烏帽子形城
| 指 定 | 国指定史跡 |
| 遺 構 | 曲輪、横堀、土塁、切岸、土橋、礎石 |
| 歴 史 | 烏帽子形城は南北朝時代に築かれたと考えられる。(河内入りした北朝の畠山基国か、南朝の楠木正儀か。)室町期以降は畠山氏の城だが、畠山家臣となった旧南朝武士(甲斐庄氏など)が城主を務めた。羽柴秀吉台頭後の天正12年(1584)、秀吉は烏帽子形城を紀州侵攻の拠点のひとつとし、中村一氏を城主とした。 |
| 公共交通 | 河内長野駅(南海電鉄高野線・近鉄長野線)から徒歩24分 |
| 駐車場 | 烏帽子形公園駐車場 – Google マップ 烏帽子形八幡神社駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 大阪府 河内長野市 喜多町 |
| トイレ | 烏帽子形公園駐車場と八幡神社付近にあり |
| 訪問日 | 2025年5月3日(土)晴れ |

大阪府河内長野市にある烏帽子形城は、京都と高野山(和歌山県北部)を結ぶ高野街道沿いの丘陵に築かれた。名前の由来は、山頂が烏帽子の形に見えたことによる。高野街道(鳥瞰図の赤線)からの比高は60m、城域は東西160m×南北140mというコンパクトな城である。
河内長野は紀伊・大和吉野に通じる交通の要衝であり、熊野や高野山などの宗教勢力とつながる拠点だった。さらには紀伊・熊野の米が集まる場所でもあり、室町時代には天野酒を生産しており日本を代表する酒造地となっていた。

駐車場にある縄張り図。主郭部である「D」を、横堀と土塁で取り巻いている専守防衛の城だ。
烏帽子形城が歴史に登場するのは“応仁の乱”前夜である文正元年(1466)のこと。この頃河内守護である畠山氏は、将軍・足利義政の謀略により家が2つに分裂し争っていた。畠山氏内乱の経緯は【越中:増山城&富山城】🔎に書いたので詳細は割愛するが、本来家督を継ぐべき畠山政長(24歳)と、義政が擁立した畠山義就(29歳)とが対立する構図だ。大和の水越峠(奈良県南部)から侵攻してきた義就軍を、政長軍は烏帽子形城に80名で籠城して迎え討った。しかし勢いで勝る義就軍に敗れ、近隣の城(金胎寺城・嶽山城)とともに攻め落とされた。
その後、畠山義就は河内国全土を実効支配したが、それで畠山氏の家督を継いだかというとそうはならなかった。そもそも足利義政が庶出の義就を推挙したのは、畠山氏を2つに分裂させ抗争させることで畠山氏の力を削ごうという意図からだった。義就が全権力を掌握すれば、頭がすげ替わるだけで畠山氏は以前のように一枚岩になってしまう。義就は幕府から畠山本家の当主とは認められず、河内守護も補任されることはなかった。

烏帽子形八幡神社は、烏帽子形城の東麓、高野街道沿いにある。烏帽子形城を鎮護するため、応仁の乱収束後の文明12年(1480)に創建された。

神社近くのトイレから遊歩道が設けられている。

途中の三叉路を左折すると、ほどなく烏帽子形城の城域に入る。

曲輪下の横堀と土塁。

反対側にも横堀と土塁。

土塁と横堀の上にある曲輪に登るとその構造がよく分かる。侵入してくる敵兵を土塁の上から弓矢で攻撃する。敵に狙われそうになれば横堀へ身を隠し、横移動すれば敵の攻撃をやり過ごすことが出来る。この横堀と土塁は、政長と義就の抗争から100年以上経った天正12年(1584)に、羽柴秀吉の重臣・中村一氏により改修されたものだ。

主郭部である本丸下段曲輪。ここが城主の居場所になる。

その上にある本丸上段曲輪。ここには礎石建物が2棟建っていたという。しかしそれは軍事用設備であり、反対側の切岸から来る敵を攻撃するための場所だった。つまり下段曲輪が「本丸」で、上段曲輪は「巨大な土塁」と考えることが出来る。

河内を実効支配していたのは畠山義就だったが、畠山本家は畠山政長であり、名目上の河内守護も政長だった。
応仁の乱収束から10年後の文明19年(1487)、足利義政の跡を継いでいた足利義尚(22歳-義政の嫡男)は、政長(45歳)の嫡男・尚順(12歳)を寵愛しており、この年に行った近江の六角征伐にも尚順を同行させた。義尚が陣没すると従弟の足利義稙(当時は義材)が将軍の座を継いだが、義稙も引き続き尚順を寵愛した。永徳3年(1491)に義稙が行った第二次六角征伐に、尚順(16歳)は軍勢を率いて参加した。
畠山政長–尚順の政長流畠山氏が将軍の側近となれば、それと敵対する義就流畠山氏(畠山義就–義豊)は幕敵となる。明応2年(1493)、六角征伐を終えた足利義稙は、今度は河内高屋城の畠山義豊(この頃には義就は死去し義豊が当主)を討伐すべく軍勢を差し向けた。しかしそのタイミングで日野富子と細川政元によるクーデターが起こる。義稙は幽閉され、京都の畠山屋敷は焼かれ政長は自害、尚順は紀伊へ亡命した。政元は畠山氏ばかり重用する将軍・義稙から、まだ12歳の義澄(最初は義遐)へ頭をすげ替えた[明応の政変]。
幕府の中枢が義稙-畠山氏から義澄-細川氏となったことで、義就流・畠山義豊は細川政元から畠山本家として認められ、幕府に出仕した。河内守護にも補任された義豊は、河内国古市郡(羽曳野)の高屋城を本拠とした。紀伊へ逃亡した尚順は、紀伊国有田郡の広城を本拠とした。立場が逆転した2人は、烏帽子形城を中心とした南河内で抗争を続けていく。

礎石建物址。ここには多聞櫓が建っていたという。

烏帽子形城の東側を通る高野街道は、その先で東高野街道と西高野街道に分岐し、北の京都へ続いている。双方の街道の間には、高屋城跡と若江城跡が見える。

本丸からの眺望。

本丸の西側切岸の下は横堀と土塁になっている。

本丸西側下の横堀と土塁。この辺りの横堀と土塁が最も規模が大きく、烏帽子形城の見所となっている。
高屋城
| 指 定 | 国指定史跡 |
| 遺 構 | 曲輪、土塁、空堀、櫓台 |
| 歴 史 | 応仁の乱後の文明11年(1479)ごろ、畠山義就により築かれた。(異説あり。)義就流畠山氏と政長流畠山氏の抗争に始まり、守護代・遊佐氏、安見氏、三好氏など、城主は約100年間に7~8回も勢力が入れ替わっている。 |
| 公共交通 | 古市駅(近鉄南大阪線)から徒歩10分 |
| 駐車場 | なし 高屋城跡 – Google マップ |
| 住 所 | 大阪府 羽曳野市 古市5-6-7 |
| トイレ | 古市駅 |
| 訪問日 | 2025年5月3日(土)晴れ |

烏帽子形城から北へ14kmほどの所にある高屋城跡。本丸東側の櫓跡と土塁は、古市駅から最寄りの遺構になる。この道路は当時にはなく切り通しにより設けられたものなので、虎口というわけではない。不動坂というネーミングはこの坂の上に「不動明王」と彫られた石碑が鎮座していることによるものだ。

安閑天皇陵古墳の案内板。安閑天皇は聖徳太子より半世紀ほど前の人物。高屋城はこの古墳と堀を囲む様に本丸が整備され、その南側に堀と土塁で区分された二の丸と三の丸が築かれた。城主の畠山義就は、天皇が眠る古墳の外側を居住スペースとし、防御力の高い古墳エリアは有事の際にしか入らなかったという。

木が鬱蒼と茂っているところが古墳で高屋城の中心部、その周囲の低い場所は堀。今は立入禁止となっている。

河内を代表する城・高屋城は、応仁の乱後の文明11年(1479)頃に畠山義就により築かれたと考えられている。
明応2年(1493)の明応の政変により細川政元(27歳)が室町幕府の実権を握ると、畠山義豊(24歳-義就の子)は畠山の家督を認められ、上京し幕府に出仕した。義豊はそれまで基家と名乗っており、この時足利義澄(義遐)から足利氏の通字である「義」の字を賜り、“義豊”と改名した。政元が筆頭となった幕府に義豊が出仕し畠山の家督を得たことで、畿内近国の人々は畠山は細川の臣下に入ったと理解した。将軍足利氏に次ぐ地位である三管領(斯波氏・畠山氏・細川氏)は横一列に存在していたわけではなく、家格の差から一位は斯波氏、二位に畠山氏、三位が細川氏だった。畠山氏が細川氏の家臣となった風に見えたのだから、世間が騒いだのは間違いないだろう。その後、河内・紀伊の情勢が不安定だったため義豊は2ヶ月ほどで高屋城へ戻り、畠山尚順(18歳)からの侵攻に備えた。その際嫡子・聡勝丸(5歳-のちの義英)を京都に残し、重臣・遊佐就盛を傅役に付けた。
明応6年(1497)、遊佐就盛と誉田氏が水利権のことで対立し抗争にまで発展すると、これを好機と見た畠山尚順は誉田氏方の勢力を取り込み、河内へ攻め込んで高屋城を落城させた。畠山義豊は失地回復を図ったものの、2年後に河内十七箇所(河内国茨田郡の荘園で現在の寝屋川市・門真市・守口市)で討死した。尚順の軍事行動は北陸にいる足利義稙(義材)と連動しており、2人は京都にいる細川政元を南北から挟み撃ちにするべく戦ったのだが、尚順は天王寺の戦いで義英-政元軍に敗れた。義稙は味方を表明していた大名たちの大量離反があり、京都へ入らず西国周防へ逃亡した。孤立を恐れた尚順はその後ほとんど戦うことなく、河内の全ての城を放棄し紀伊へ帰った。
一進一退の攻防が続く両畠山氏だが、永正元年(1504)に摂津上守護代・薬師寺元一が主君である細川政元に対して反乱を起こした際、義就流畠山義英(16歳)は政長流畠山尚順(29歳-当時は尚慶)と和睦し、政元からの独立を試みた。高屋城は尚順に空け渡し、自らは誉田城に入った。半世紀も争ってきた両畠山氏の大いなる決断だったが、細川政元の壁は厚く、赤沢宗益を大将とする細川軍に攻められ、高屋城・誉田城ともども攻め落とされた。その後政元は河内を実効支配しようとしたが、それは河内の人々の抵抗に遭い、叶わなかった。足利尊氏以来、河内は畠山氏の領地だったからだ。

永正4年(1507)に細川政元が重臣に暗殺されると、細川氏も本格的な内部抗争に入った。[永正の錯乱]
3人の養子が家督争いにより落命・没落し、翌年最終的に細川高国(24歳)が政元の跡を継いで細川京兆家の当主となった。両畠山氏はその“永正の錯乱”の最中に和が破れ、敵対関係に戻っていた。畠山義英(20歳)は河内富田林の嶽山城に、義英方の重臣・遊佐就盛は高野山に、畠山尚順(33歳)は紀伊隅田(橋本)の霜山城(?)に、尚順方の重臣・遊佐順盛は河内羽曳野の誉田城に入った。この4人の位置関係に注目すると、富田林にいる義英と隅田にいる尚順が北と南で睨み合っているのを、義英方の就盛は尚順の背後である高野山に、尚順方の順盛は義英の背後である羽曳野にそれぞれ入り、双方挟み討ちの体制をとっているのが分かる。
足利義稙(42歳)が大内義興(31歳)に奉じられて上洛すると、幕府のトップである細川高国は内乱で疲弊した細川氏に争う力がないためそれに恭順し、現職将軍・足利義澄を追放して義稙を将軍に再任させた。畠山尚順はすでに妻も子も居たが、高国の姉を正室に迎えて細川氏とのつながりを強化し、幕府に返り咲いた。

それから23年後の享禄4年(1531)、細川高国(47歳)が大物城で討たれた。[大物くずれ]
討った相手は細川晴元(17歳)で、永正の錯乱で高国と争った3人の養子のひとり・細川澄元の遺児だ。この頃、将軍は足利義晴(20歳-義澄の子)で、義就流畠山氏は義英の子・畠山義堯(23歳)、政長流畠山氏は尚順の子・畠山稙長(22歳)が当主だった。高屋城の城主は稙長であるが、城代として畠山稙長の重臣・遊佐長教を配置していた。もっとも長教はこのとき12歳くらいであり、父・順盛が数年前に亡くなったため幼少のうちから跡を継いだが、一族の誰かが名代として遊佐家を運営していたのだろう。
高国に代わり晴元が細川京兆家を継ぎ幕府を主導すると、高国の甥である稙長は、高国の養子・氏綱を擁立して晴元(幕府)と対立した。幕府に恭順する政長流遊佐氏(遊佐長教)は、ここで稙長と袂を分かつ。
義就流の畠山氏&遊佐氏の動向を少し述べる。大永7年(1527)の川勝寺口の戦いで畠山義堯の重臣・遊佐堯家が討死すると、畠山家臣である木沢長政が新たな当主・遊佐某を暗殺および遊佐氏を粛正し出奔。細川晴元の家臣になり畠山義堯と争った。大物くずれの翌年の永禄5年(1532)、飯盛城にいた長政は義堯に攻められたが、晴元経由で本願寺門徒の蜂起を要請し、義堯の背後を襲わせ討死させた。義就流の両氏は、木沢長政の下剋上により滅亡したのだった。
その後木沢長政は細川晴元と敵対し、天文11年(1542)、多分婿である遊佐長教(23歳?)の手により討たれた。畠山稙長の死後、長教は細川氏綱の擁立を継承し、細川晴元と戦った。戦国畿内は敵味方の入れ替わりがとにかく激しい。
長教は池田事件で細川晴元と袂を分かった三好長慶を味方に引き入れると、天文18年(1549)には江口の戦いで、細川晴元と三好宗三を相手に大勝した。長慶にとって池田事件は口実であり、父の敵である晴元はいずれ没落させるべき相手だった。細川氏綱を擁立し晴元と対立する長教は願ってもない傘下であり、長教がいなかったらその後の長慶の活躍はあり得なかっただろう。
晴元を逐った長教と長慶は、畿内を制圧していく。しかし足利親子(将軍義輝-13歳と父義晴-38歳)は晴元と手を切ることが出来ず、晴元とともに近江へ亡命した。将軍不在の京都に拠点を置いた長慶は、足利親子の放った刺客を三度もしのぎ切り、独自の政権を運営し天下を治めていく。長教は戦のなくなった河内で地域支配に専念していたが、1回目の刺客・京都六条道場の法師により暗殺された。河内はふたたび混沌としていく。

二の丸西側の現存土塁。こんな街中に戦国時代の土塁が遺っているというのは、素晴らしい以外に言葉がない。
若江城
| 指 定 | 国指定史跡 |
| 遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、切岸 |
| 歴 史 | 室町期に河内守護代・遊佐長直(畠山政長の被官)の城だったが、畠山義就に攻められ落城した。河内を実効支配した義就は誉田を本拠としたため、若江城は一時廃城となる。永禄11~13年(1568~1570)に飯盛城の三好義継が若江城を改修し本拠を移した。 |
| 公共交通 | 若江岩田駅(近鉄奈良線)から徒歩17分 |
| 駐車場 | 若江本町4丁目コインパーキング – Google マップ |
| 住 所 | 〒578-0943 大阪府東大阪市若江北町3丁目3 |
| トイレ | 最寄りのコンビニ |
| 訪問日 | 2024年7月7日(日)晴れ |

高屋城から北へ12~13kmほどの所にある若江城跡。応仁の乱の最中、若江城は畠山政長の重臣・遊佐長直が城代を務めていたが、畠山義就に攻められて落城した。その後河内は義就が実効支配し、誉田(羽曳野)を本拠地としたため若江城は廃城となる。
若江城が復活するのはそれから100年近く経った永禄11~13年(1568~1570)のとき。廃城となっていた若江城を改修して使用したのは三好義継だった。義継は三好本宗家を継いだ最後の当主となる。父は三好長慶の末弟・十河一存で、永禄4年(1561)に一存が29歳で急死すると、弱冠12歳で家督を継いで十河重存と名乗った。しかしそれから2年後に三好本宗家の当主・三好義興(21歳-長慶の嫡男)が急死した。義興には男の兄弟がいなかったため、従兄弟の中から後継者を選ぶ必要が出てきた。長慶は重存(義継)を選んだ。母が公家のトップである摂関家のひとつ・九条氏の出身だったことが決め手だった。三好氏の未来を重存(義継)に託し、足利義輝に家督継承を認めてもらった翌月に長慶は亡くなった。
足利義輝の偏諱を賜り、十河重存は「三好義重」と名乗った。そして義輝の妹を妻とし、義輝と義重(義継)は義兄弟となる。

翌年の永禄8年(1565)、足利義輝(29歳)は三好義継(16歳-当時は義重)に殺された。[永禄の変]
義継は家臣筆頭の松永久通(22歳-当時は義久)と一門衆の三好長逸(45歳?)を従え1万の兵で京都入りすると、義輝の住む将軍御所を包囲した。義継は「将軍に訴えたいことあり」と表明したが、ただならぬ雰囲気に義輝は門を開けなかった。しばらくして義継は武力突入を決行し、戦闘になる。義輝は塚原卜伝や上泉信綱に師事した剣の達人として知られているが、将軍御所の兵はわずかであり一方的な殺戮により決着した。義輝は数十名の近臣とともに討死。母や愛妾も殺され、近くの寺にいた弟・周暠も殺された。
将軍の殺害は「嘉吉の乱」以来であり、実に120年ぶりのことだ。義輝もよもや殺されるとは思っていなかっただろう。嘉吉の乱については【播磨:城山城】🔎で書いている。
永禄の変の原因は義継の“焦り”によるものと考えられる。三好本宗家の家督を継いですぐ三好長慶が亡くなったため、長慶の後援を受けることが出来なかった。長慶は死ぬ前に弟の安宅冬康を殺害しているが、それは自分が居なくなったら冬康が擁立されて義継派と冬康派に三好氏が分裂することを懸念したものだったが、そのため安宅氏は指導者を失っており本宗家(義継)をよく思ってはいない。阿波三好氏には亡き三好実休の男子が3人おり、当主・三好長治(12歳)、孫六郎(11歳-のちの十河存保)、神五郎ともども、自分たちが義継より幼少とはいえ自分たちこそ本宗家を継ぐべき家柄だと思っていたことだろう。最も深刻なのは、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)の対立だ。久秀は摂津の土豪から長慶に取り立てられ、三好本宗家の家臣筆頭にまでなった人物。家格や領土をほとんど持たない土豪の久秀は身ひとつで長慶に仕え、摂津下郡の守護代から大和守護職相当にまで出世した。バックボーンが何も無く、久秀を戦国大名たらしめるのは“長慶の信頼”だけだからこそ、長慶の期待に全力で応えた。久秀が裏切らない(裏切れない)から長慶も久秀を重用した。しかしその長慶が世を去ると、反発が生じる。長慶の後援がほぼゼロで、自分の組織を築く時間のなかった義継にとって、分裂しかかった三好家臣団の統率は最初の課題だった。しかも足利義輝は長慶がいなくなったのを好機として全国の大名に上洛を促し、三好包囲網を築かんとする動きを見せた。
三好義継は松永久通と三好長逸とともに足利義輝を討つと、諱を「義重」から「義継」へ改名し、久通の諱も「義久」から元の「久通」へ戻させた。「義継」は、“足利義輝を継ぐ者”という決意の改名だった。この頃三好家臣団は畿内全土に勢力を拡大しており、それぞれが大大名となっていた。官位を比べてみるとよく分かる。三好長慶は従四位下だったが、松永久秀と三好長逸も従四位下だった。三好実休は相伴衆(従四位下相当)、義継は左京大夫(従五位下相当)、久秀の嫡男・久通は従五位下だった。各地の大名を見ると守護クラス(将軍の直臣クラス)が従五位下であり、武田信玄(44歳)と上杉謙信(35歳)は従五位下、西国6ヶ国の太守・毛利元就(68歳)で従四位上だということからも、三好家臣団の地位の高さが分かる。義継の青写真は、自分を頂点として大名クラスの家臣たちを統率する体制にしていくことだったのだろう。
しかしそうはならなかった。120年前に将軍・足利義教を殺害した赤松氏がその後どうなったかを学んでいれば、将軍殺害がいかに悪手かが分かったはずである。義継は、120年前と永禄の世では足利将軍の威光は違うと思ったのかも知れない。しかし、天皇を傀儡とした天下布武(五畿内を武士が治める)は、足利尊氏が初めてなし得た功績であり、平清盛も源頼朝も北条義時もなし得なかったものだ。武士たちにとって足利ブランドは潰えることのない求心力を持っていたのではなかろうか?
その後三好氏は各地の大名たちの反発を受け、急速に衰退していく。

若江城の真北にある若江鑑神社。創建は不明だが、854年には存在しており、1200年以上の歴史がある。若江城が築かれた時でも600年以上の歴史があり、畠山政長はこの神社を信仰するため、神社を取り込むように若江城を築いたと考えられる。若江城を復活させた三好義継もまた、この神社を信仰した。

若江鑑神社北側の土塁と堀跡。土塁は灌木に覆われて何も見えないが、塀の右側の道は一段下がっており、堀の名残が感じられる。
私部城(交野城)
| 指 定 | 国指定史跡 |
| 遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、切岸 |
| 歴 史 | 政長流畠山氏の家臣・安見氏の城。私部城は、全国的には交野城と呼ばれる。安見本家の当主は安見宗房で、私部城はその一族の安見右近が城主を務めたという。宗房が安見氏を離れると、安見氏の名跡と権力基盤は右近が引き継いだ。 |
| 公共交通 | 河内磐船駅(JR西日本-学研都市線)から徒歩26分 |
| 駐車場 | タイムパーキング 私部5丁目 – Google マップ |
| 住 所 | 大阪府 交野市 私部6-13-11 |
| トイレ | 最寄りのコンビニ |
| 訪問日 | 2024年7月7日(日)晴れ |

若江城から北へ18~19kmの所にある私部城跡。私部城は全国的には交野城と呼ばれている。古文書には「キサイヘノ城」や「カタノ」と出てくるので、当時からどちらの呼び方もあったようだ。「交野」は河内国交野郡(交野市と枚方市)を指す名称で、交野の要衝であったことから外部の人は「交野城」と呼んだのだろうが、交野には他にも数多の城があるためそれと区別する「私部城」と、城主や地元民は呼んでいたのではないかと考える。

私部城は安見右近の城として知られている。当時の安見氏の当主は安見宗房で、右近はその一族と目される。宗房の弟か息子かは不明だが、安見氏の本拠に築かれた私部城を任せられる、信頼出来る存在だったことは間違いない。
安見宗房が歴史の表舞台に登場するのは、天文20年(1551)に遊佐長教(32歳?)が足利義輝(15歳)の放った刺客に暗殺されたあとになる。長教の嫡子・信教はまだ3歳だったため、家臣団の評定により遊佐一族の遊佐太藤が名代に就いた。河内の最高権力者である長教がいなくなり、それに代わる統率力のあるリーダーが不在だったことで、河内の権力争いは表面化した。遊佐氏の有力被官である萱振賢継、遊佐氏の奉行人を務めた田河純忠、山城国綴喜郡(京都府八幡市)を本拠とする野尻宗泰などを安見宗房は次々と粛正し、勢力を拡大していった。最終的に河内守護代家・遊佐氏の家臣団の中で、丹下盛知と走井盛秀に次ぐ3番手の重臣となった。

永禄3年(1560)、安見宗房は遊佐信教から遊佐姓を与えられ、遊佐宗房と名乗った。それにより、一族の安見右近が安見氏の名跡と権力基盤を受け継いだ。
永禄5年(1562)の久米田の戦いで、宗房は遊佐氏の主君である畠山高政や紀伊奉公衆・湯河直光らとともに三好氏と戦い、阿波三好氏当主・三好実休を討ち取る戦果を挙げた。しかし続く教興寺の戦いでは大敗を喫し、河内からの退却を余儀なくされ、宗房の地位は低下した。
永禄11年(1568)、足利義昭が織田信長に奉じられて上洛すると、畠山秋高(政長流畠山氏当主-高政の弟)は幕府に出仕した。南河内・紀伊・大和宇智郡の守護代に補任された宗房も一緒に出仕し、奉公衆に取り立てられた。
元亀2~3年(1571~1572)に、三好氏と松永氏が私部城を攻めている。松永久秀に謀殺された安見右近に代わり、名代の安見新七郎が籠城戦を取り仕切った。織田信長軍(大将・佐久間信盛と副将・柴田勝家)の救援が間に合い、共に撃退したという。

本丸は私有地で立ち入り不可。ロープの外から写真だけ撮らせていただいた。


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