【駿河:興国寺城】小田原北条氏の祖・伊勢宗瑞ゆかりの葛山城 泉頭城 興国寺城を巡る

北土塁から見た興国寺城本丸 東海
北土塁から見た興国寺城本丸
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駿河 葛山城

形 態平山城址難易度★----
比 高50m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類スズメ蜂見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ15m  /  35m
所要時間3分  /  10分
指 定裾野市指定史跡
遺 構曲輪、虎口、竪堀、土塁、堀切
歴 史 東駿河の国衆・葛山かずらやま氏堯うじたかの城。今川氏の家臣で、伊勢宗瑞の伊豆侵攻の際、与力となった。その縁で氏堯の妹(または姉)が宗瑞の側室となり、その子・氏広うじひろが葛山氏を継いだ。
駐車場仙年寺駐車場 – Google マップ
住 所静岡県 裾野市 葛山491
トイレあり
訪問日2022年8月8日(月) 晴れ

1.葛山城 登城口

葛山城跡と書かれた看板には“かずらやま”とふりがなが打ってある。人名では“かつらやま”の読み方が多く、歴史専門書の多くも葛山城は“かつらやまじょう”と書かれているが、“かずらやま”が正しいようだ。

城と見間違うような立派な寺、仙年寺。車は仙年寺の広い駐車場に停めさせていただいた。その後ろの山に葛山かずらやま城はある。

本丸に立つ案内板

葛山かずらやま氏はここ裾野市を本貫地とする大森氏の庶流で、藤原伊周これちかを祖とする。大森本家は箱根山を越えて隣国小田原へ進出したが、庶流の葛山氏は裾野に残った。

葛山氏は2度滅んでいるためか、彼らのことが書かれた書物はほとんど残っていない。公家の冷泉れいぜい為広が日記の中で、永正10年(1513)に駿河へ行った際、駿河守護で今川家第9代当主・今川氏親うじちかの一門衆として葛山氏広うじひろの名を記録している。氏広は伊勢宗瑞そうずいの三男で、母が葛山氏堯うじたかの姉か妹であったため、氏堯の養子となり葛山家を継いでいた。葛山氏は元々駿河の国衆で今川氏の臣下にいたが、氏広の代で一門衆に抜擢された。しかも今川四天王ともいうべき4人の一門衆の3番手。他が皆今川庶流(①小鹿おしか氏、②瀬名せな氏、④関口せきぐち氏)であることからも、その特別扱いぶりが窺える。余談だが、瀬名氏の氏澄うじずみが関口氏へ婿養子に入り、生まれたのが築山殿つきやまどの(徳川家康の正室)と言われている。築山殿の名前として「瀬名姫」がよく使われるが、瀬名から来た当主の姫で「瀬名の姫」と呼ばれることがあったのかも知れないが、名字なので姫の名ではない。

今川氏親と伊勢宗瑞は甥と伯父の関係で、幼少の氏親が今川本家を小鹿氏に取られそうになった際、宗瑞は北川殿(氏親の母で宗瑞の姉)の要請で京から一軍を率いてやってきて氏親を助けた経緯がある。宗瑞は一端京へ帰ったが、別件で上意によりふたたび駿河へやってた際、逆に氏親が宗瑞を支援して伊豆の足利茶々丸と戦っている。その時氏親の命で、宗瑞の与力として伊豆侵攻に協力したのが葛山氏堯だった。その後宗瑞は伊豆の国主となり、その優れた軍事能力を買われて扇谷おうぎがやつ上杉氏と山内やまのうち上杉氏が争う関東の戦乱に巻き込まれ、関東方面に領地を拡大していく。小鹿氏との家督争いについては丸子城🔎で、宗瑞が茶々丸と戦った経緯については韮山城🔎でそれぞれ詳しく書いているので割愛する。

しかし宗瑞がどんどん領地を拡大していったことで、その後歪みが生まれることになる。宗瑞は伊豆の国主となった後も、氏親の要請があれば陣代として今川軍の大将を務め、生涯今川氏親の被官の立場を変えることはなかった。氏親もまた、宗瑞から子の氏綱へ代替わりしても一門の立場を変えることはなかった。しかし氏親から子の義元へ代替わりした際、両者は対立する事になる。氏親⇔宗瑞ホットラインが双方途絶えたことで、今川氏にとって北条氏(伊勢氏から改名)は強大な不穏分子でしかなくなり、天文6年(1537)から8年間続く河東一乱かとういちらんと呼ばれる今川VS北条の戦乱が始まった。この時葛山氏広は今川義元の一門衆で重臣の立場でありながら、兄・北条氏綱を支援し、北条方として今川方と戦っているというのがとても興味深い。兄弟の結束力の強さが、その後の北条一族の繁栄につながっていったのだと思う。

登城口は仙年寺の境内、本堂の左側にある。

葛山氏の墓所。ここから山の斜面を登っていく。

葛山城までは10分ほど階段を登る。今でも急な斜面だが、当時はもっと角度のある切岸だったことだろう。

階段を登り切ったところにある堀切

先に右側の「大手」方面へ進み、大手曲輪と東曲輪を見に行く。

2.大手

①大手曲輪

山の麓まで下りた。ここが葛山城の正面玄関・大手口。この案内版は、もともと本丸下に二段ある帯曲輪に立っていたものをここに移設したようだ。

大手道。

②袖曲輪と東曲輪

大手道から左へ入ったところに袖曲輪がある。

大手道をさらに進むと、3つ目の曲輪・東曲輪がある。

仙年寺との連絡路の階段がある場所に戻ってきた。

3.主郭部

①帯曲輪(外)

ここから主郭部。土塁の内側の帯曲輪へ入り、西へ移動する。主郭部の帯曲輪は二重巻きになっており、ここは外側の帯曲輪になる。

竪堀

西側には二重堀切がある。写真は五号堀。その奥に六号堀がある。土砂の堆積等で、当時よりかなり浅くなっているものと思われる。この先は、西曲輪水の手がある。

②二の丸

二の丸の虎口。上のほうは、土塁と土塁の間の狭い出入り口になっている。

二の丸

③帯曲輪(内)

二の丸と直接連絡している本丸西側虎口から本丸へ入ることも出来るが、二の丸とフラットな内側の帯曲輪を通って本丸東側へ回るのがおそらく正規ルートだろう。

④本丸

本丸東側の虎口

本丸

泉頭城

柿田川湧水群 – Google マップ

ここは柿田川湧水群かきたがわゆうすいぐんという泉のある公園。遺構はほぼ残っていないのだが、北条氏の城・泉頭いずみがしら城があった場所となる。

泉頭いずみがしら。小田原北条氏3代目・北条氏康が駿河との国境に伊豆の防衛線として築いた。

湧水広場

第二展望台から見える井戸。常時水が湧き出ている。

池。

八つ橋と呼ばれる公園の散策路。

この石垣の上が駐車場なのだが、戦国期には泉頭城の本丸だった。当時は土の城なので、石垣は後世で作られたもの。

e) 観光案内所

湧き水は、汲んで持ち帰ることが出来る。

観光案内所内にあった泉頭城の復元イラスト。徳川家康は老後を駿府城で過ごしたが、当初はこの泉頭城に入る計画もあったそうだ。家康が徳川家の大御所でなければ、自分の好みで居場所を決められたならば、この城で生涯を過ごしたのかも知れない。

昼食は港83番地にある沼津バーガーで。

興国寺城

形 態平山城址難易度-----
比 高20m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、土塁、天守台
歴 史 駿河の国にあり、今川氏の支配下にあった城と考えられる。天文年間(1531年~)に、今川義元、武田信虎、北条氏綱が奪い合った。
駐車場興国寺城跡 – Google マップ(本丸と三の丸に停められる)
住 所静岡県 沼津市 根古屋428
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2022年8月8日(月) 晴れ

4.三の丸~二の丸

港八十三番地から20~30分で興国寺城へ。車は三の丸の駐車場に停める。ここから見える平地は、道路も含めてほぼ三の丸だった。

左は三の丸、右は二の丸

二の丸の虎口(?)

5.本丸

本丸。本丸の周囲をぐるりと土塁が取り囲んでいる。特に北側の土塁は約10mの高さで残っている。これほどの規模の土塁が残っているのは珍しいだろう。

真ん中辺りが本丸と二の丸の境で土塁と虎口があったが、今は何も無い。

階段が付いており、土塁の上に登れるようになっている。

興国寺城の城主だったと言われている伊勢宗瑞そうずい(北条早雲そううん)と天野康景やすかげの石碑。宗瑞が城主だった説は近年の研究で否定されており、その可能性は低いという。天文18年(1549)に今川義元がここにあった興国寺という寺院をよそへ移転させ、跡地に城を築いたと言われているので、その時に興国寺城が誕生したと考えるのが自然だろう。

明応2年(1493)に伊勢宗瑞が「伊豆の足利茶々丸の討伐」という上意により駿河へ下向した際、駿河守護の今川氏親うじちかは焼津にある石脇城を宗瑞に与えている。その頃駿府には氏親に完全には従わない不穏勢力がいたため、氏親は駿河西部の丸子まりこ城にいた。石脇城も駿河西部にあり、伊豆侵攻の軍事拠点とするにはかなり遠い。とすると、伊豆国境に近い駿河東部に中継拠点が必要となってくる。想像の域は越えないが、興国寺が当時から高土塁を周囲に巡らせた城郭寺院だったならば、その役目を果たした可能性が考えられるだろう。氏親が信頼している葛山氏堯の勢力圏にある興国寺が宗瑞に協力し、伊豆侵攻は開始されたのではなかろうか。

6.本丸土塁

本丸土塁に登る。

江戸期にあったと言われる天守を支えるための石垣。

土塁の外は急峻な切岸になっている。

土塁の東側にある天守台

西の端には天守と対をなす櫓があった。

西櫓台

西櫓台から本丸を見下ろす。

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