間2分  /  55分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀切、井戸、切岸、畝状竪堀
歴 史 永禄2年(1559)東常慶と常堯は勢力を拡大する分家の遠藤胤縁を暗殺した。嫡男・胤俊と弟・盛数は東氏に反旗を翻し「赤谷山城の戦い」が起きた。10日間の防戦の末、赤谷山城は落城。東氏本家は滅亡し、分家の遠藤氏が郡上の統治者となった。
駐車場郡上市営愛宕駐車場(148台)
住 所岐阜県 郡上市 八幡町 島谷
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2024年4月28日(日)

2.赤谷山城 登城口~大手曲輪

郡上八幡城から10分ほどで郡上市営愛宕駐車場に到着。階段を登ると愛宕公園がある。

そして階段から向かって左奥(北方向)へ進むと、登城口がある。

整備された山道を登っていくと、最初の曲輪・大手曲輪がある。

3.三の丸

大手曲輪から尾根道を進む。

しばらく歩くと、目の前に三の丸の切岸が出現。

左側にある道を進む。

しかしすぐに道は無くなり、ここからはロープを使って切岸を直に登る。赤谷山城の切岸はほぼ天然のものだという。赤谷山の土壌は鉄を多く含むため赤色をしており、名前の由来となっている。

三の丸(三の曲輪)。[比高:200m]

大手曲輪に立てられていた縄張り図。一部表記が間違っており、図の一番下の曲輪が「3の曲輪」、水の手と連絡している曲輪は「腰曲輪」となる。

赤谷山城は、天文10年(1541)にとう常慶つねよしにより築かれた。前の篠脇城が切岸の無いなだらかな斜面の城で、朝倉孝景に2年連続で攻められ苦戦したためか、この城は周囲が切岸で囲まれた天然の要害だ。

永禄2年(1559)に東親子(常慶と常堯)は遠藤胤縁の暗殺に成功したものの、両遠藤は混乱するどころか遠藤盛数を総大将とし結束を高め、胤縁の仇討ち合戦を仕掛けてきた。赤谷山城は切岸の上の安全な曲輪にあるため、遠藤軍は切岸を無理に登ることはせず、城を取り囲み火矢の攻撃により遠巻きに攻めた。敵が侵入しづらいということは味方も出入りがしづらいことを意味している。城外の味方との連携はおろか曲輪同士の連携も満足に取れない赤谷山城では、情報不足から疑心暗鬼になってくる。

10日間の攻防ののち、赤谷山城は落城した。東常堯は城から抜け出し飛騨へ逃亡した。東常慶は死んだか逃げたか、その行方は分からないという。

4.主郭部

三の丸のすぐ先にある堀切

ふたたび切岸が待ち受ける。「歩道」の表示があるが、ロープがないと絶対登れない道だ。当時もこうやって登っていたのだろうか?

切岸!

切岸! ほぼロッククライミングだ。

ロープの先が細い木の根にくくられている・・・。

①二の丸

切岸を登り切ると、二の丸下の腰曲輪に出た。[比高:230m]

「赤谷方面」と書いてある矢印看板のほうへ降ると水呑曲輪がある。

三の丸以降は、切岸以外に道はない。

二の丸。[比高:240m]

②本丸

ここは、角度は急だがちょっと道っぽい。

お馴染みのロープ。

本丸。[比高:280m]

「赤谷山城跡」の看板。カッコ書きで「東殿山とうどのやま城」と別称が書いてあるが、これは江戸期の郡上藩主が東常慶に敬意を払ってそう呼んだという。

この先は大堀切があるのだが、見に行くのはやめたほうが良さそうだ。

郡上八幡城の天守が見えた。

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