【播磨:三木城】東播磨の守護代、反織田連合軍を牽引した別所長治の三木城を歩く

畿内近国
本丸の別所長治公像
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三木城

指 定国指定史跡
遺 構曲輪、土塁、空堀、切岸、井戸
歴 史 明応元年(1492)頃、赤松政則の家臣で東播磨8郡の守護代となった別所則治により築かれた。東播磨の最大勢力であり、天正5年(1577)の織田信長による播磨侵攻では、当主・別所長治は早くから織田に従属していたが、足利義昭の調略により反旗を翻し毛利方に付くと、播磨の勢力は皆毛利方に付いた。
公共交通三木上の丸駅(神戸電鉄)から歩いてすぐ
駐車場三木市立みき歴史資料館 – Google マップ
住 所兵庫県 三木市 上の丸町4-5
トイレ三木市立みき歴史資料館内(二の丸跡)
訪問日2024年6月20日(木)晴れ

1.三木城主郭部

神戸電鉄・三木上の丸駅のすぐそばにある三木城の案内板

三木みき城といえば、別所べっしょ長治ながはるの城として知られている。織田信長を相手に徹底抗戦し、約2年間籠城して戦った「三木合戦」は、戦国時代好きなら一度は耳にしたことがあるだろう。

別所氏が歴史の表舞台に登場するのは文明16年(1484)2月のこと。赤松政則まさのり(29歳)が京都の足利義政に謁見した際に、別所則治のりはるという人物がそれに同行した。歳は政則まさのりと同年代で、赤松一族だという説もあるが判然としない。則治のりはるは家臣団に見限られた政則を助け、その後赤松氏の捲土重来を成して東播磨8郡の守護代となった。

別所則治登場までの赤松氏のたどった経緯を追ってみる。赤松氏は、初代の円心えんしん(赤松則村のりむら)が室町幕府の三管さんかん四職ししきの一角となって以来、播磨守護として権勢を振るい、ひ孫の満祐みつすけの代には播磨・備前・美作の三ヶ国の大大名になった。しかし嘉吉元年(1441)に満祐が将軍・足利義教よしのりを暗殺した“嘉吉の乱”で、赤松氏は没落の憂き目に遭う。当主の満祐をはじめ弟たちは城山きのやま城で敗死し、満祐の子・教康のりやすも亡命先の伊勢で切腹させられた。詳細は【播磨:城山城】🔎で。

その後播磨は山名氏の統治下となり、赤松一族や赤松旧臣たちは排除され各地へ亡命し、時には討伐の対象となった。それから14年後の享禄4年(1455)、政則(幼名は次郎法師)は京都の建仁寺けんにんじで満祐の甥・時勝ときかつの子として生まれた。しかし両親ともすぐに亡くなったため、政則は家臣の浦上うらがみ則宗のりむねに育てられる。政則2歳のときに赤松旧臣たちが“長禄の変”を起こし、その功績で幕府から赤松氏再興が認められると、赤松最後の当主・満祐に最も近い親族である政則に、白羽の矢が立った。加賀半国の守護として復活した赤松氏は、傅役である浦上則宗のもと、政則に大名の当主としての教育を施し育てていく。そして応仁元年(1467)、政則12歳のときに応仁の乱が始まる。山名氏の主力軍勢が京都へ向かうと、赤松氏はそれを好機と見て手薄になった播磨・備前・美作へ侵攻し、赤松氏の旧領を回復した。

しかし応仁の乱収束後の文明15年(1483)12月、山名氏により播磨の守護所である福岡城(兵庫県佐用町)を攻められた。全軍を福岡城救援に向けるべきとの重臣たちの助言を無視し、赤松政則(28歳)はわずかな軍勢を救援に差し向け、残りの大半で山名氏の本国である但馬を攻める作戦に出た。その結果播磨と但馬の国境・真弓峠で待ち構えていた山名軍と戦闘になり、寒さと雪に不慣れな赤松軍は大敗。守護所福岡城も攻め落とされ、赤松軍は姫路へ逃れた。政則に失望した赤松家臣たちは四散し、山名氏に降る者も多く出た。

政則は幼少期から赤松当主として重臣達に支えられてきたものの、30歳近い大人になっても重臣たちからの指導が終わらないことに反発し、一人立ちしようと脱却を試みたものと考えられる。真弓峠の戦いが無謀な作戦であることは政則も薄々分かっていたのではなかろうか?

侍所所司代(所司である政則の代理)として京都にいた浦上則宗は急遽播磨へやって来、残った赤松家臣たちをまとめて新たな赤松当主を擁立して立て直す計画を進めた。身の危険を感じた政則は姫路を脱出し、堺へ逃れた。そして則宗が幕府(将軍・足利義尚よしひさ)に新当主の許可を得た頃、政則は新たな家臣・別所則治のりはるを連れて秘密裏に堺から京都へ入り、前将軍である足利義政よしまさ(義尚の父)に謁見した。政則は戦では結果を出せなかったが芸能には長けており、得意の猿楽(能楽)や連歌を披露して義政に気に入られたという。

義政の仲裁で則宗と和解した政則は赤松氏当主に返り咲き、共に山名氏との戦いを再開した。幕府(足利氏)は大名たちが力を付けすぎないように同等の対抗馬を用意して争わせ、力を削ぐということを大きな方針としていた。この頃河内紀伊の大名・畠山氏も、義政の謀略によって2つに分裂し争い続けている。赤松氏が2つに分裂してしまうと山名氏に対抗しにくくなるので、赤松氏を一枚岩にするための仲裁だった。

別所則治は新参者だったが、政則の右腕として赤松氏重臣の地位に置かれた。その後赤松氏と山名氏は一進一退の攻防を展開したが、長享2年(1488)に播磨・備前・美作の3ヶ国は赤松領となった。備前の守護代に浦上則宗、美作の守護代に中村祐友すけとも、西播磨の守護代に宇野則貞のりさだ、東播磨の守護代に別所則治がそれぞれ補任した。

比高20mほどの三木城本丸の切岸は、コンクリートで固められていても素晴らしい遺構だ。切岸の上には模擬城壁が設けられている。三木城は南北450m東西55mの範囲の中に、本丸・二の丸・新城・鷹尾山城・宮ノ上要害と主に5つの曲輪があり、それらの連携により要塞化された城郭群だ。

別所氏初代である別所則治は、東播磨8郡(美囊みのう・明石・印南いんなみ加古かこ多可たか神東じんとう加西かさい加東かとう)の守護代となり、本拠とした美囊みのう郡に三木城を築いた。守護代の補任は幕府の命で行われるものなので意義は唱えられないのだが、他の家臣たちは憤ったことだろう。赤松氏再興から30年支えてきた5人衆(浦上・小寺こでら・中村・依藤よりふじ・明石)のうち、守護代になったのは浦上と中村だけ。しかも中村は海路から遠い美作で、浦上は港はあるが京都へ行くには播磨より遠い備前だった。西播磨の宇野則貞は赤松一門衆。港を持ち最も京都に近い東播磨の守護代を得た別所は、たった4年で名実ともに赤松家臣の筆頭になったといえるだろう。小寺・依藤・明石の3氏は播磨に所領を貰ったが、守護代家・別所氏より格下に位置づけられている。

別所則治が美嚢みのう郡を本拠に選んだ理由について私見を述べたい。大名を会社に見立てた場合、3ヶ国の守護・赤松氏は社長、1ヶ国や半国を管轄する守護代(別所・宇野・浦上・中村)は部長、一郡を所領とした小寺こでら依藤よりふじ・明石は課長となるだろう。そして依藤氏と明石氏は東播磨の加東郡と明石郡にそれぞれ入った。則治が選んだ美囊郡は加東郡と明石郡の間にあり、その2氏を管理しやすい場所だと言える。

本丸へはここから登る。

切岸の法面。場所は不明だが、当時は切岸のどこかに腰曲輪があったという。

本丸にあるかんかん井戸。口径3.6m深さ25mの大きな井戸で、石を投げ入れると「カンカン」と音がすることから命名された。本丸の比高は20mなので、すぐ脇を流れる美嚢みの川の水をさらに5m下の深部から引き上げることが出来たのだろう。

城の北西を流れる美嚢みの。この先は一級河川・加古川に繋がっている。ここからでははっきりとした場所は分からないが、写真左のほうの山中に、三木合戦で反織田方最後の攻撃となった大村山ノ上付城がある。この戦いを最後に、籠城する三木城への兵糧の搬入は途絶えた。

本丸にある天守跡と伝わる高台

三木城は2度落城している。1度目は真弓峠の戦いから47年後の享禄3年(1530)のこと。別所氏の当主は別所村治むらはる(28歳-則治のりはるの孫)で、そのころ北の依藤よりふじ秀忠ひでただと争っていた。依藤秀忠は備前の浦上うらがみ村宗むらむね(32歳-則宗のりむねの甥の子)と同盟を結んでおり、別所氏を南北から挟撃した。村治は姫路の小寺こでら則職のりもと(35歳-則職のりもとの孫、祖父と同名)と同盟を結び対抗したが、浦上氏が強大なためおおむね劣勢だった。皆赤松氏の家臣なので赤松当主・赤松政村まさむら(17歳-のちの晴政-政則の孫)が仲裁すべきところではあるが、8歳のときに父を失い家臣たちに支えられてきた政村には、そこまでの影響力はまだなかった。それと政村は強い信念を持っていたため、あえて仲裁に動かず中立の立場で静観していたのかも知れない。

この頃京都では、幕府の管領・細川高国(46歳)とその家臣・柳本賢治かたはる(50歳前後)が争っていた。賢治は波多野はたの3兄弟の末弟で、兄方の波多野氏・香西こうざい氏の勢力が味方にいたこともあり、高国を討ち破って近江へ敗走させた。そしてにわかに京都を支配した柳本賢治に、別所村治は救援を求めた。細川高国と浦上村宗が同盟を結んでいるため、「敵の味方の敵は味方」という理論からだった。賢治は村治の要請を受け入れ、自ら軍を率いて播磨へ来ると、依藤秀忠ひでただのいる豊地といち城を攻撃した。しかし攻城戦が1ヶ月続いた頃、賢治は浦上村宗の放った刺客にあっさりと暗殺されてしまう。柳本陣営は大混乱に陥り、そのあおりを受けた別所軍も浦上-依藤軍に敗北し、三木城は落城した。

ところが翌年浦上村宗むらむねが赤松政村まさむらに討たれ播磨の勢力図が激変したことにより、別所村治は三木城を回復することが出来た。赤松政村にとって浦上村宗は父の敵であり、油断させて確実に仕留める機会を窺っていたのだった。戦国時代は善悪で語れるものではなく、政村の父を亡き者にした浦上村宗にも自身の正義があってのことだが、その話は三木城(別所氏)とは直接関係ないためここでは割愛する。

高台にある別所長治辞世の句碑

三木城2度目の落城は、1度目の落城からさらに50年後の天正8年(1580)になる。別所氏の当主は別所長治ながはる(22歳-村治の孫)で、この頃備後のともを拠点としていた足利義昭(43歳)や西国12ヶ国の太守・毛利輝元(27歳)と同盟を結び、五畿内を治めていた織田信長(46歳)と戦っていた。世にいう“三木合戦”である。合戦の背景を述べるために、長治と信長の出会いから追っていく。

元亀元年(1570)、幕府の重鎮として足利義昭を支えていた織田信長は、各地の大名・国衆へ上洛を促した。その名目は、禁裏修理きんりしゅり(天皇の住居の修繕)・武家御用ぶけごよう(軍需品の調達)・天下静謐てんかせいひつ(平和と社会経済の発展)の3つだった。12歳になる別所長治は、父・安治(38歳)の名代として叔父の重棟しげむねとともに二条御所へ出向き、義昭に謁見して信長にも初対面した。長治の“長”は信長から偏諱を受けたという説があるが、もしそうだとするとこの時だったのかも知れない。ちなみに病床の安治には2人の弟がおり、長弟の別所吉親よしちかは政治を担い、次弟の別所重棟しげむねは外交と軍事を担っていた。

元亀3年(1572)1月に信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを強行したことで、幕府内に反信長勢力が生まれた。さらに同年10月には武田信玄が徳川領・織田領への侵攻を企て、幕府の反信長勢力に信長を討つよう調略を仕掛けた。その結果、足利義昭は信長からの離反を決意した。武田信玄、大坂本願寺顕如けんにょ、三好三人衆(三好長逸ながやす)、阿波三好氏(篠原長房ながふさ)、朝倉義景、浅井長政、といった勢力とともに信長包囲網を築いた。その時点で義昭の決断はおそらく間違っておらず、織田氏の命運が尽きるのは時間の問題と思われたが、天は全振りで信長に味方した。

翌年3月に武田信玄が陣没して武田軍の西進が止まり、三好長逸と篠原長房も相次いで亡くなり三好勢力も戦線離脱した。息を吹き返した信長は槇島城を攻め、足利義昭を京都から追放した。その際信長は義昭の嫡子・義尋ぎじん(1歳)を人質に取り、自らが後見人となり足利氏を存続させることを名目としたため、三好義継が足利義輝を殺害したときのような混乱は起きなかった。それを受け別所氏も、信長擁する義尋に臣従する姿勢を取った。

天正4年(1576)、紀伊にいた足利義昭は毛利領である備後の鞆へ移った。室町幕府初代将軍・足利尊氏たかうじにゆかりのある土地だからそこを選んだという。そして織田氏と同盟関係にあった毛利輝元に、同盟を破棄して信長と戦うよう指示した。信長には義尋を擁立して足利氏を再興する気はさらさらなく、全国の大名たちを織田氏の支配下に置く構想で動いており、義昭にもそれが分かったからだった。3ヶ月検討した結果、輝元は信長と戦う道を選ぶ。大坂本願寺顕如、紀伊の雑賀衆、大和の松永久秀、越後の上杉謙信、備前の宇喜多直家などがそれに参画すると、ふたたび織田信長を倒すための一大包囲網が築かれた。

天正5年(1578)、織田信長より毛利攻めの命を受けた羽柴秀吉が東播磨へ来た。別所氏をはじめ東播磨中の国衆から人質を取り、織田への帰属を誓わせた。三木城は対毛利攻めの拠点として使われ、ここから但馬や西播磨の毛利方勢力への侵攻が始まった。

二の丸跡にある堀光美術館とみき歴史資料館

ところが天正6年(1578)3月、毛利方の調略活動が実を結び、別所長治をはじめとする東播磨の大名・国衆たちはみな織田から離反した。別所氏の中では唯一、外交・軍事担当として織田氏と交流の深かった別所重棟しげむねだけがそれに反対した。その後数十回も説得を試みたものの、長治と兄・吉親よしちかを翻意させることは出来なかったため、重棟は別所氏から離反して秀吉の与力となる。

別所長治の離反に激怒した織田信長は、別所討伐の指示を朱印状にしたため、羽柴秀吉にではなくその配下の小寺こでら官兵衛孝隆よしたか(のちの黒田官兵衛孝高よしたか)へ、秀吉を介して渡した。お前はクビだと言わんばかりの対応に肝を冷やしそうなところだが、秀吉はすでに先手を打っていた。官兵衛を信長の奏者そうじゃ(取次者)である蜂須賀はちすか正勝まさかつへ遣わし、戦況報告をさせていた。その内容は信長の側近である堀秀政ひでまさへ伝わり、秀政は秀吉が不利にならないようにその詳細を信長へ伝えたという。正勝と秀政の連携により信長の怒りを静めることに成功し、秀吉は毛利攻めの司令官を継続した。失敗してもそれをフォローしてくれる味方が多かったことが、秀吉の最大の強みだろう。

東播磨衆の離反により、羽柴秀吉による三木城攻めが始まった。このころの三木城は難攻不落の要塞だったため、合戦の動向は籠城した7,500人の兵糧を確保し続けられるかどうかにかかっていた。同年6月、秀吉は三木城への海上搬路である加古川下流の3城、高砂たかさご城・神吉かんき城・志方しかた城を攻撃した。3城ともよく戦ったが、毛利・別所の援軍を得られず、ひと月に及ぶ攻防の末落城した。

その後織田信忠の主導のもと、三木城を中心として半径4~8kmの場所に付城が築かれた。この時は羽柴秀吉も信忠の指揮下に入った。7~8月に平井山に付城が築かれると、秀吉はそれまでの書写山(姫路)の本陣を引き払い、平井山付城を新たな本陣とした。

毛利輝元もただ手をこまねいていたわけではなかった。同年10月、織田方だった有岡城の荒木村重むらしげが毛利方の調略により謀反を起こした。そして時を同じくして別所軍が秀吉の平井山本陣を強襲した。村重のほうは説得に向かった小寺官兵衛(黒田官兵衛)を捕まえ幽閉するという成果を得たが、平井山のほうは別所治定はるさだ(長治の次弟)が討たれ大敗するという痛手を負った。

天正7年(1579)1月、毛利輝元が荒木村重の救援のため摂津へ向けて出陣することが決まった。このとき甲斐の武田勝頼かつよりはそのまま京都へ攻め込むように輝元へ要請している。しかし毛利傘下の国衆に不穏な動きがあったことで、出陣は見送られた。別所長治は落胆し、翌月には単独で秀吉に和睦交渉を持ちかけた。しかし戦功が欲しい秀吉はこれを拒否。反織田勢力は劣勢になりつつあった。

同年4月、反織田方の一角・丹波八上城が落城し、城主の波多野秀治ひではるは磔により殺された。秀治は別所長治の妻・照子の父だった。そのためか、同年6月に花隈はなくま城にいた雑賀さいか衆の鈴木重秀しげひでが、尼崎城の荒木村次むらつぐ村重むらしげの子)に織田と和睦交渉をすることを持ちかけたが、村次は別所長治が徹底抗戦を主張しており調整は困難だと伝えている。父をだまし討ちで殺された照子が、和睦を許さなかったのだろう。

別所長治公とその妻・照子夫人が眠る首塚

天正7年(1579)9月、三木城へ兵糧を搬入したい毛利方は小寺政職まさもと衣笠きぬがさ範景のりかげらの軍勢を派遣し、三木城の北西にある平田・大村付近にいるの織田勢力を襲撃した。三木城内の別所氏もそれに呼応し、付城・大村山ノ上砦を強襲した。反織田方は付城の守将・谷衛好もりよしを討ち取り、兵糧を三木城内へ搬入することに成功したものの、甚大な被害を負った。組織的な兵糧搬入はこれが最後となり、三木城からの出陣もなくなった。

その後、別所長治は荒木村重とともに降参と助命を秀吉に求めたが、信長によりそれは拒否された。このとき秀吉には、三木城を受け取って別所長治を助命したいという気持ちがあったようだ。三木城は兵糧攻め-干し殺しへと向かって行く。

同年11月、荒木村重の有岡城が陥落した。そのとき村重は尼崎城にいたが、その後行方知れずとなる。

三木城を構成する城郭のひとつ鷹尾山城。別所友之(長治の長弟)が守った城として知られている。天正8年(1580)1月に、別所吉親よしちかの居城・新城とともにここは落城した。新城には羽柴秀長が、鷹尾山城には羽柴秀吉が入城した。そして長治は、秀吉から開城交渉を受けた。秀吉方の別所重棟から使者を要求され、ここで長治・吉親・友之宛の書状を渡された。3ヶ月以上もまとまった兵糧搬入のなかった三木城は、食料は尽き果て、数千人の餓死者が出ていた。長治は開城の条件として、別所一族は自決するが、残った城兵全員の助命を懇望した。

自決する別所一族は10名。別所長治、照子てるこ夫人(長治の妻)、長治の3歳の嫡男、別所友之、友之の妻、別所吉親、波子なみこ夫人(吉親の妻)、吉親の子3名(男子2+女子1)。

長治の条件を了承する旨の書状が三木城に届いた。吉親の妻・波子は、3人の我が子を3刺しで即死させると、自身も口に刀を突き刺し絶命した。それを見た長治は嫡男と照子を刺殺し、友之も妻を刺殺した。7人の遺体を葬礼し、2人は家老の三宅治職はるもとに介錯を頼み切腹しようとしたが、吉親の姿がないことに気づいた。家臣たちが捜すと、吉親は松明を持って櫓へ行き、火を掛けようとしていた。「籠城戦で大将が自決を選ぶならば、城に火を掛けて城兵すべて命を絶つべき」と主張した。これは自焼自害といって、討たれる“人”や落とされる“城”をあらかじめ焼失させることで“敵にそれをさせない”手段であり、負けたことにはならないと考えられていた。しかし「負けでよいから城兵の命を助けたい」というのが長治の思いだった。吉親は火を掛ける前に討たれ、首をはねられた。長治と友之はその報告を受け、安心して切腹した。介錯した三宅治職も、2人のあとを追って切腹した。ここに、1年10ヶ月続いた三木合戦は終わりを告げた。

翌日、城兵はことごとく城内から助け出された。その中から長治の小姓が短冊を届け出た。そこには辞世の句が書かれていた。「今はただ 恨みもあらず 諸人もろびとの 命に代わる 我が身と思えば」

鷹尾山城の土橋と堀切。東側は体育館になっており、西側のみ遺構が残る。

鷹尾山城の主郭部。城の外側である南側に土塁が高く盛り上がっている。

2.這田村法界寺山ノ上付城跡

別所家の菩提寺・法界寺

法界寺の別所長治公像。ライオンズクラブによる寄贈で、本丸にも同様の像が建っている。

法界寺の南側の山に、織田方の築いた法界寺山ノ上付城がある。三木城を中心として南北5km東西6kmの円周上に築かれた40もの付城のうちのひとつだ。羽柴秀吉の配下にいた宮部継潤けいじゅんが守将を務めたと言われている。武将の偏諱名であれば、“継潤”は「つぐひろ」などと読みそうなものだが「けいじゅん」と読む。近江の国衆・土肥氏に生まれた継潤は幼少期に比叡山に入れられ僧侶となり、下山後に浅井郡にある神社の社僧・宮部清潤の養子となったことからその名を名乗った。神社の僧侶というのは現代の感覚では違和感があるが、昔は神社と寺院の区分けは曖昧だったからだろう。

浅井氏の家臣として武士になった継潤は、その後羽柴秀吉の家臣となる。毛利攻めでは秀吉の弟・秀長の右腕的ポジションで活躍し、鳥取5万石の大名となった。

北側の段曲輪。三木城から攻めて来ると、この段曲輪が待ち構えている。

段曲輪を登り切った頂上にある二の丸

二の丸の東側にある本丸。周囲は土塁で囲われている。

本丸の南側にある虎口と馬出。三木城は北にあるのに虎口と馬出が南側にある理由は、この付城は三木城の城兵と戦うためのものではなく、明石方面からくる毛利の兵站軍を襲うためのものだったからだ。

付城の南東に連なる6条もの土塁・朝日ヶ丘土塁。毛利方の三木城への兵糧の搬入を阻んだ。

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