1.佐伯城
形 態 | 平山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 135m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 135m | ||
所要時間 | - / 25分 |
指 定 | 国指定史跡、続日本100名城、大分県有形文化財 |
遺 構 | 石垣、櫓門 |
歴 史 | 豊臣秀吉の家臣・毛利高政の城。高政の一族は近江六角氏の重臣・鯰江氏であるが、主家が滅び織田家臣となり尾張へ移り住んだ際、「森」へと改姓した。その後高政は秀吉の家臣となり、中国攻めの最中“中国大返し”が決行される際、人質として毛利へ差し出された。毛利輝元に大いに気に入られた森高政は毛利姓を与えられ、毛利高政と改名した。朝鮮出兵後の論功行賞により大友氏が改易されたのに伴い、毛利高政は佐伯氏に代わってこの地に入部した。 |
駐車場 | 佐伯市歴史資料館 駐車場 – Google マップ |
住 所 | 大分県 佐伯市 大手町1-2-5 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2023年10月15日(日)晴れ |
1-①三の丸
佐伯駅近くのホテルから約2km。10分と掛からず、佐伯市歴史資料館の駐車場に到着。そのすぐそばに、近世城郭・佐伯城はある。平山城なので、主郭部は山の上にあるが、麓から城郭は始まっている。
江戸期に建てられたままの状態で現存している三の丸御殿櫓門。
後で見学した資料館にあったジオラマでいうと、今いる場所はココ。藩主は通常時には三の丸御殿に住み、有事には山の上にある佐伯城へ移動する。
経済力のある藩であれば、平城に二重三重の水堀を巡らせれば並の山城より堅固でかつ居住性の良い城になるが、限られた予算で城を築くとなると、昔ながらの山を削って高さを生かした城にするのが良いのだろう。
櫓門の内側。
櫓門は枡形虎口になっている。
三の丸御殿跡。ここに藩主が住んでいた。
広い三の丸。右手に見えるオレンジ色の通路の先に大手道はある。
大手道付近にある櫓風のトイレ。
三の丸の右側にある大手道。昭和3年(1928年)に建てられた毛利神社の鳥居の周りに鉄筋が組まれている。改修中かな?
登山道案内板。
登山道は全部で4つあり、そのうち3つは三の丸側から出ている。緩やかで登りやすい「A:独歩碑の道」、江戸期当時の大手道「B:登城の道」、藩主の涼み場 “翠明台”を経由する「C:翠明の道」。
1-②大手道
3つの道の分岐までは一本道を歩く。
最初の分岐。ここを左へ進むと登山道Cの「翠明の道」へ。
翠明の道は、藩主の涼み場“翠明台”を経由し西出丸へ通じる。
最初の分岐をそのまま真っ直ぐ進むと、もうひとつの分岐がある。
ここを右へ進むと、登山道Aの「独歩碑の道」へ。
そのまま真っ直ぐ進むと登山道Bの「登城の道」へ。ここが大手道の続きとなる。
登城の道を進む。
江戸期に築城された当時の大手道。
途中にあった三叉路を左へ進めば翠明の道と合流し西出丸へ通じていた。そのまま進むと二の丸へ通じる。
1-③二の丸と西出丸
石垣が見えてきた。中央に見える橋は、二の丸(左側)と本丸(右側)を連絡する廊下橋。
先に二の丸と西出丸を見に行く。
a) 二の丸
二の丸。
二の丸からの景色。
西出丸へ向かう。
二の丸の虎口。二の丸より一段低く、当時はこの石垣の上に渡櫓があった。さながらトンネルのようだ。
西出丸から二の丸虎口を見る。ここには門があった。
b) 西出丸
西出丸。
櫓台。
西出丸からの景色。
大きな穴。井戸では無さそうなので、貯蔵庫として使用された土壙か? または、太平洋戦争で使用された設備があったとの説もある。
西出丸の虎口。翠明の道から登ってくるとここにつながる。
1-④本丸
廊下橋まで戻って、本丸へ。
本丸の天守台。
本丸。
天守台。築城当初は天守があったと言われる。
天守台に鎮座する祠。
天守台から廊下橋と二の丸が見える。当時は二の丸と連絡する廊下橋が本丸へ入る唯一のルートなので、いざという時は廊下橋を落としてしまえば本丸への侵入は出来なくなる。
東側の階段を降りて、本丸下の外曲輪(帯曲輪)へ。
本丸の石垣。この階段は後世に造られた。
佐伯市の街並み。
1-⑤北出丸
本丸外曲輪の北側の石垣は、4段の階段状になっている。崩落防止のためらしい。
最後に北出丸へ向かう。
北出丸の虎口。4つ目の登山道「若宮の道」とつながっている。途中にある雄池と雌池は、生活用と防災用のための溜め池とのこと。
北出丸。
北出丸は、佐伯城で最も長い曲輪。
先端まで歩いて行くが、なかなか先が見えない。
ここまで。優に100mはあるだろう。
1-⑥佐伯市歴史資料館
佐伯城址のすぐそばにある佐伯市歴史資料館。
敷地内にある毛利家御居間。江戸末期に役所として建てられ、明治期には旧藩主・毛利氏の住居だった。
佐伯市歴史資料館の建屋。
佐伯荘に毛利氏が入部したのは戦国末期であり、それ以前の数百年は佐伯氏が統治者だった。佐伯氏は、鎌倉期以前からいた大神氏という一族の末裔とのこと。大神氏一族の諸氏を見ると、臼杵氏・戸次氏・朽網氏など、大友氏の重臣達の名前が連なる。全国的に有名な戦国武将でいうと、大友四天王ともいうべき重臣の中で特に文武両道だった臼杵鑑速。同じく四天王の1人で武神とも言われ、72歳で亡くなる2年前に“立花”と改姓したのと出家名が“道雪”だったことで「立花道雪」の名で語られる戸次鑑連、などがいる。
栂牟礼合戦の復元想像図と栂牟礼城の模型。栂牟礼合戦とは、大永7年(1527年)に佐伯惟治が主君・大友義鑑に謀反の疑いを掛けられ、臼杵長景を大将とする2万の軍勢に攻められたという合戦。このコーナーでは、プロジェクションマッピングで栂牟礼合戦の解説が聞けた。
毛利高政所有の大鉄砲。それぞれ名前があり、奥から「秋風」「閻魔王」「四海波」という。
毛利高政の甲冑。佐伯藩の初代藩主で佐伯城を築城した毛利高政は、希有なエピソードを持つ人物として知られている。中国(備中)攻めの最中の“中国大返し”の際、羽柴秀吉の家臣だった森高政は秀吉方の人質として毛利氏へ差し出された。その後、毛利家当主・毛利輝元に気に入られ、毛利姓を賜り「毛利高政」と名乗った。秀吉にとって肉親でもないただの家臣なのに人質に出されたのもすごいが、人質先で気に入られて同じ姓を賜るというのは、毛利高政は一体どんな人間力を持った人物なのだろうかと思う。
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