【遠江:高天神城】今川と武田に仕えた水軍の将・岡部元信が在番した遠州灘の要衝、高天神城へ登る

東海
高天神城の本丸切岸
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高天神城

形 態山城址難易度★----
比 高100m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ- / 60m
所要時間- / 12分
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、土塁、堀切、切岸、横堀、土橋、竪堀
歴 史高天神城は今川氏親によって築かれ、重臣・福島助春が城代となったのを始まりとする。福島氏衰退後は小笠原氏が入城し、今川氏が滅亡すると徳川家康に属したが、甲斐武田氏の侵攻にあい武田方の城となった。武田氏の勢力が弱まると、高天神城は徳川家康と武田勝頼の攻防の最前線の城となった。天正9年(1581)、高天神城が落城すると、1年後に武田氏は滅亡した。
駐車場南口駐車場 – Google マップ
高天神城 搦手門駐車場(北口駐車場) – Google マップ
住 所静岡県 掛川市 下土方
静岡県 掛川市 上土方嶺向
トイレ駐車場にあり
訪問日2025年11月16日(日)晴れ

高天神城の南口駐車場に、追手門おうてもん登山口がある。“追手門”は“大手門”とも言い、城の正面玄関を指す。

高天神城の想像俯瞰図。高天神城は本丸のある東峰と、西の丸を中心とした西峰の2つの山で構成されている。現在西の丸には高天神社たかてんじんじゃが建っているが、江戸中期までは本丸にあった。「天神社」とは「天満宮」のことで、菅原すがわらの道真みちざねを祀る神社を指す。標高約130mの高い場所にある天神社なので、高天神社と呼ばれたのだろう。その高天神社を取り込む形で築かれた城が高天神たかてんじんだ。最初の城は東峰のみだったが、拡張が進み西峰も城域となった。

高天神城は、戦国初期に駿河するが守護・今川氏親うじちかにより築かれ、重臣・福島くしま助春すけはるが城代となったのを始まりとする。現在高天神城の周囲は平野だが、当時は「菊川入江」と呼ばれるラグーン(潟湖せきこ)に面しており、陸路よりも海路の発達した水運拠点の城だった。助春は海賊(水軍)を編成し、遠江とおとうみ守護・斯波しば氏と戦った。

永正13年(1516)に斯波氏との戦いが収束し遠江全域が今川領となると、今川氏親は新たな統治者に据えた福島助春を一門衆に取り込むべく、その娘を側室にした。氏親亡き後も助春は今川氏の重鎮として、嫡男・氏輝うじてる寿桂尼じゅけいに(氏親の妻)から全幅の信任を得た。

しかし天文5年(1536)、氏輝(23歳)と弟の彦五郎(氏輝のスペア)が同日に亡くなると、仏門に入っていた弟・栴岳承芳せんがくしょうほう(17歳-のちの今川義元)が後継者に推挙された。しかし福島助春にも自身の娘と氏親の間に出来た玄広恵探げんこうえたん(19歳)がおり、それを不服として挙兵した。家督相続を掛けた内乱は、栴岳承芳の勝利に終わる。玄広恵探は討たれ、福島助春と福島一族の大半は没落した。[花倉はなくらの乱]

その後の高天神城は、花倉の乱で栴岳承芳方に付いて今川家中に残った小笠原長氏ながうじが引き継いだ。小笠原長氏は福島一族のひとりで、実名に今川氏の通字とおりじである“氏”が入っていることからも、今川氏から信頼された人物であることが分かる。

1.東峰

①追手門(大手門)

登山口から少し登ったところに追手門跡がある。

案内板にある縄張り図。窪地にある大池は、この辺一帯が「菊川入江」だったころの名残だろう。東峰は標高のラインが狭く急峻なのに対し、西峰は割と緩やかだ。

高天神城の城主・小笠原氏は、今川氏滅亡後は徳川家康に属しており、天正2年(1574)に武田勝頼の攻撃を受けた。その際、切岸の急峻な東側から攻められ城兵の注意が東へ向いている隙に、西側の緩やかな斜面から総攻撃され、瞬く間に西峰全域を乗っ取られた。勝頼から降伏を求められた小笠原氏は、このまま徳川方として戦おうという者と武田に降ろうという者とに割れた。そして勝頼の寛大な処置により、前者は城から安全に退去し、後者は城に残り武田方に降った。この戦で武田勝頼は名を上げ、救援出来なかった徳川家康と織田信長は世間からこき下ろされた。高天神城は、武田に降った者たちのリーダーである小笠原氏助うじすけ長氏ながうじの孫)が城主となった。

追手門のすぐ上にある曲輪・着到櫓跡

着到曲輪は大手道と平行して造られた南北に細長い曲輪で、大手道を進軍する敵兵を上から狙うことが出来る。

②三の丸

大手道をつづら折りに進んでいく。

最初の大きな曲輪・三の丸

土塁で囲われた三の丸は、東の守りの要となる曲輪だ。

三の丸から本丸へ向かう。右側は急峻な切岸の壁。左側は急峻な切岸の崖。

③本丸

本丸虎口。

本丸南側の御前ごぜん曲輪。高天神城城主・小笠原与八郎長忠ながただ氏助うじすけ)と奥方の顔出しパネルがある。その奥のコンクリートの基礎は、昔模擬天守が建っていた名残だという。

天正2年(1574)、武田方に帰属した小笠原氏助うじすけは、今川氏の通字とおりじである“氏”を捨て、武田の通字“信”の入った「信興のぶおき」に改名した。そして対徳川の前線城主として武田勝頼の期待に応えようとしたが、翌年の長篠・設楽原の戦いで勝頼が信長・家康連合軍に大敗したのが分水嶺となり、武田氏は衰退の一途をたどる。設楽原敗北の一因が三河の国衆の離反だったため遠江の国衆である信興も警戒されたこともあってか、後方の駿河国富士郡へ転封となった。代わりに高天神城には岡部元信もとのぶが入った。

御前曲輪から高天神城の東側の平野が一望出来る。当時ここは「菊川入江」で、陸路よりも海路が発達していた。徳川家康は高天神城の補給路を断つため、北から南東まで菊川入江を監視出来る6つの城砦を築いた。天正8年(1580)8月には全て完成したという。北から、小笠山砦・能ヶ坂砦・火ヶ峰砦・獅子ヶ鼻砦・中村砦・三井山砦で、「高天神城六砦ろくさい」と呼ばれている。そのうちの火ヶ峰砦は、ここからでも良く見える。家康による兵糧攻めは同年10月から開始され、翌年3月には高天神城は落城した。

本丸中央部の少し盛り上がった場所にある元天神社。ここは元々、高天神社のあった場所だ。高天神城はここにあった神社を取り込むように築かれた。神社のある場所を本丸として築かれた山城は、他には月山富田城や信貴山城などがある。

山城の防御力は切岸で決まると言っても過言ではないだろう。高天神城東側の切岸はほぼ垂直にそそり立つ断崖絶壁だ。

本丸

岡部元信もとのぶは、駿河するが志太しだ郡岡部郷を本貫地とする今川氏の被官である。元信の父・岡部親綱ちかつなは、天文5年(1536)の花倉の乱で栴岳承芳せんがくしょうほう(のちの今川義元)方として戦った。玄広恵探げんこうえたん方の葉梨はなし城を攻め落としたり、奪われていた重要文書を取り戻したりと大活躍し、戦に勝利した栴岳承芳から自筆の感謝状を与えられた。天文11年(1542)に元信は元服し、義元の偏諱を賜り「元綱」と名乗った。元信の生年は不明だが、元服したのが一般的な数えの15歳だとすると、大永8年(1528)生まれとなる。義元の9歳年下だ。

天文17年(1548)、小豆坂の戦いが起きた。三河侵出を狙う尾張の織田信秀(37歳-信長の父)と、松平宗家・松平広忠(22歳-徳川家康の父)が争った戦いだ。松平広忠を支援する今川義元(29歳)は、太原たいげん崇孚すうふ(52歳-雪斎)を大将とする援軍1万を三河へ派遣した。それに従軍した岡部元信(20歳)は、猪立物いのたてものの兜を被り、筋馬鎧すじうまよろい(馬に装着する鎧)を着けて参陣したという。

元信が24歳~26歳の頃、身内(弟?)との所領争いの裁定で義元から所領を没収されたことに反発し、今川氏から出奔して甲斐の武田晴信(信玄)を頼った。その時晴信から偏諱を賜り”信”の通字を貰ったのだが、「信綱」とはせず、義元から貰った“元”を残して「元信」とした。

数年後、元信(32歳)は再び今川氏に仕官し、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは鳴海なるみ城を守った。織田方の刈谷城を攻め水野藤九郎を討ち取る活躍をしたが、今川義元が織田信長に討たれたため、その勢いで味方の大高おおだか城と沓掛くつかけ城が攻め落とされた。元信は鳴海城を死守し、鳴海城を空け渡す代わりに義元の首を返して貰う交渉を成立させ、駿河へ引き上げたという。

その後、今川氏は三河衆の離反が相次いだ。義元の跡を継いだ氏真うじざねは今川氏を立て直すことが出来ず、寿桂尼じゅけいに(氏真の祖母)が亡くなった永禄11年(1568)には武田信玄から侵攻を受けた。氏真は駿府を追われ、朝比奈泰朝やすともを頼って掛川城へ逃れたが、今度は徳川家康に攻められ降伏し、戦国大名今川氏は滅亡した。その過程で今川家臣たちは次々と離反していったが、元信(41歳)は最後まで氏真と行動を共にした。掛川城退去後は、氏真とともに氏真の妻・早川殿の実家である北条氏のいる小田原へ行き、庇護を受けた。

元信はしばらく氏真とともに小田原にいたと考えられるが、信玄から要請を受けたのか自ら出仕したのか、再び武田家臣となり戦場へ戻って行く。天正元年(1573)の長篠城を巡る戦いでは山県昌景隊にいた。天正3年(1575)の長篠設楽原の戦いでは、武田勝頼を逃がすため元信の息子の小五郎が戦死した。

天正7年(1579)、元信は小山城に加え高天神城も受け持つこととなった。先の戦で亡くなった土屋貞綱(岡部一門で武田水軍の頭領)の代わりに水軍の頭領と、小笠原信興(氏助)の代わりに高天神城の城代とを任され、要衝である高天神城に在番した。ここで注目しておきたいのが知行地(給料)の変化だ。天正2年に1,060石、天正5年には3,380石加増されて合計約4,500石。高天神城入りした天正7年にいくら加増されたか不明だが、恐らく合計1万石は下らないだろう。小田原で庇護されても衣食住は自分で手に入れなければならない。元信は戦場での才覚によりそれを勝ち掴んだ。武田勝頼により大規模な兵糧搬入と兵員の入れ替えが行われ、岡部元信体制が整ったのは天正7年(1579)4月、元信51歳のとき。

天正8年(1580)8月に、高天神城の付城である6つの砦「高天神城六砦」か完成したのは先述の通り。徳川家康は同年10月から高天神城の周辺に土塁と堀を築き始め、兵糧攻めを開始した。それにより菊川入江からの物資搬入は叶わず、陸路からの動線も絶たれた。最後の望みは、武田勝頼本隊の後詰めにより徳川軍を打破して物資を入れる策のみとなった。しかし勝頼が高天神城の救援に来ることはなかった。

元信はこうなることを予見していたのだろう。高天神城の城主となって約半年後の天正7年(1579)秋には勝頼へ書状を出し、武田本隊の後詰めと在番衆の入れ替えを懇願している。しかし入れ替えはなく、まとまった兵糧の搬入も同年11月が最後となった。そして翌年8月の六砦完成と城周辺に築かれ始めた堀土塁により、兵糧を背負った人夫が1人で敵の目を盗んで通り抜けることさえ出来なくなった。

天正9年(1581)1月には元信は家康の陣所に矢文を送った。その内容は、①降伏を申し入れたい、②その際、籠城兵全員の命を保証してほしい、③その交換条件として高天神城はもちろん、小山城と滝堺城も空け渡すつもりである。家康はただちにその矢文を信長へ転送し指示を仰いだ。

信長の決断は、元信の申し出を無視するというものだった。降伏を受け入れれば、家康はたやすく遠江を手に入れる事が出来るだろう。しかしその後甲斐の武田勝頼との戦が待っている。ここで元信たちを無視し、「元信たちは武田に忠誠を誓って籠城を続けたのに、勝頼がそれ見捨てたため皆んな餓死した」というストーリーを演出出来れば、武田に与している者たちは失望して離反していくだろう。そうなればその後の戦が容易になる。家康は信長の決裁に従った。高天神城は武田からも徳川からも見殺しにされた。

天正9年(1581)3月、高天神城に動きがあった。夜9時前後、城兵約130人が追手口と搦手口の二手に分かれて城から討って出た。しかし追手口には徳川方による堀が設けられており、入り込んだ城兵たちを徳川兵は土塁の上と堀の左右の3方向から挟み込み、ことごとく討ち取った。搦手口には大久保忠世ただよが陣を敷いており、出て来た城兵を弟の忠教ただたか率いる選りすぐりの19騎に当たらせた。忠教は先頭を切って突進してきた老兵を切りつけ、家臣の本多主水もんどに討ち取らせた。70歳くらいに見えた老兵が実は城主の岡部元信であることが分かると、忠教は自分で討ち取らなかったことを悔しがったという。

④帯曲輪

本丸下の帯曲輪に、「大河内幽閉の石風呂」がある。石風呂とは、岩に横穴を開けて部屋を造り、焼いた石に水を掛けて蒸気を浴びて楽しむものだ。ここがそのような使われ方をしていたことがあるのかは定かでないが、少なくとも落城前の8年間は大河内おおこうち政局まさもとの牢屋として使用されていた。大河内政局は徳川家康の家臣で、高天神城の城主である小笠原氏に付けた軍監(監視役)だった。

天正2年(1574)、武田勝頼が徳川方の小笠原氏が守っていた高天神城を落城させた際、徳川方で居たい者は城から安全に退去させ、武田方に帰属する者は武田の城となった高天神城に在城する措置をとった。しかし政局まさもとは軍監であるので、小笠原氏が徳川を裏切らないよう監視していなければならない。そのため城から退去することも武田に帰属することも出来なかった。誰の命も取らないことがこの時の勝頼の施策だったので、政局は幽閉されることになる。勝頼から高天神城の軍監として派遣された横田尹松ただとしは、軍監のかがみである政局を手厚く持てなしたという。

高天神城落城後に城内へ入った徳川軍は、600人を超えるおびただしい数の餓死者の遺体と、石風呂でただひとり幽閉され生きている大河内政局を発見した。

的場曲輪は、本丸西側の腰曲輪だ。弓矢や火縄銃の練習に使っていたかは定かでない。

的場曲輪から下っていく。この先は西峰に連絡している。

2.西峰

東峰と西峰の間の鞍部あんぶ。搦手口からの登山道とつながっている。

①井戸曲輪

鞍部から少し登った場所に井戸曲輪がある。「かな井戸」と呼ばれるこの井戸の水は、鉄分を多く含んでいるとのこと。

②二の丸

井戸曲輪の階段を登った先に西の丸があるが、先に右翼の曲輪群へ。

二の丸。3つの段曲輪になっている。

袖曲輪。堀切や他の曲輪との兼ね合いから効果的に配置された曲輪の一つで、武田氏の築城技術を伺い知ることが出来る。

袖曲輪と堂の尾曲輪の間にある堀切

ナオに堀底に立ってもらうとこの深さ。

横から見た堀切。(この堀切だけで写真3枚)

堂の尾曲輪を進む。

堂の尾曲輪の西側には土塁横堀がある。天正2年(1574)に武田勝頼は傾斜のゆるやかな西側から総攻撃をかけ、城を奪取した。その後、弱点である西側斜面の守りをこのように強化した。土塁と横堀のコンボは武田氏のお家芸で、古宮城や小山城など、今でも遺構の残る城は多い。

堀切の先は井楼せいろう曲輪

井楼曲輪から横堀へ降りられるようになっている。

③横堀

井楼曲輪下の土塁横堀。その深さと高さは素晴らしい。高天神城最大の見どころと言っても過言ではないだろう。

土塁と横堀の長さも素晴らしい。

横堀の終点(起点)には土橋があり、二の丸下の曲輪に連絡している。

二の丸下曲輪から左右に道があるが、それは堂の尾曲輪・袖曲輪・二の丸の間の堀切となっており、袋叩きにある仕掛けだ。

二の丸下曲輪にある本間氏清と丸尾義清の墓。天正2年(1574)、小笠原配下の武将として堂の尾曲輪を守っていた兄弟・本間氏清(兄)と丸尾義清は、武田軍相手に奮戦し命を落とした。この墓碑は、江戸中期に子孫によって建てられた。

④西の丸

井戸曲輪に戻って西の丸へ登る。本日は七五三のため、子連れの参拝者が多い。

西の丸

西の丸の土塁。土塁の横に、堀切を介して馬場平へ連絡する道がある。

西の丸の南西にある馬場平ばばだいら

馬場平といっても馬が居たわけではなく、見張り場所、“番場”がなまったものらしい。

甚五郎の抜け道」と呼ばれる尾根道。甚五郎とは、高天神城の軍監として派遣された横田尹松ただとしのことだ。岡部元信以下130名が出陣したのを見届け、甚五郎こと横田尹松は、武田勝頼に報告するためこの道を通って甲斐を目指した。

夜中なので、月明かりがあったにせよ足元はほとんど見えなかっただろう。

横田尹松ただとしは無事に躑躅ヶ崎館にたどり着き、武田勝頼に事の顛末を報告した。勝頼は尹松の苦労をねぎらい褒美を取らせた。その場では受け取った尹松だったが、後日「私は何もやっておりませんので」と褒美を返還したという。

勝頼はなせ高天神城を救済しなかったのか。勝頼は、上杉氏の内乱「御館の乱」により北条氏と敵対したことを背景とし、北条氏と敵対する北関東の佐竹義重と新たに同盟を結んだ。そして佐竹氏に仲介してもらい、天正7年(1579)10月ごろから織田信長との和睦を模索していたからである。[甲江和与]

和睦の理由としては、東を隣接する北条との同盟が破綻し敵対することになったことと、本願寺が織田氏に降参して織田と西を隣接する敵が居なくなったことだろう。この状況で武田氏が織田氏と戦って勝てる見込みはほぼ無くなっていた。和睦をしようとしているのに高天神城に後詰めを出して徳川家康と戦うはめになってしまっては、和睦の目はご破算になってしまう。

高天神城落城後の世間の評価は、「勝頼は信長の武勇を恐れ、武田に忠誠を誓った遠州の名だたる武将を救援することなく餓死させた」というものだった。勝頼の求心力と威信は地に落ち、その後家臣たちの離反が相次ぎ、1年後に武田氏は滅びた。

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