【駿河:丸子城】戦国今川氏の祖・今川氏親が若き日を過ごした、静岡の名城・丸子城へ登る

丸子城の鳥瞰図 東海
丸子城の鳥瞰図
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丸子城

形 態山城址難易度★★---
比 高110m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  110m
所要時間3分  /  20分
指 定
遺 構曲輪、土塁、横堀、馬出、虎口
歴 史 駿河西部を守る今川氏館の支城のひとつ。今川氏の被官・斉藤安元が築城し、城主は代々斉藤家が務めた。文明8年(1476)の今川氏の家督争いで、北川殿と龍王丸(今川氏親)が身を寄せた城としても知られている。永禄11年(1568)に武田信玄が駿河へ侵攻すると、武田家重臣・山形昌景が城主となった。
駐車場匠宿臨時駐車場 – Google マップ
住 所静岡県 静岡市駿河区 丸子
トイレ駐車場にあり
訪問日2023年9月17日(日)晴れ

1.登城口

丸子まりこ城は今川氏館(現・駿府城)から西7kmほどの所にあり、西部を守る支城のひとつとして機能していた。今川氏の被官・斉藤安元が築城し、城主は代々斉藤氏が務めたという。その後、戦国今川氏の祖と言われる今川氏親が幼少期から22歳までを過ごし、武田信玄の駿河侵攻後には対徳川氏の攻撃拠点として改修された。

丸子城の麓にある「駿府の工房 匠宿」。国内最大級の伝統工芸体験施設で、今川・徳川時代からの工芸(駿河竹千筋細工・和染・木工・漆・陶芸など)を体験出来る。

矢印看板に従って丸子まりこ城を目指す。

登城口

階段が設けられており、比較的歩きやすい。

2.外曲輪~北曲輪

登城口から7~8分で最初の曲輪に到着。ここには丸子稲荷神社と丸子城の縄張り図がある。

丸子城の縄張り図。犬走りを蜘蛛の巣のように張り巡らせ、各曲輪を連絡している。敵勢力のある西側には出曲輪(馬出うまだし)を備えた攻撃的な城だ。これは永禄11年(1568)以降の武田氏による縄張りで、城主には武田四天王のひとり・山県やまがた昌景まさかげが入っていた。

外曲輪。丸子城の東端にあり、最も広い曲輪。今川期は主要な曲輪だったと思うが、武田期には地形的にあまり重視されていなかったようだ。

外曲輪から大手曲輪へ連絡する土橋

大手曲輪

大手曲輪の先にある北曲輪の虎口。左右の土塁がしっかり残っている。

北曲輪。今川期にはここが本丸だったという。

文明8年(1476)に、今川家第8代当主・今川義忠よしただ(40歳)が遠江で戦死した。義忠の嫡子・龍王丸たつおうまる(のちの氏親うじちか)はまだ3歳だったため、今川庶流の小鹿おしか今川範満のりみつが名代に就いた。その際、義忠の正室・北川殿は龍王丸を連れ駿府の今川氏館を出ると焼津へ赴き、その後斉藤氏の丸子城へ身を寄せている。

範満のりみつは龍王丸の従兄弟にあたるが、母が扇谷おおぎがやつ上杉氏の出身で、太田道灌どうかんや足利政知まさともの後援を受けていた。龍王丸さえ死ねば範満は名代ではなく正式な今川宗家の継承者となれるので、北川殿は身の危険を感じたのだろう。

丸子城で雌伏の時を過ごす北川殿は、龍王丸が次期当主であることのお墨付きを貰うべく、京の足利義政へ申請し、今川宗家の家督継承の御教書みぎょうしょを獲得した。そして長享元年(1487)に龍王丸が14歳(数えで15歳)になると、小鹿今川範満から今川家を返して貰おうとしたのだが、範満は駿府の今川氏館から立ち退くことなく、政務を執り続けた。

困った北川殿は、京にいる弟・伊勢盛時(のちの宗瑞そうずい)に援助をもとめた。盛時は、室町幕府の中枢にいる伊勢氏の中で№2の地位におり、将軍と直に話が出来る立場だった。すぐさま将軍足利義尚よしひさに範満討伐の許可を得ると、今川家を姉・北川殿と甥・龍王丸の元に取り戻すべく軍勢を率いて、小鹿今川範満の居る駿府を攻めた。

範満にとって運が悪かったことに、後ろ立てだった太田道灌は前年に亡くなっており、足利政知は将軍の直臣なので幕府の意向には逆らわなかったため、範満は誰からも援軍を貰えなかった。

かくして範満は盛時に討ち取られ、今川宗家は龍王丸の元に返ってきた。とはいっても、駿府には範満派(扇谷上杉氏派)の勢力がまだ根強く居たため、龍王丸はしばらく丸子城に在城することを余儀なくされた。今川氏館には戻れず、丸子城で今川家当主としての政務を執った。それは明応4年(1495)龍王丸が22歳になるまで続いたという。丸子城が実質的な今川宗家の本拠地となったことから、ここは丸子館まりこかんと呼ばれていた。

北曲輪の北側を守る土塁

北曲輪の北西にある横堀と土塁

北曲輪の先の堀切と土橋

3.二の丸~本丸

二の丸

二の丸のビュースポットから見る丸子の町。駿府は、左の山を越えた先にある。

二の丸の先に本丸があるのだが、大堀切がその間を分断している。一度堀切へ降りてから本丸へ。

本丸から見る二の丸。

本丸の枡形虎口

本丸

永禄11年(1568)駿河へ侵攻した武田信玄は、今川家重臣達を調略し、ほとんど戦わずして駿河の大半を手に入れた。しかし今川氏真は遠江の掛川城へ退避し徹底抗戦の構えで、西駿河にはまだ今川勢力が残存していた。そのため信玄は丸子城を攻撃に主体をおいた前衛の城として改修し、城主には武田四天王のひとり・山県昌景を置いた。

本丸には4つの虎口がある。さっき入ってきた枡形虎口が1つ目。2つ目はここ、本丸の東側にある平虎口。東段曲輪群に連絡している。

3つ目は本丸南側の虎口。帯曲輪というより犬走りか。こちらも東段曲輪群に連絡している。

4つ目は、本丸西側の喰違い虎口

少し分かり難いが、本丸より一段低いところに独立した出曲輪(馬出うまだしがある。先ほどの喰違い虎口に連絡している。

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