篠脇城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 150m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 150m | ||
所要時間 | 2分 / 25分 |
指 定 | 岐阜県指定史跡、国の名勝(東氏館跡) |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、井戸、切岸、畝状竪堀 |
歴 史 | 千葉氏の庶流・東氏の城。8代230年間に渡り篠脇城を本拠地とし郡上を統治した。康正元年(1455)に関東へ出兵した際、美濃守護代名代・斉藤妙椿に攻められ荘園を奪われる事態が発生したが、東常緑はそれを嘆いて詠んだ歌10首を妙椿に贈った。妙椿はその歌を気に入り、兵を引き上げたという。 |
駐車場 | 古今伝授の里フィールドミュージアム – Google マップ |
住 所 | 岐阜県 郡上市 大和町 牧912-1 |
トイレ | 古今伝授の里フィールドミュージアム内 |
訪問日 | 2024年4月28日(日)晴れ |
1.篠脇城
車は古今伝授の里フィールドミュージアムの駐車場に停めた。栗巣川を渡った先に東氏館跡庭園があり、その奥の山に篠脇城がある。
篠脇城は鎌倉末期の延慶3年(1310)頃、ここ郡上郡を治めていた東氏によって築かれた。東氏は源氏の御家人である千葉氏の庶流で、承久の乱後にこの地にやって来た。当初は阿千葉城を居城としたが領地の関係で篠脇城を新たに築き、4代目・東氏村のときに完成をみた。それから230年間ここを居城とした。
篠脇城の登城口。
①大手道・畝状竪堀
山の斜面をつづら折りに登っていく。折れの回数は20数回、本丸までの道のりは約700m。比高で150mなので、戦国期の山城としてはやや低めだ。
「大手門通り」の看板が立っている。大手道はここから傾斜の緩やかな東側斜面を横移動するように続いている。
後で行った資料館のジオラマ。赤いラインが大手道で、城の東側(写真向かって左側)へ横移動したのち、城の真東にある大手門へ向かって真っ直ぐ斜面を登るようになっている。夜明けとともに攻め込まれ(朝駆けされ)たら危ない城ではなかろうか? のちの築城名人・藤堂高虎がもしこの城を見たとすれば、大手道と大手門の位置を変えろと言ったことだろう。
斜面を横移動する大手道。斜面の下側は切岸、上側は畝状竪堀群になっている。
斜面上側の畝状竪堀のひとつ。地元では「臼の目堀」と呼ばれる、深さ2mピッチ幅8mの畝状竪堀群だ。城の周囲には、30条以上もの竪堀が設けられている。もっとも畝状竪堀が発明されたのは東氏の居た時代より後なので、東氏の頃は斜面に逆茂木を並べて侵入しづらくしていたのだろう。じゃあ誰が畝状竪堀を造ったのかということになるが、東氏を滅ぼして跡を継いだ遠藤氏が篠脇城を支城のひとつとして機能させ、畝状竪堀を増築したと考えるのが自然だろう。
「本丸へ」の矢印看板。ここから斜面を登っていく。
竪堀のひとつにしか見えない大手道を登る。
大手道・畝状竪堀の終わりは横堀になっている。
横堀の上にある三の丸に登り、横堀と畝状竪堀を見下ろす。迫り来る敵兵を狙い撃てる好位置だ。
②主郭部
三の丸。ここは縄張り図やジオラマでは腰曲輪と書かれているが、どちらかというと帯曲輪だろう。
細長く円弧状の三の丸を北側へ回り込み、1段高い二の丸へ。
二の丸。奥に見えるもう1段高い曲輪は本丸。
篠脇城は東常縁の城として知られている。常縁は戦国武将としてよりも、古今伝授の継承者で和歌の達人としての認知度が高い。最も有名なエピソードは、康正元年(1455)に武蔵国多摩川(東京都府中市)で行われた分倍河原の戦いのときのものとなる。鎌倉公方・足利成氏と、その右腕である関東管領・上杉房顕が仲違いして戦った合戦で、東常縁は京の将軍・足利義政に命じられ、援軍として奥美濃からはるばる武蔵へ出陣している。しかしながら、常縁がどちらの味方として行ったのかは分からない。東氏の本家である千葉氏は上杉の味方をしているから上杉方としてなのか、義政の命だから鎌倉公方を助けに行けと言われたのか、肝心なところは不明だ。
そして、美濃国可児郡の斉藤妙椿(守護代・斉藤利藤の伯父で後見人)が軍勢を率い、当主不在となった郡上郡に侵攻してきた。武蔵でその知らせを受けた常縁はトリッキーな策に出る。普通だと軍を率いて郡上へ帰り、妙椿軍と戦って追い払うところだが、常縁は刀ではなく筆を取り、和歌を書いて妙椿に贈った。
《 堀川や 清き流れをへだてきて 住みがたき世を 嘆くばかりぞ 》
妙椿により郡上が占拠されたことを嘆く歌が全部で10首。
妙椿も和歌が大好きだったためこれらを大変気に入り、「返し歌」を常縁に贈って郡上から兵を引いたという。“ペンは剣より強し”を体現した戦国武将は、後にも先にも東常縁だけだろう。
本丸に建つ石碑。「東家之碑」と読める。
東氏は阿千葉城に約90年、篠脇城に約230年、赤谷山城に18年、計340年ほど郡上の統治者として君臨した。その後、最後の当主・東常慶は東氏の庶流で娘婿の遠藤盛数により滅ぼされたが、盛数が常慶の跡を継いだと考えれば遠藤氏の130年も東一族の支配となるので、合計470年となる。それほど長きに渡って同じ一族に統治された地は珍しいのではなかろうか。
本丸は遺構調査中だった。虎ロープが張ってあるので、外から見るだけにした。
③西側遺構
続いて主郭部西側の遺構を見に行く。二の丸の下にある横堀と畝状竪堀群。
今も水を称える井戸跡。山蛭の生息地なので注意して近づく。
2.東氏館跡庭園
国の名勝となっている東氏居館跡庭園。その名の通り東氏の居館があった場所だ。
篠脇城登城口付近から見た居館跡。
城山をバックにした居館跡。池と芝生のみに見えるが、その下に遺構が埋められ保存されている。
230年間ここを拠点とした東氏は、天文9年(1540)に越前の朝倉孝景(義景の父)により攻められた。ジオラマを見れば一目瞭然だが、堀切のある尾根以外で切岸と呼べる法面はない。畝状竪堀の無かった当時は、逆茂木での防御には限界があったのだろう。当主・東常慶は苦戦を強いられた。東氏一門衆・遠藤兄弟(胤縁と盛数)の後詰めにより朝倉孝景を挟み撃ちにし辛くも撃退したものの、翌年も朝倉氏に攻められ篠脇城を諦めることを余儀なくされた。天文10年(1541)に新たに赤谷山に城を築くと本拠地を移し、篠脇城と東氏居館は廃城となった。
東常縁が斉藤妙椿に贈った10首の和歌の碑。左端に妙椿の返し歌もある。
3.古今伝授の里フィールドミュージアム
9時開館の古今伝授の里フィールドミュージアム。来た際は朝早かったのでまだ開いていなかった。古今は古今東西というように通常“ここん”と発音するが、古今伝授は“こきん”と発音する。狭義では「古今和歌集」のことを指し、その読み方、理解の仕方を伝授することをいう。広義では歌道全般の伝授となる。古今伝授は、古今和歌集をメインとしながら、歌道全般の歴史と理解を1対1、もしくは1対2~4人くらいで教える。
古今伝授の系譜は平安時代の藤原定家から始まっている。3代目で二条氏と東氏に伝授され、9代目で二条流が東常縁に伝授された。常縁から先は連歌師や公家が多いが、5代後の細川藤孝や6代後の島津義久といった武士の名も見られる。
東常縁の肖像画。歴史上の著名人となるには肖像画は欠かせない。
三十六歌仙絵屏風。藤原公任が選んだ36人の代表的な歌人。公任は平安時代の人物なので、もちろん東常縁や斉藤妙椿など戦国時代の歌人武将は選ばれていない。
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